『記者』
箒が上昇した。
マリアラは哀しかった。この半年間は、ミランダにあれほどの悲壮感を植え付けるほど長かったのだ。この半年の間に、ミランダに何があったのだろう。
箒が宙を滑り始める。なつかしい感触が押し寄せる。胸がぎゅっと締め付けられた。ミフに会いたかった。ミフは今も、ガルシアにいるのだろうか、ガルシアで、機能を停止したまま、ずっとマリアラを待っているのだろうか。フィもだと考えて、泣きたくなった。フェルドの最大の味方が、フェルドのそばにいない。
「……ミランダ、随分思い詰めてたね」
ダスティンが言った。マリアラは頷いた。
左巻きのレイエルに、あんな悲壮な決意さえ、固めさせてしまっていただなんて。
「ずっと休みを取ってないんだってさ」ダスティンは淡々と続けた。「五月からだったかな――半年近く、休んでない。随分痩せちゃったって、【魔女ビル】の人が心配してた。三日病の治療が大変だったから、【魔女ビル】の人もミランダの申し出に甘えて夏を過ごしちゃったそうなんだけど、涼しくなって少し余裕が出ても、やっぱり休まないんだってさ。ウルクディアじゃ本当に天使みたいに崇められてて、アナカルシスの貴族とか大富豪とか、王太子までがミランダに結婚申し込んだとか噂になってる。ウルクディアの駅員と付き合ってるからって片っ端からふったらしいけど」
すごいよな、と、ダスティンは笑う。
「ミランダが誰かのためにウルクディアを捨てたら、その相手は全ウルクディア市民の恨みを買うだろう。……だからさ」
そこで言葉は切られたが、その先を言ったも同然だった。
つまりマリアラがウルクディア市民の恨みを買わないように、あの場から連れ出してくれたのだ、ということらしい。
ありがとう、というべきなのだろう、か?
「ありがと」
言うとダスティンは満足げな笑い声を立てた。「いや」
胸を締め付けられるような物悲しい気持ちは、刻一刻と強くなるばかりだった。さっきはあまりの衝撃で嫌悪も薄れていたけれど、今、マリアラは、かつての自分がダスティンをもう少しで引っ叩くところだったことを思い出していた。大嫌いだ、と思った時の気持ちはありありと覚えているし、あの後特に印象が改善するような出来事も起きていない。
なのに今、ダスティンによって窮地を救われた格好だ。ダスティンの背中にしがみつくようにして空を飛ばなければならない現状が、この現実が、じわじわと胸に染みてくる。
――わたしは今、ダスティンに命運を握られている。
「それにしても、さっきのはいったいどうやったの?」
ダスティンが再び口を開き、マリアラは顔をあげた。「え?」
「あの魔物。……どうやって殺したの」
「……殺し、た」
そうだ。あの魔物にとどめを刺したのはマリアラだ。それは、間違いない。
「びっくりしたよ。あんな方法、初めて見た。あれなら魔物がいくら出てきても殺し放題だな」
耳をふさぎたくなった。
上空をかなりのスピードで飛んでいるから、ダスティンの腹に回した手を放すことはできなかった。
だから話を変えた。
「……あの。フェルドの」
「んー?」
「フェルドは、今、どうしてるかな」
「は?」ダスティンはいぶかしげな声をあげた。「そりゃこっちのせりふだよ。え? 一緒じゃないわけ」
相変わらず、フェルドには悪感情しかもっていないらしい。マリアラは身を乗り出した。
「エスメラルダにいないの?」
「知らないよ」不快そうな声。「あいつの消息なんてわざわざ聞きたくないから。でも、そうか、一緒じゃなかったのか。エスメラルダにいるんだとしたらやっかいだな」
「やっかい……って?」
「新しいラクエルが孵化したんだよ。左巻きのさ。ミーシャって、十五歳の子なんだ。今仮魔女期で、来年の七月からシフトに入る。なんだよ、ちゃんと捕まえといてくれよな」ダスティンは乾いた笑い声をあげる。「また卑怯な手段で横取りされたらたまったもんじゃない」
「……」
「今度は絶対」
ダスティンは低くつぶやいた。マリアラに聞かせるつもりのない、独り言のようなものだったらしい。マリアラは思わずたずねた。
「トールは?」
ダスティンの体が強ばった。
トールに殺されかけたあの時、マリアラは少しトールと話をしている。右巻きの相棒ができ、一緒に【毒の世界】に荷運びをする、と確かに話していた。それならば、トールの相棒はダスティンかジェイドしかいない。ヴィレスタがミランダの外見に似せて作られたことを考え合わせると――トールはジェイドよりも、ダスティンに似ている。
