ミランダ=レイエル・マヌエル
*
フランチェスカはその光景全てを見ながら、全てのことが信じられない。嘘だ、と思う。嘘だ、嘘だ。
眼下で広がる光景は、幻惑的なものだった。紅蓮の鬣を靡かせた獣がマリアラにすり寄っている。パチパチと空気中で火花が散っているのは、周囲に漂う毒が燃えているのだ。目の裏まで熱が届く。犬のような魔物の体から毒が引きずり出されていく。あの時の――マリアラがフランチェスカから毒を引きずり出した時と同じ。なのにあろうことか、魔物は陶酔している。あの苦痛を。屈辱を。幸せそうに、受け入れている。
泉が見える。小さな四枚花弁の花が無数に踊る泉は、伝説で語られたものと同じ。毒を無限に飲み込み別のものに変化させ、昇華してしまう、アシュヴィティアの天敵だ。
あの泉を具現化させ自在に操る女神の娘。
フランチェスカが探し求めていた、宿敵の姿。
なのにどうして。
どうして、あんなに神々しく見えるのだ。
アシュヴィティアの天敵であるならば、もっと醜悪な姿をしているはずだ。少なくともアシュヴィティアの眷属には、そう見えていいはずだ。
なのにあの魔物の幸せそうな様子はどうだ。宿敵を、救い手と呼んで、崇めて、跪いて。自らの内に巣食う〈毒〉が引きずり出されることを望んでいた。喜んでいた。
なぜだ、喚きたくてたまらない。あの場に駆けつけてあの子の前でマリアラを八つ裂きにしてやりたくてたまらない。これは敵だ、醜悪で、凶暴で、崇高なアシュヴィティアを奪う宿敵なのだと、思い知らせてやりたかった。
しかしそれはできなかった。まず左のエルカテルミナは殺してはならない。それに今は力の差が歴然だ。もしマリアラに見られたら、ここにいることに気づかれたら、フランチェスカの毒まで、また引きずり出されてしまいかねない。なんという威圧。あの炎に照らされるだけで体が燃え上がりそうだ。フランチェスカは後退りをしそうになり、四肢を踏ん張って耐えた。もはや疑いようもない。この辺りに存在する全ての魔力がマリアラのもとに馳せ参じる様子がありありと見える。ずるい――身を焦がすような嫉妬を感じる。なんという。裏切りだ。この世の理に反する存在だ。なぜ皆、あの娘を、あのままのさばらせておくのだ。アシュヴィティアが虐げられているのに。
流れ星とあの銀狼じみた若者はどこにいるのだろう。思い至って、ゾッとした。
エルカテルミナが魔物に遭遇したというこの事態に、流れ星も若者も駆けつける様子がない。理由はわからないが、合流させてはならない。千載一遇のチャンスだ。
「こりゃあ――すげえな」
ジレッドが感嘆したように呟き、おら、とイクスの背を叩いた。
「あの娘、捕まえるぞ」
「――指名手配だから?」
イクスが夢から覚めたように呟き、ジレッドは頷いた。
「そうだ。エルカテルミナだぜ。しかも左だ。俺も見るのは初めてだが、あれはこの世に野放しにしちゃなんねえ存在だ。お前、年頃が同じくらいだろ。油断させられるかも、」
ああ……とイクスが息をついた。気乗りしない様子だった。
「それが、俺、面識あるんですよね……」
「そうなのか。知り合いか?」
「まあ――あの子の相棒と、以前、ルームメイトだったんです」
「んー。その様子じゃあ、あんま仲良くはなさそうだな」
『――何をぐずぐずしておる!!』
フランチェスカは唐突に叫んだ。
ジレッドとイクスの気の抜けた会話が、ようやくフランチェスカの呪縛を解いたのだ。
『早う、早うせぬか! 逃げられたらどうする、あの娘、絶対に逃がしてはならぬ!!』
「え、……え?」
二人の前に姿を表すとイクスはギョッとした。ジレッドはまじまじとフランチェスカを見て、うんざり、という顔をした。
「またあんたか……どこぞでのたれ死んだんじゃなかったのかよ。ずいぶん小さくなっちまったじゃねえか」
『いつまでぐずぐずしておるつもりじゃ!? あの娘――あの娘……!』
眼下に視線をやるともはや炎は収まっていて、犬は事切れていた。真っ黒だった毛皮は完全に浄化され尽くして、純白のふさふさの毛皮がそこにあった。欲に駆られた人間たちが、どれほど〈仲間〉の毛皮を欲しがったかを思い出す。あの大きさの一頭分の毛皮である、しかも浄化済み――冗談抜きで、アナカルシスの古城の一つや二つ、軽く買える値がつくだろう。そんな価値のあるものが丁重に葬られるわけがない。警察が押収して、いろいろな調査などのためにさまざまな部署をたらい回しにされるうち、どこかの部署が『紛失』するのだろう。あの毛皮が生む巨万の富を、今マリアラが作り出したのだ。汚れなど一つも知らぬという顔をしておきながら、
