浮浪者
しばらく時間が経った。
「……い」
低い声がかけられた。
はっとして顔を上げると、そこには、さっき眠っていると思っていた浮浪者が立っていた。つんと鼻をつく臭いを放ちながら、浮浪者はマリアラをのぞき込んでいた。
「邪魔だよ」
「え……あ、」
「よそ行きな」
浮浪者はしっしっと手を振った。持っていた筵を丸めたもので、マリアラの肩を軽くたたいた。
「邪魔だっつってんだ」
「……すみません」
ほんのわずかな熟睡でも、少し体力が戻っていた。まだぼーっとしていたので、悔しさも哀しさも、身の危険も今は感じなかった。お邪魔しました、と頭を下げて歩きだすと、浮浪者の静かな声がする。
「あんたみてえな姉ちゃんがこんなとこで寝てると邪魔なんだよ」
もう行こうとしているのに、どうして繰り返すのだろう。
少し目が覚めて、マリアラはそちらを見た。浮浪者の顔は暗さと汚れでほとんど見えない。
「なんつうか、夜にね、剥き出しになってておちつかねえのさ。擦り減りそうな気がしていたたまれねえ。そこの」浮浪者は丸めた筵で少し離れたビルを指した。「階段降りると扉があっから。ボイラー室っつうのか。鍵が壊れてて。夜の見回りがさっき終わってな、朝まで誰もこねえから、寝るならそこにしな」
「……え、」
「早く行きなよ、邪魔だっつってんだろうが」
浮浪者は丸めた筵でマリアラを追い立て、マリアラはまだぼんやりしたまま、浮浪者が指した方へ歩きだした。ずっと握り締めていた十徳ナイフがぽろりと落ちて、慌てて拾い上げる。
「あ? ナイフだな」
浮浪者が言った。マリアラはうなずいた。バネが壊れたコルク抜きが飛び出したままになっている。赤い塗装がべろりとはげたところが痛々しい。
浮浪者は素早い動きでマリアラの手からそれを取り上げた。マリアラはぞっとする。
「……あのっ」
「あー?」浮浪者はじろりとマリアラを見た。「でえじなもんか」
「ええ、あの、……とても大切なものなんです」
「それにしちゃ壊れてんな」
「……そうなんです」
ぺしゃんこになりそうだった。あのナイフを他の人間が持っている。このまま取り上げられたらどうしようと、心配でたまらない。浮浪者はじろじろと十徳ナイフを見ていたが、再びマリアラを追い立てるように歩きだした。ビルの側面に、なるほど、半地下に続く短い階段があって、その下に扉が見えている。浮浪者はマリアラをその階段に追いやり、自分は階段の上にどっかりと座った。ぼろぼろの衣類のどこかから魔法のように取り出したのは、ラセミスタが持っているような工具セットだ。
「ねぐらはねえけど、仕事はあんだよ」
浮浪者は片目にはめるタイプの拡大鏡まで取り出して右目にはめた。ちき、ちき、と工具が音を立てる。マリアラは固唾を飲んでそれを見守っていたが、ほんの数分で、浮浪者は工具をおいた。コルク抜きを何度か動かして、ぽい、とマリアラに放る。
「……ほらよ」
「ありがとう……」
十徳ナイフは、ほとんど元どおりになっていた。蝶番の一部がごくわずかに変形していたけれど、どのナイフも今までと変わらず滑らかに出し入れできる。塗装が剥がれていなければ、一度壊れたことなど全く分からないだろう。マリアラはナイフを握り締め、浮浪者を見上げた。
「……ありがとう、ございます」