それに、さっきミランダに、『相棒が離宮に呼ばれた』と、言っていたような気がするのに。
「トールの相棒って、ダスティンじゃなかったの」
「着いた」
ダスティンの返答はひどく堅かった。
ウルクディアの【魔女ビル】は、エスメラルダのものに比べるととても小さなビルだった。
高さは四階建てで、周りの建物に埋もれそうなほどほっそりしている。その入り口に車が停まっていて、それにもたれるようにして背の高い男の人が立っているのが見える。ダスティンは乱暴な速さで下降し、マリアラは悲鳴をあげないように奥歯を噛み締めた。
地面に激突する寸前で速度が弱まり、なんとか足を地面に打ち付けずに済んだ。ダスティンはマリアラの腕を乱暴に振りほどき、自分が先に箒を降りた。その性急で乱暴な動きからすると、どうやらダスティンは怒っているようだ。
逆鱗に触れてしまったらしい。
でも、どうして怒っているのか、マリアラにはよく分からなかった。ダスティンはマリアラが箒から降りて立ち上がると、刺々しい声で言った。
「あんまり人のことに首突っ込むなよ。そんな場合じゃないだろ」
マリアラは目を丸くした。意味が分からない。
「指名手配されてる身で魔物だのトールだのの心配とかさ。正義感ってやつ? 全くご立派だよなぁ」
「失礼」
横から声をかけてきたのは、車にもたれて立っていた人だ。
細身の体躯の、マリアラよりかなり年上らしい男だった。多分三十代半ばくらいだろうか。暗くて光量が足りず、顔がよく見えない。
ダスティンの攻撃に呆然としていたので、反応ができなかった。ダスティンはくるりとそちらに振り返った。「何ですか」
「お話中済みません。そちら、マリアラ=ラクエル・マヌエルですね」
名を呼ばれ、マリアラは大きく後ずさった。【魔女ビル】は治外法権だと言ったダスティンの言葉を思い出し、ビルに駆け込めるよう距離を測った。しかし男は近づいてこず、捕まえようというそぶりも見せなかった。声がなだめるような柔らかさを含む。
「驚かせて済みません。私はこういうものです」
名刺を取り出す。ダスティンが横から受け取り、ああ、と言った。
「大丈夫だよ、警察じゃない。『月刊マヌエル通信』の記者だってさ。えーと……ラングーンさんて、そちらの雑誌でしたっけ」
「ええ、そうです」男はにっこり笑った。マリアラに視線を移し、「この度は災難でしたね。なぜあんな手違いの手配書が出回っているのか、我々も取材をしてまして……近々雑誌にスクープを載せようと思ってるんです」
男は穏やかな物腰で、一歩近づいた。
「こんなことが許されていいはずがない。そうでしょう」
「全くです」ダスティンが受けた。「エスメラルダでは誰も知らないんですよ」
「そうです!」男はダスティンに向き直った。「そこなんです。エスメラルダではあんな手配書が出回ることはなかったでしょう、全くの冤罪だとみんなが知っていますからね。アナカルシスでなぜ、あんな手配書が出されたのか……本当に、許せないことです」
「『月刊マヌエル通信』なら俺もよく知ってる」ダスティンがマリアラに言った。「若い女の子向けの雑誌だけど、ラングーンさんって名物記者がいて。何度かインタビューされたことあるけど、取材もすごくしっかりしてる」
「ウルクディアの〈天使〉の特集記事を初めて出すことになりましてね、それで、我々もエスメラルダから派遣されたんです」記者だという男は熱心な口調で言った。「マリアラさん、私たちと一緒に来てください。【魔女ビル】は危険ですよ。ミランダさんと一緒ならばともかく、今行ったら、職員が受け入れない恐れがあるでしょう? 受け入れないばかりか、通報されたらどうします? ――私たちと一緒なら、隠れ場所も知っていますし、アナカルシスの警察だってマスコミ相手にそう乱暴なことはできないでしょう。警察の対応を記事にすることもできます。スクープ記事をかいてあなたの名誉を挽回するためには、あなた自身の訴えが必要だ。そう思いませんか」
「いいじゃないか」ダスティンが言った。「【魔女ビル】に隠れるよりずっといいよ。エスメラルダ中が君の現状を知れば、アナカルシスの警察だって国会だって、あんな手配書撤回せざるを得なくなる。アナカルシスのマヌエルはいつも狙われてるんだ、特に君は左巻きだしね」