『早う捕まえよ!! 儂が前に連れてこい!!』
「あーうるせー」
ジレッドはため息をついた。
「ストールン、【魔女ビル】は面倒だから駅のアジトに行っとけ。その猫は大事なお客様だ。粗相のないように丁重にお連れしろ」
「え、え!?」
「お前あの娘と面識あんだろ? あの娘の方は俺が騙くらかして連れて行くから、ベルトランの回収も頼むわ」
「え、え!!」
「ウルクディア駅のアジト、覚えてんだろ? そこで連絡を待て。タクシー使えよ。偽の方の身分証見せて【魔女ビル】にツケればいーから」
ジレッドが行こうとして、フランチェスカは叫んだ。『待て、儂も連れて――』
「あんたが来ちゃあまずいんじゃねーのか。相手はエルカテルミナだぞ。あんたの大事な毒まで浄化されちまうぜ、ただでさえ、そんなに小さくなっちまってんのに」
ジレッドがバカにしたようにそう言い、フランチェスカはぎりりと奥歯を噛み締めた。自らの心に隠した恐れを見透かされ、咄嗟に言葉が出てこない。
呆然としていたイクスが、ジレッドを見た。「……猫が……喋って、ます。けど?」
「そりゃ猫じゃねえよ。魔物だ」
「魔物ォ!?」
「人魚の秘蔵っ子なんだとさ。今んとこは敵対してるわけじゃねえから」
言いながらジレッドは屋上を出て行った。
呆然と、イクスがフランチェスカを見る。フランチェスカはゆっくりとイクスに近づいて行った。ジレッドが、『人魚の秘蔵っ子』だと言い置いて行ったことに安堵していた。リエルダのかけた魔法がフランチェスカの喉を縛っているから自分では言えないが、ジレッドが言った言葉を否定しないでおくことはできる。
『ウルクディア駅のアジトへ行くと言ったな。ちと邪魔をする』
フランチェスカはそう言って、イクスの体に飛びついた。よじよじと背中を登って、肩の上に。尻尾をイクスの首に巻きつけるとなかなか居心地が良い。
「魔物……って……人魚の秘蔵っ子って、なに……?」
『ベルトランを回収してアジトへ行くのじゃろ。早うせぬか』
肩に軽く爪を立ててやるとイクスはようやく動き出した。フランチェスカは囁く。
『あの娘と面識があると言っておったな』
「あの娘?」
『マリアラじゃ。マリアラ=ラクエル・マヌエル』
「ああ」
イクスは少し黙った。
それから不満そうに言った。
「俺がここに来ることになった理由の一つ。あんま大きくはないけど」
『あの娘のせいでそなたが飛ばされることになった、と?』
「雪山でさあ、俺とアリエノールが……後輩が、研修してる最中にさ、吹雪が来たんだ。遭難したんだよ」
アリエノールという名前が口から出た瞬間に空気が変わった。
フランチェスカは興味深くその匂いを嗅いだ。因縁を感じる。
マリアラが理由の一つ、あまり大きくはない、とさっき言ったけれど、アリエノールは大きな理由なのだろうか、とフランチェスカは考える。
「それを救出に来たのが、あの子とその相棒だったんだ。俺はその相棒の方と、子供の頃、同じ部屋だったんだよ」
『ルームメイトというやつか』
マリアラの相棒――というと、あの、人間にしては分不相応なほどの力を持った若者のことだ。フェルディナントは幼い頃から【魔女ビル】で育った。ごく幼い頃からずっと、レジナルドの監視下に置かれていた。ということはつまり、イクスも【魔女ビル】で育ったということだ。
レジナルドのところにはフェルディナントの寮母から定期的に報告が上げられていた。同じ寮、同い年の子供の中にはフェルディナントを目の敵にする子供達がいて、余計なちょっかいをかけたり嫌がらせをしたりが耐えなかった。フェルディナントは泣き寝入りはしなかった。どんな小さな意地悪にも、きっかり三倍だと思われる報復を行なった。生傷が絶えない子供時代だったが、それは、ルームメイトたちも同様だったのだ。
名前までは覚えていなかったが、イクスはきっと、三倍返しを受けた子供達の一人だったのだろう。