「邪魔だよ」浮浪者は繰り返した。「早く入んな。目障りなんだよ、あんたみてえなのが剥き出しになってるとさ」
「すみません」
マリアラは扉に手をかけた。でも、鍵がかかっていた。がちっと言う手ごたえに落胆すると、浮浪者がため息をつく。
「管理人もなあ、いつまで経っても覚えねえなあ、直しても無駄だって、何度も何度も教えてやってんのになあ」
言いながら降りて来て、かちかちかち。工具を使ってあっと言う間に開けてしまった。扉を開いて、マリアラを中へ追いやる。
「何時だと思ってんだよ」ぶつぶつ言うのが聞こえた。「擦り減って、汚れて、擦り傷だらけになったらなあ、そういう傷は治らねえんだ。治らなくなってからしか気づかねえんだ、まったく」
「あ――」
ばあん、と扉が閉められてしまった。礼を言うこともできなかった。なんて一方的で、なんて理不尽な親切だろう。
あの浮浪者が、マリアラをここに閉じ込めて、警察に通報したならば、あの莫大な報奨金はこの人のものになるのだ。そうされたらどうしようかと、一応思いはしたが、それを自分が信じていないことに気づいた。十徳ナイフを直してくれた。ただそれだけで、もう通報されても十分だ、という気持ちになる。
と、外から扉がどん、と叩かれた。
「鍵くれえ閉めろ!」
「ああ、はい、はい」
意味があるのだろうか、と思いながら、言われたとおりに閉めた。それっきり、扉の外は静かになった。
ボイラー室は狭く、真っ暗だった。マリアラは小さな明かりを出して、座れる場所を探した。すぐに、機械の陰にちょうどいい場所があった。あの浮浪者は、いつもここで寝ているのだろうか。見回りがくるのをあの場所で待っていて、見回りが行ってしまったらここに入るのだろうか。今日はマリアラのために、譲ってくれたのだろうか。
その場所に座り込んで、十徳ナイフをなでた。
べろりとはがれた塗装はどうしようもない。でも、ナイフがちゃんと戻るようになったのが、嬉しかった。ありがたいと、思った。
扉の外で、話し声がして、目が覚めた。
「いつもここに入るだろう。今日はなんで外で寝てるんだ」
誰かが低い声で言っている。
「鍵ィ直してあってさあ、入れねくて」
答えたのは浮浪者の声だ。訊ねた声が、笑った。
「おまえには鍵を開けることくらい簡単だろ」
「今回のは最新式でさ。年は取りたくねえもんだ」
「どけ」
誰かが言って、少し騒動があった。浮浪者がぶうぶう言う声が続く。
「乱暴にすんなってえ。訴えるぞこら」
「うるせえ」
がちゃ、と取っ手が音を立てる。
がちゃ、がちゃがちゃ、がちゃ。
「……開けろ!」
「だからぁ、開けられてたら中入って寝てるっつうの」
「……っ、この!」
「おっとあぶねえ」
浮浪者の声が遠ざかった。がちゃがちゃがちゃ、と扉が激しく音を立てた。かなり遠くに移動した浮浪者の、からかうような声がした。
「警察ならビルの所有者に命令して開けさせろやー」
「それは困る」
三つ目の声が言い、マリアラはギクリとした。
ジレッドの声だった。
やっと目が覚めた。浮浪者のほかに、少なくとも三人の男が外にいた。浮浪者に始めに声をかけた男、乱暴にドアをがちゃがちゃやった粗野な男と、ジレッドだ。扉が開いたらどうなるだろう、やっとそこに考えが至って、ぞっとした。警察、と、あの親切な浮浪者の人が言っていた……
――やっぱり、記者じゃなかった?
