四日目 当番(8)
「狩人ももうひとりも、追い詰められて【壁】に触ったんだってさ。ガストンさんが悔しがってたよ。狩人は捕まったら例外なく死刑にされるらしくて、それもまあ……その……結構エグいやり方で処刑されるらしくて。ここから逃げる時も【壁】を目指したそうだから、まあ……捕まるよりはって思ったんだろうな」
「ふうん」
一応返事はしたものの、我ながら気のない答え方だった。そうかクレメンスにはもう二度と会わないのか、と思っただけだ。【壁】は次元にできた割れ目が寄り集まって固定されたものだ。ルクルスの居住区は壁沿いに追いやられているから、本土の人間よりもっと、【壁】に対する警戒心は強いだろう。【壁】に触ったら死ぬと思え。行き先は誰にもわからない。大地の底とか上空数千メートルとか海の底とかに飛ばされる可能性が高すぎる、と、世話役たちからは耳にたこができるほど聞かされている。
「……もうひとり……も? アルノルドもってこと?」
ルッツが訊ね、ラルフはちょっと我に返った。芋の感触にうっとりしすぎて、聞き逃していた。酒に酔うってこんな感じなのだろうか。
「アルノルドって言うのか。……そう。その人も」
「……そっかあ」
ルッツは俯いて黙った。アルノルドは狩人ではなく、狩人にそそのかされただけのルクルスの世話役――になったばかりの若者、だ。狩人に憧れ、ハイデンに反抗していた。それが高じて今回、ついにクレメンスの誘いにのって島を飛び出した。彼だけだったならまだ良かったが、アルノルドは舟を出させるためにルッツを無理矢理同行させた。誘拐に等しい行為だった。
ルッツは人がいいなあ、とラルフは思う。アルノルドはルッツを騙して引っ張り回し、ルッツが大ケガをして死にかけたら放置し、狩人がルッツを殴ったり蹴ったりしたのに止めなかった。アルノルドはバカで向こう見ずで、自分のことしか考えなかった。それなのにルッツはアルノルドを悼んでやるのか。
ルッツはラルフよりずっと賢く勉強もできるのに、どうしてこんなにバカなんだろう。
ラルフは魔女を盗み見た。
あの人と同じくらいのバカなんだ、きっと。
「……アルノルドがルッツをさらったから、ハイデンが俺に取り返してこいって言ったんだ」
ラルフは言い、もうひとつ芋を食べた。かりっとしてほくほくで温かくて甘くてうまい。なんという名前の料理なんだろう。この世にはラルフの知らないことが多すぎる。
「その時に、ついでに、魔物を盗み出して……【壁】に棄ててこいって。クレメンスにはバレてたみたいだけど……」
ようやく少し、頭が働くようになってきた。ラルフは座り直してフェルドを見た。
「やっぱり保護局員の中に裏切り者がいるんだ。クレメンスが魔物を解き放ったのはその“裏切り者”から、保護局員が気づいたぞって警告されたからだろ」
「ああ、そうだろうな。ガストンさんにそれは伝えといたよ」
「ガストンって奴が――」
「グールド=ヘンリヴェントって狩人が雪山に魔物を放した」
フェルドの言葉に、ラルフは一瞬詰まった。
その事件はもちろん知っていた。南大島と雪山とに同時に魔物が放されたあの事件で、少なからずスカッとした気持ちになったことを思いだした。
「雪山でグールドを相手にしたところを見てるから、ガストンさん自身がその“裏切り者”ってことはあり得ない、と思うよ。たぶん近くにいるんだろう」
「ふーん。それならまあ、いいんだけどさ」
この人たちの国がめちゃくちゃにされることが嬉しかった。
でもそれが今は後ろめたい。
悟られないよう、話を変えることにする。
「魔物はどこ行ったの」
「そっちで寝てる」
右を示されて、ギョッとした。
「そっちって、海じゃないか」
「うん、海の上に、ハウス用の壁を組み合わせて筏を作ったの。今日は幸い、波が穏やかだから」