「俺がマリアラと話したのはその時が初めてだったけど」イクスは先を続けている。「雪山での俺の行動があんま褒められたもんじゃなかったって、あの子も相棒も、報告書に書いてたんだってさ。余計なお世話だっつーの」
『報告書に書かれるような行動をしたのか』
「してねーよ」
したのだろうな、とフランチェスカは考えた。おそらくその研修には、教官にあたる人間が同行していなかったか、同行していたとしてもイクスが認める人材ではなかったのだろう。と言って、マヌエルが、お客さまである遭難者の行いについて報告書で言及するなど通常はありえない。よほどの事があったに違いない。
ジレッドがイクスを置いて行ったのは良い判断だった。イクスが行ってマリアラを誘ったとて、油断させられるとは思えない。
「ベルトラン回収して、かあ……タクシー……うまいこと捕まえられっかな」
ぶつぶつ言いながらイクスは足早に屋上から出て行く。フランチェスカはその肩の上で、漣のように押し寄せてくる焦燥にじっと耐えた。今にもマリアラがどこか別の場所に行くのではないかと気が気ではない。ようやく見つけたエルカテルミナの左。それも守護者から離れている。この千載一遇のチャンスを、絶対に逃すわけにはいかない。
*
黒い靄が消え、泉の幻想もかき消えた。
「……消えた」
岩じみた若者がつぶやいた。
マリアラは我に返った。
魔物の体からほとばしり出た黒い靄はもはやどこにもなかった。そこに残っていたのは、大きな耳とふさふさの毛皮、鼻面に一本の角を生やした、純白の大きな〈犬〉だった。さまざまな色が複雑に渦を巻く瞳は澄んでいて、〈犬〉は、マリアラを見て笑った。
〈……スクイテ〉
そして、その場に倒れ込んだ。
マリアラは目を閉じた。
〈犬〉は、死んでいた。
分かっていたことだった。あの〈犬〉は、もう、毒がなくては生きていけなかった。マリアラは、それを分かっていながら、毒を〈犬〉の体から追い出した。
――だから死んだ。
「……ごめん」
炎はとっくに消えていた。周囲は、静まり返っていた。
地面すれすれに浮かんでいた体がゆっくりと地面に降り立った。足の裏にアスファルトの感触。翻っていた髪が力を失って肩に落ちる。
朱色の鬣の獣ももはや消えていた。
残っているのは純白の魔物の死骸だけで。
ひどく、……哀しかった。
「……マリアラじゃないか」
ダスティンの声で、その存在を思い出す。
そちらを見ると、ダスティンは私服だった。なぜここにいるのだろうと、マリアラは今さらそう思った。ラクエルが仕事でエスメラルダを出ることは滅多にない。休暇だろうか? 旅行とか? シフトに入っていない〈独り身〉の右巻きは、長期の休暇を取れるのだろうか。
ダスティンは足を踏み出し、よろけた。〈毒〉を浄化する魔力を、無理矢理ダスティンにも提供させたからだ。
その事実を急に思い出し、マリアラはたじろいだ。
今度こそ無意識じゃなかった。やろうと思って、そのとおりにやった。周囲にいる人たちから、その身に宿る魔力を――マリアラの思いどおりに使うために。許可も請わず、拒否も許さず、その魔力を強制的に供させた。当然の権利として。
「あのさ――」
「――何をする!」
道路の方で怒鳴り声が上がった。見ると警官の格好をしたあの男が、セドリックによって地面に押さえ付けられていた。セドリックは本当にいい人だ。あの状況で、マリアラが頼んだことを、疑いも拒否もせずそのとおりに遂行していてくれただなんて。
セドリックが警官の手から何か丸いものを取り上げた。白い――本当に白い、骨みたいな。乾いたような印象もあり、それでいて次の瞬間には、中に濡れた光を内包しているかのような艶めきを放つ。得体の知れない力を感じさせる色合いだ。
マリアラは瞬いた。――見覚えがある。
そうだ、南大島で、まだフェルドと相棒になっていなかった頃。ラルフと初めて会った時、ラルフが、魔物を、がんじがらめに縛り上げるのを見たのだ。ラルフは魔物の体のあちこちに小さな楔を打ち込み、その楔に真っ白なロープを絡めて魔物を縛り上げた。ロープを通して迸った電流が、魔物の体を次第に縮めた、あの不思議な光景。
今警官が持っている白い石は、あの真っ白なロープと、同じ色合いを持っていた。
乳白色で、つるんとした、握りこぶし大の石だった。人為的に削られたのだろうかと思うほど丸い。
