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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の失踪
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逃亡

 すぐ着きますよ、という割に、ジレッドの車はウルクディアの町を疾走したまま一向に到着する気配がない。


 ジレッドという名に聞き覚えがあるような気がする。声も、なんだか、聞き覚えがあるような気がする。

 そんなそこはかとない違和感を覚えながらも、マリアラは、落ち着いて考えることができなかった。他の車もまだちらほら走っているのに、ジレッドの運転は全く傍若無人だった。急加速したかと思うと減速なしで角を曲がり、交差点では舌打ちとともに急停止。その繰り返しで、なんだか気分が悪くなってきた。今にも車や街路樹や通行人に接触しそうで気が気ではない。ポケットの中で握り締め続けてきた十徳ナイフもじっとり汗ばんでしまっている。

 数回目の急カーブをなんとか乗り切った時、ついにたまりかねて訊ねた。


「あの、窓、開けてもいいですか」

「どうぞ」言いつつジレッドは運転席のボタンを操作して窓を開けてくれた。「そうだ、到着前にお聞きしてもいいですか」

「え、あ、はい」


 ポケットの中から十徳ナイフを取り出して、両手に握りしめながら頷く。交差点をいくつも通るうちにわかってきた。交差点の頭上、よく目立つ位置に張り出している、赤、黄色、緑のランプは、車の進行や停止を指示するもののようだ。今は赤が出ていて、ジレッドは停まっている。今のうちにと急いで深呼吸をする。


 ジレッドは前を向いたまま、何げない口調で言った。


「同行者の方はどうしました」

「同行者……」マリアラは少し考えた。「ダスティンにも驚かれたんですが……相棒は、エスメラルダに残っているんです」

「は?」

「何か、心当たりとか、ないですか。なんでもいいんです、ほんの少しだけでも……フェルド……フェルディナント=ラクエル・マヌエルが、今どうしているか」

「……」ジレッドは少し考えた。


 ランプが緑に変わり、車が飛び出した。まだ横断車が交差点に残っていて、マリアラは十徳ナイフを胸の前で握り締める。このままでは捕まる前に事故で死ぬかもしれない。


「……フェルディナントの話は聞きませんね」


 そう言われて、マリアラは落胆した。「そうですか……」


「私がさっき聞いたのは、フェルディナントのことではないんです」

「……」マリアラはジレッドを見た。「じゃあ……」


 ウィナロフのことだろうか。

 どうにかして、ウィナロフに連絡を取らなければならない。でも、どうすればいいだろう? エスメラルダの雑誌記者に、元とはいえ狩人を紹介するというのは、大丈夫なものなのだろうか――。


「彼はどこへ行ったんです?」


 ジレッドが訊ねた時だった。

 道路の凸凹に車が跳ねて、十徳ナイフが手から擦り抜けた。


「……あっ!!」


 開いていた窓から、キラキラ光って飛び出した。マリアラは息を詰め、それから、ジレッドに飛びついた。


「停めてください! 停めてっ、お願い!!」


 その声は我ながら悲鳴じみていて、ジレッドが足を踏み込んだ。車がすごい音を立てて停まった。シートベルトががちっと言ってマリアラの体をシートに縫いとめてくれなかったら、きっと正面の大きなガラスから体が飛び出していただろう。でも、構ってはいられなかった。シートベルトをがちゃがちゃやって何とか外し、マリアラは助手席の扉を開けると同時に転がり落ちた。


「どうしたんです!?」

「大事なものを落としてしまって……!」


 半泣きになりながらマリアラは今きた道を駆け戻った。光を出すのも無意識だった。あのナイフがなかったら、もう、すべてのことに立ち向かえるとは思えない。後ろから来た車が驚いたように大きく蛇行してマリアラを避けて行く。その向こうから来ている車のヘッドライトとマリアラの頭上に浮かんだ光がアスファルトを照らし、道の端っこに、きらっと光る何かが見えた。


 かけよって見たが、ガラスの破片だった。


「どうしよう……!」

「何やってるんだ。逃げる気か」


 ジレッドの苛立った声がする。ジレッドがすぐ後ろまで来ていることに唐突に気づいた。マリアラを捕まえようとするかのような動きだと、思う前に、マリアラはそれに気づいた。

 歩道の仕切りの下にナイフが落ちていた。


「あった……!」


 仕切りの下に体を差し入れる。上から来ていたジレッドの腕が仕切りにぶつかってガンといった。ちっ、という舌打ちの音。マリアラは十徳ナイフを握り締め、愕然とした。

 多分ジレッドの車の後ろのタイヤに轢かれ、弾かれてここに落ちたのだろう。赤いビニールの塗装がはげ、べろりと皮がむけていた。蝶番が歪んで、ぐるぐるになったコルク抜きが飛び出している。


 ――ぐるぐるになってるのがコルク抜き、それでこれが……


 ひとつずつ引っ張り出しては解説してくれたフェルドの声が耳によみがえる。

 フェルドのことじゃなかった、と、唐突に思った。


 ――同行者はどうしたんです。

 ――彼はどこへ行ったんです?


 ウィナロフは指名手配されていない。マリアラのチラシにも、そんな表現は書かれていなかった。


「早く乗りなさい。自分の立場が分かってるのか」


 ジレッドの声が苛立っている。どこで、どうして、どうやって、この人は、マリアラに同行者がいることを知ったのだろう?