「ここを捜すには、令状取るしかないですね」
初めに浮浪者に声をかけた男の声が言った。ジレッドがまた、「困る」と言った。
「令状取るとアナカルシス警察を通すことになる。それは困る」
「壊すか」粗野な男が言う。
「勘弁してください。いくらなんでも器物破損までは握り潰せませんよ」
「じゃあどうすれば」
ふああああああ、と、あくびの音がした。
「疑問なんだけどな」浮浪者の声だ。「鍵直してあってえ、俺さえ入れねくてえ、見回りだってちゃんとしてる扉にさあ、なにが隠れてると思うんだ? なに、鼠でも探してんのかあ、こんな夜中になあ、ご苦労なこったなあ」
またあくびの音。
「お巡りっつうのも大変だあねえ、いくらもらったんだあ? アナカルシス警察を通すのがまずいって、おまえさん警察じゃなかったんかい」
「うるさいよ」
お巡り、と言われた男がため息をつく。アナカルシスの警官に案内役を頼んだジレッドと粗野な男がマリアラを捜し回っている、という状況だろうか。と、ばあん、と扉がまた鳴った。警官が悲鳴を上げる。
「ベルトランさん! 勘弁してください、このビルの持ち主はこの辺の有力者なんですよ!」
「じゃあどうにかして開けろ!」
「ここにゃいませんよ! あの爺さんが開けられない鍵、どうやって開けてもぐりこんだって言うんです!?」
「ここで騒いでる間にさあ、今頃ぁどっかの隠れ場所から逃げ出してるんだろうなあ。はははあ、いーわいーわ、おいらぁあんたらみてえなのが困ってんのでえ好きだわあ」
「うるせえ! あっち行ってろ!」
ベルトラン、と呼ばれた男が吼える。近所迷惑だろうに、とマリアラは思った。心臓はどくどくとはねまわっていたが、不思議と落ち着いていた。ようやく肝が据わったのかもしれない。ここには逃げ場がないからだ。いまさら慌てたって、どうなるものでもない。
たぶんあの浮浪者の人が味方をしてくれたからだろう。そう、冷静に考えた。助けてくれた人がひとりいた。それだけで、絶望感が少しは薄れる。
ジレッドとベルトラン、それから買収されたアナカルシスの警官は、それから少しして立ち去った。
マリアラは少し、考えた。もう少ししたら、ここから出るべきだろうか。ボイラーの陰から出て、そうっと足を忍ばせて、扉に近づいた。と、どさり、と扉が動いた。誰かが外から身をもたせかけたような音だった。
「気の毒だがなぁ……」
独り言のような、浮浪者の声がした。
「まだ出られねえわ……警官が増えてら。変だなぁ、あにやったんだあ? 凶悪犯でも捜してるみてえな騒動だ」
扉の上にはめられた磨りガラスに光がよぎった。マリアラは扉に背中をもたせかけた。囁く。
「別に何もしてないんです」
「そうだろうな。擦り減ってねえもん」
さっきからこの人の表現はよく分からない、とマリアラは思う。
「何が擦り減るんですか」
「そりゃおめえ」浮浪者は呆れたようだ。「いろんなもんがだ。当たりめえのこと聞くなよ」
「当たり前なんですか」
「そりゃそうだろ」
「ありがとう」
言うと浮浪者はますます呆れたようだ。「あに言ってんだあ、あんた」
「ナイフを直してくれて。親切にしてくれて。さっきの人達に、嘘をついてくれて。助けてくれて、ありがとう」
「助かってねえだろ。気の毒だがなぁ、あっちで、なじみの奴らが連行されてるわ……筵引っ剥がして中身見て、って、ひとりひとりやるみてえだな。おいらもその内呼ばれるだろ」
「そうですか……」
「人海戦術だな。この辺のビルは大体同じ人が持ってるからなあ、朝にゃあいっせいに令状出て、ひとつひとつ家捜しされんだろうなあ……でもまあ、さっきの二人組に捕まるよりゃマシだ」
「……そうですか」
「今捜してんのは、アナカルシスの警察だわな。いくらなんでも擦り減ってねえ娘さん相手に乱暴はしねえだろ。でもさっきの二人組はだめだわ、特にあの、べる、とかって奴はだめだ」
だめだだめだ、としみじみと繰り返して、浮浪者は黙った。本当に、危ないところだった、と、マリアラは思った。あのままジレッドの車に乗り続けていたら、近々ベルトランとも遭遇していたはずだ。だめだだめだ、としみじみと繰り返されるような男と、会わずにすんで本当によかった。
ジレッド、そして、ベルトラン。
熟睡のおかげか、それとも、誰かと話すことができたからだろうか。ようやく、ジレッドの声をどこで聞いたのか、思い出したような気がした。
ぴかぴか光るおしゃれな革靴。そして、もう諦めろ、と言った声。モーガン先生の部屋に来て、もう諦めろと言って、談話室の什器や観葉植物などを破壊した男が、ジレッド、という名ではなかっただろうか。