「全くそのとおり。アナカルシスはエスメラルダから魔女を奪おうと、虎視眈々と狙っているんですよ。さ、乗ってください。ラングーンに紹介します。あなたのインタビューと記事のスクープがエスメラルダに出されれば、現状が知られれば、エスメラルダが動きますよ。今だけの辛抱です」
「俺も行っていいですか」
ダスティンが言ったが、記者だという男は困ったように笑った。
「あなたはマリアラさんの相棒というわけではないですよね……確か相棒が、離宮に呼ばれているのでは?」
ダスティンが顔を強ばらせる。トールの存在がダスティンの『逆鱗』らしいとマリアラは思う。
「相棒が離宮から戻った時、困るんじゃないですか。大丈夫、ご心配なく。マリアラさんのことは、我々にお任せください」
「わかりました。……よかったな、マリアラ。ミランダには伝えておくよ」
「後ほど電話すればいいですよ。なんなら場所を知らせて、来ていただいたっていいんですし」
男は言い、助手席の扉を開けた。
「さ、どうぞ。人目につかないうちに」
いつの間にか、行くことが決まってしまっている。
マリアラは困惑した。ダスティンと関わると、なんだかいつもこうなる印象だ。マリアラの意思が尊重されたためしがない。わたしはまだ行くって言ってないのに、と、拗ねたような考えが浮かぶのは、ダスティンの理不尽な攻撃を受けたからだろうか。
――正義感ってやつ? 本当に、ご立派だよなあ。
失礼だ。むくむくと怒りが湧いてきた。
全く、失礼だ。
「どうぞ」
記者の男が重ねて勧めた。これ以上ここにいると、ダスティンが何を言い出すかわからない。
正義感という言葉を、侮蔑の表現として使うのを聞いたのは初めてだ。本当に、ダスティンって嫌な人だ。現状を打破するという希望にかけるというよりも、ただダスティンへの反感を理由に、マリアラは車に滑り込んだ。
記者の男が運転席に乗り込んだ。ばん、と扉を閉めて、どこからともなく取り出したベルトをしゅるしゅるっと伸ばして腰のわきにある何かにはめた。かちっ、と音がして、この音はセドリックのバスでも聞いた、と思う。出張医療の時にウィナロフが乗せてくれたタクシーではどうだっただろうか。男はマリアラの左肩を目で示した。
「シートベルトが収納されてるんです。前の座席は危ないですから、ベルトをしてください」
「は、はあ。えっと……これかな」
ベルトについた金具を引っ張ると、しゅるしゅると伸びた。見よう見まねで右腰のところまでもってきて、そこにかちっとはめる。ベルトはマリアラの胸とひざの上を這い、そこにしっくりと落ち着いた。
「行きますよ」
車が動いた。セドリックとは全く違う乱暴な動きに息を詰める。車体が低いからだろうか、小さいからだろうか、車は弾丸のように飛び出した。この人はエスメラルダの記者なのに、と、マリアラは考えた。車の運転ができるのだろうか。
そう言うと、男はあっさり笑った。
「仕事でいろんな場所に行きますのでね。三年ほどアナカルシスに住んでたんです。こないだエスメラルダに戻ったんですが……三カ月でまた異動になりましてね」
「大変ですね……」
「ええ、まあ。エスメラルダである文献の調査……取材をしてたんですが、あれも途中になってしまいましてね。若い保護局員とのトラブルがありまして」
「トラブル……?」
「あれがなきゃ、まだエスメラルダにいられたはずなんですが。ま、仕事ですからね、いろいろありますよ」
どうやらその『トラブル』に、苦々しい思いを抱いているらしい。若い保護局員とは誰なのだろう。
少しして、ざざっ、とどこかで音がした。記者だという男は運転しながら、ハンドルのわきにあったマイクを取った。
「なんだ」
『俺だ。首尾はどうだ――?』
聞こえてきたのは野太い声だ。ずいぶん乱暴な、神経を逆撫でるような声。男は答えた。
「上々だ。マリアラさんの協力を得られることになった。今一緒に向かってる。駅の拠点で待ってろって、若いの行かせたろ」
『ああ、今一緒にいるよ。こっちも向かってる。あとでな』
通信はそれで終わった。男がマイクを戻し、マリアラはたずねた。
「あの……すみません。わたし、名刺を見ていないんです。お名前をうかがえますか」
「ああ、はい。ジレッドと申します」
ジレッドはそう言って、にこやかに笑った。