「近衛のベインです」
セドリックのところへ走って行っていた岩じみた若者が、言いながらバッヂを見せるのが見えた。近衛、と聞いて、地面に押さえつけられていた『警官』がギクリとした。
「ご協力に感謝します」それはセドリックに向けて言った。また『警官』に視線を戻す。「特命を受けて魔物の盗難について調査中だ。この件において警察省の全面的な協力を保証されている。身分証を」
「冤罪だ! 俺は何も知らない!」
交通整理をしていた警官達も集まってきていた。ベインと名乗った岩じみた若者は、セドリックから乳白色の丸い石を受け取った。
「〈銀狼の牙〉だ。間違いない。……誰から預かった」
「――」
セドリックによって地面に押さえ付けられたままの『警官』の目が、マリアラを見た。
「その魔女だ」
その目が、マリアラを射貫き、マリアラは愕然とした。
意味が分からない。
「は?」
セドリックも驚き、一瞬、腕が緩んでしまった。その隙に『警官』は体を起こし、マリアラを指さした。
「金を積まれて頼まれた。知ってるだろう、指名手配されたエスメラルダの魔女だ。【魔女ビル】に狩人を呼び入れた、」
「ふざけんな!」
セドリックが殴り掛かったが、周囲の警官がそれを止める。セドリックが叫んだ。
「おまっ、何言ってんだぁ!? 魔物を鎮めたのはその子じゃねえか! あれっ、あれ見てなんでそんな――」
「理由なんざ知るか! とにかく俺にこれを寄越したのはその魔女だ! ここの事故のっ、治療をする魔女を、〈天使〉をだ! その魔物に襲わせろと! エスメラルダの【魔女ビル】に狩人を呼び入れたのと同じことだ、〈天使〉が狙いだったんだ!」
マリアラは立ちすくんでいた。聞いている言葉は間違いなくアナカルシス語なのに、全く意味が分からなかった。セドリックは激昂したが、他の警官に寄ってたかって取り押さえられ、地面に押さえつけられてしまった。『警官』は煽るように叫ぶ。
「お前もグルだろう!」セドリックを指さし、「その魔女を捕まえろ!」マリアラを指さした。「どのみち指名手配だ! 逃がすな!」
まだ呆然としていたマリアラは、周囲の警官達が一斉にこちらに向かってくるのを見てぞっとした。
「冗談じゃねえ! その子はっ」
セドリックの抗議がかすかに聞こえた、その時。
「……待って」
か細い声がして、どん、と、マリアラの体に後ろから抱き着いた人がいた。細い腕がマリアラの腹に巻き付き、ぎゅうっと力がこもった。マリアラは全身が震えるのを感じた。
ミランダが、腕を放し、マリアラの前に回って背にかばった。耳の辺りで切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。
「誤解です」
ミランダはかすれた声で言った。
咳払いをし、叫んだ。
「この子は私の友達なんです。……連行なんてやめてください」
マリアラを拘束しようと近づいてきていた警官が足を止めた。ミランダがそちらを見たからだ。後ろから近づいてきていた人たちもぐるりと見回して、ミランダはまた『警官』に視線を戻した。
「魔物を放したりなんて頼んでません。この子がここを通りかかったのは偶然です。そもそも、指名手配だって間違いなんです」
「ミランダ=レイエル・マヌエル」警官のひとりがなだめるように言った。「どきなさい。公務執行妨害になるぞ」
「いいえ、逮捕なんて、する理由がないって、言ってるんです。この子を捕まえたら誤認逮捕になります。だって私は、狩人がエスメラルダの【魔女ビル】に侵入した時、その場にいたんです。狩人を引き入れたのはイェイラという魔女で、この子は違います。むしろ被害者なんです」
「……ミランダ」
マリアラは囁いた。ミランダはマリアラを振り返った。既に涙目で――ミランダは顔をぐしゃぐしゃにして、マリアラに抱き着いた。
「無事で良かった……!」
「ミランダっ、」
「ミランダ=レイエル・マヌエル」警官がまた言った。「あなたの主張は分かりました。しかし、とにかく、調書を作らないわけにはいきません。指名手配が間違いだったにせよ、エスメラルダでちゃんと」
「この子をエスメラルダに返すなら、私も一緒に帰ります」
ミランダは涙声で、でもきっぱりと、声を張り上げて宣言した。