 ――何やってるんだ。逃げる気か。


 ジレッドが近づいてくる。ぴかぴか光る、大きな、おしゃれな革靴のつま先が、ナイフのように光っている。


「……待て!」


 そのナイフの鋒から逃れるように、仕切りの下から体を抜き出し、近くの路地に駆け込んだ。続くジレッドが暗がりに入り込んだ瞬間を狙って光の塊を目許に投げ付ける。「くそ……っ!」毒づく呪詛のような声を背にして走った。どうして走るの、と、頭の中で誰かが囁く。どうして逃げるの? 記者がマリアラの無実を雑誌に載せてくれる、アナカルシスに働きかけてチラシの撤回を求めてくれる、絶好のチャンスだというのに、どうして逃げるの?


 わからない。わからない、けど。

 十徳ナイフを握り締めて、衝動につき動かされるままにとにかく逃げた。

 とにかく、とにかく。とにかく逃げよう。考えるのはそれからだ。


 丁寧な口調で話していた時よりも、逃げる気か、待て、と荒げた声の方にもっと聞き覚えがあった。どこで会ったのか、まだ思い出せないけれど、絶対にいい印象じゃなかったことは確かだ。


 いくつもの路地を走り抜け、あっと言う間に方向を見失った。と、どん、と誰かに肩がぶつかり、マリアラは弾き飛ばされた。「いってえ!」派手に上がった声は明らかに酔っていて、遠慮のない手がマリアラの腕をつかむ。酒臭い空気が押し寄せる。


「いってえよ、気ィつけろ!」

「ご――ごめんなさ、」

「あ?」


 よどんだ目がマリアラを認める。ぎゃはははは、と笑いながら周囲を取り囲んだのは、酔った男の友人だろうか。「うわ、かっわい~」「なにしてんのこんな夜に~」言いながらのぞき込まれて鳥肌がたつ。

 腕を握った男が、声を上げる。


「あ、こいつって……!」

「ごめんなさい!」


 思いっきり突き飛ばして、腕が離れた瞬間に風が湧いた。酔った男たちの足元を狂わせ、マリアラはその隙に逃げた。「あいつ、あれだよ! あのチラシの! あの!」興奮してがなり立てる男の声から必死で遠ざかった。「捕まえろ! 捕まえれば――」その声に含まれていた紛れも無い欲望の濃さに身の毛がよだつ。


 自分の呼吸の音がうるさかった。足音と、息遣いと、心臓の音。いやだ、と、その言葉だけが頭の中を回っていた。いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ……


 ――待っていて。私が戻るまで。


 ミランダの声を思い出し、泣きたくなった。どうして【魔女ビル】に行かなかったのだろう。


 ――あなたがきたら、絶対守るって決めてた。


 ああまで言ってくれたミランダの言葉を、なぜ、もっと重いものだと思わなかったのだろう。

 ダスティンへの子供じみた反抗心に負けて、ミランダの厚意を無にしてしまった。なんて、バカなんだろう。


 もう、どこをどう走っているのかも分からなかった。脇腹が痛み、喉が痛み、足が痛んで、もうすぐ走れなくなる、と思った。どこかで休まなければならない、帽子もないから人込みを避けるしかない、課題ばかり頭に浮かぶのに、それを解決するためにどうすればいいのかが分からない。


 足が緩んだ。一度走るのを止めると、もう、走れなかった。


 でも進むことはやめられず、よろめきながらなんとか前に進んだ。ウルクディアの夜は明るく、街灯やネオンの途切れたところにある闇は異様なほどに深い。


 路地を抜けた。広々とした大通りに出てしまった。パトロールしている制服姿の警官が見え、こんな時間だというのにまだ行き交っている大勢の通行人が見え、あまりの疎外感に喘ぎそうになった。足が痛い。肺が苦しい。頭痛もし始めている、でも、今来た路地に引き返すのも怪しまれそうな気がしてできず、警官に背を向けて壁際を進んだ。白々と明かりのついたショーウィンドウから顔を背け、小さく身を縮めていた。次の曲がり角でまた路地に入ろうと、思った瞬間、声をかけられた。


「あなた何してるの? こんな夜中に」


 咎める口調ではなかったのがかえって切なかった。

 その老婦人は、純粋に、マリアラを案じる優しい声で言った。


「あなたのようなお嬢さんが、こんな夜中に、ひとりで町中を歩くものじゃないわ――あらっ」


 マリアラは走りだした。今までマリアラに気を留めなかった通行人たちの視線の中、腕にかけられた老婦人の優しい指を振りほどいて逃げた。もうダメだ、と思った。もう嫌だ。


 消えてしまいたかった。


「どうしたの……」


 最後に聞こえた老婦人の声があくまで優しくて。

 あの優しい人は、この礼儀を知らない不躾な娘をどう思ったのだろう――?

 目の隅に、赤いランプが屋根についた車の窓からマイクを引っ張り出して何か話している警官が見えた。警官はこちらを見ていた。マリアラは路地に駆け込んで、闇雲に走った。



 限界が来たのはそれからすぐだった。ずきずきと脇腹が痛んで、足を止めるとその場にへたり込んでしまった。浮浪者らしき老人が道端にひっくり返っていたが、眠っているようだったので気にしないことにした。その場に座り込んで、ひざを抱えた。それだけで意識が飛んだ。


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