魔女が言った。声がやわらかい、とラルフは思った。なんてやわらかい声だろう。
ラルフの知る女性はそれほど多くない。女のルクルスはとても珍しいのだ。ラルフの知っている、その一握りの女性はみんな、もう少しとげとげしい声をしている。
「魔物には本当に、話が通じるんだな。魔物は自分から、海に入っていったんだ。そうでなきゃ皆をごまかせなかったよ」
フェルドが話してくれたのは、かいつまんで言うとこうだった。
ラルフが保護局員を引きつけるために走り出した直後、魔物は自分で――わざと体を引きずるようにして、海に入っていった。砂の上にははっきりと、魔物が暴れた跡が残っていたから、そうでもしなければ保護局員や飛んできた右巻きのラクエルたちの目をごまかすことなど無理だっただろう。魔物は呼吸を必要としないのか、海の底をゆっくりと泳いで【壁】に向かった。
いくら魔女の箒でも、海の底を調べることは難しい。右巻きのラクエルたちに、魔物が【壁】に触れてどこかへ消えた、と言うフェルドの証言を疑う理由もなかった。狩人も魔物もエスメラルダから消え、事件は一件落着、と言うわけだった。
「休憩所の浄化とか片付けとかで今夜はあそこに泊まるの無理だから、今日の当直はお役御免になったんだ。いっぺん帰ってアリバイ工作してから、ここに飛んできてお前を待ってたってわけ」
フェルドがそう締めくくり、ラルフは、暗い海の上を透かし見た。
魔物に知能があることも、強制しなければ暴れないことも、ラルフはよく知っていた……はずだ。
でも、こちらの話を全て理解している、ということを、あまり考えてみたことがなかった。あの状況で海に入らないと逃げられないからではなく、フェルドと魔女が仲間から疑われることのないように、そうしたのではないか、という気がする。
だとしたら。
あの魔物は、ラルフをどう思っていただろう。
全ての話を聞き、状況を理解しながら。せっかく一度逃げ出した自分を追い、もう一度捕縛して狩人に差し出したラルフを。
「さあ、じゃあ、送っていくよ。もう遅いから」
魔女が言い、ルッツが嬉しそうに立ち上がった。ラルフは慌てた。
「送ってくってどこに?」
答えたのは何故かルッツだ。「俺たちの島だよ。もちろん、海岸までだけど」
「いーよ別に。舟で帰るよ。すぐそこだし」
魔女が相変わらずやわらかな声で言う。
「ラルフ、もう暗いし、今日は月も出てないから危ないよ。【壁】の近くを通っていくなんて」
「俺を誰だと――」
「送ってもらおうよ、ラルフ」ルッツがきっぱりと言う。「お前の腕は信頼してるけど、でも――空飛ぶんだ、ラルフ。空飛べるんだぜ!」
「お前正直すぎだろ!」
と言って、ラルフにもその申し出をむげに断り続けることなどできるわけがなかった。
南大島はその南側を【壁】が横断している島だ。当然、南大島周辺の海域は【壁】の影響をまともに受ける。潮の流れはめちゃくちゃで、五感の全てを総動員して乗り切らなければ危ない。ルクルスの子供たちは殆ど全員、夜に舟を出すことを禁じられている。例外はラルフだけだが、ラルフだってよっぽどのことがなければやりたくない。
それに、魔女の箒だ。
箒に乗って、空を飛べる。
もちろん、できるだけ内密にしなければならないだろう。年長の奴らに“魔女の箒に乗った裏切り者”という攻撃材料を与えるのは危険だ――特にルッツには命取りになりかねない。
でも、そういう年長の奴らだって、もし魔女の箒に乗るという機会を与えられたら、絶対断らないに決まっている。
少し話し合って、ラルフはフェルドの後ろに乗ることに決まった。
心の底からホッとした。これ以上あのやわらかな声を聞いていたら、今までの七年間で培ってきた全ての価値観が、めちゃくちゃに壊れてしまいそうな気がしたから。