「ウルクディアの皆さんに良くしていただいたのに、こんな短い期間でお暇するのは気が引けますが――友人の冤罪を証明するために、私も一緒に帰ります。どうしてあんな嘘っぱちの手配書が出回っているのか――私は、この子を捕らえたい誰かが存在しているって、疑いをもってます、だからっ」
「ミラ――」
「捕まるだけで危険かもしれないんです、ですから、この子を捕まえるなら、私はもう、ウルクディアで、治療を続けるわけにはいきません!」
マリアラは少なからず驚いていた。ミランダが、こんな脅迫めいた言葉を口にするなんて。
でもその脅迫は効果てきめんだった。警官達さえたじろぎ、周囲を取り囲んでいたやじ馬たちははっきりとざわめいていた。警官が近づこうとするだけでそのざわめきは高まった。ブツブツという低い抗議の呟きがそこかしこで聞こえる。
警官たちは困り果てて立ち尽くした。
立ち去ることもしなかったが、強行することもできなかった。
セドリックの視線を感じる。なんとかこの事態を打開しようと思ってくれているのが、わかってしまう。けれどマリアラはもはや、セドリックとすでに知り合いであることを周囲に知られるわけにはいかない立場だった。指名手配されている相手だと知りながらここまで連れてきたことが周囲にバレてしまったら、セドリックまで逮捕されてしまいかねない。
息詰まる数瞬ののち、その事態を打開したのはダスティンだった。
「マリアラ、【魔女ビル】に行こう」
言いながらこちらにやってくる。ミランダがダスティンを睨んだ。
「あなたは誰?」
「ダスティン=ラクエル・マヌエル」ダスティンは金色のコインを掲げて見せた。「エスメラルダのラクエルだ。今日は休暇でウルクディアに」
「休暇ですって? ラクエルが?」
「仕事を兼ねてるんだよ。相棒がウルクディアの離宮に呼ばれたんで。なあ、そう睨むなよ。俺だって、マリアラが狩人を引き入れたなんて、間違いだってわかってるよ。あのチラシを見て、本当にびっくりした。あんな事態が見過ごされていいわけがない」
「もちろんよ」
「だから【魔女ビル】に行くのがいいと思うんだ。あそこは治外法権だろう、あそこに入ればアナカルシスの警官も入って来られない」
「……そうね」
「ミランダ、あの事故のけが人がまだ治療を待ってる。君がマリアラと一緒にエスメラルダに帰るにせよ、そうじゃないにせよ、今すぐは無理だ。治療が済んでからだ。そうだろ?」
「……左巻きはもうひとりいるわ」
ミランダが言い、マリアラは後ずさるほど驚いた。ダスティンも顔をしかめる。
「まさか本気で言ってないよな? 魔物に襲われたけが人もいるんだぜ」
「……」
「君の仕事が終わるまで、警官に捕まらない場所で、待ってるのがいいと俺は思う。箒に乗せて、安全な場所に、俺がつれて行く。どう?」
ミランダはそれでもまだ迷った。
マリアラはもう、ほとんど祈るような気持ちだった。左巻きのレイエルが、事故の被害者や魔物によるけが人たちをほうり出す決意を固めていたなんて、本当に尋常じゃない事態だ。
けれど、ややして、ミランダはマリアラを振り返った。
「マリアラ、……【魔女ビル】警備隊長の、ドルフさんはとてもいい人よ。あなたの指名手配が間違いだって、あなたがきたらちゃんと匿ってくれるって、約束してくれてる。ガストンさんのお友達なんだって。……【魔女ビル】で、待っていてくれる? ドルフさんは、何か事件があったそうで、リファスに行ってるの。でも連絡すれば、すぐ戻ってきてくれるはず。〈アスタ〉のスクリーンの前には行かないで。少なくとも私が戻るまで」
「……ミランダ」
「マリアラがきたら、絶対守るって決めてたわ。お願いだから無事でいて。治療が済んだら、すぐに戻るから」
「うん。……ありがとう、ミランダ」
そう言うと、ミランダは顔をぐしゃぐしゃにした。
マリアラに抱き着いて、涙声で言った。
「無事でいてくれてよかった」
「……ミランダ……?」
「シグがきたら、【魔女ビル】に行ってもらうから……少しの間だけ、待ってて」
「う、ん」
「乗って」
ダスティンが言い、マリアラは箒の後ろに座った。ふわりと体が浮き上がった時、ミランダが囁いた。
「あの魔物を救ってくれてありがとう」
ぎゅっ、と、ミランダの左手がマリアラの腕を握った。
「気をつけて、マリアラ」




