ウルクディアへの途上(1)
*
夜が来て、彼が出掛けた。
マリアラがいるのは、今は軒下の一角だ。自動販売機が並んだ通路の角を折れたところなので、昼間でも人通りはほとんどない。屋根はあるが、一応屋外と言える場所だ。軒下、とでも言うのだろうか。
そこにマットと毛布を敷いて眠り、起きたら彼が残して行ってくれた食べ物と飲み物を採り、また眠った。眠りと食事以外の時間は、少し離れたところを行き交う人々の姿を眺めて過ごした。静寂の中、ちらちらと行き交う人たちは、水の博物館で見た魚のように見えた。
このまま、彼が戻って来なかったらどうなるだろう。
そんなことを考えた。
このまま外に出て、あの人たちの中に紛れてどこかへ歩いて行ったら、彼はどうするだろう。
そんなことも、半ば本気で考えた。
ラルフがあの時、聞いてくれていなかったら、もしかして、待っている気になれなかったかもしれない。マリアラはぼんやりしながら、ラルフに心底感謝した。フェルドのことをどうするのか、彼の考えをちゃんと聞いてくれたから。
あんまり放っておくのも心配だ、というあの言葉には、彼の誠意が感じられた。誠意というか、思いやりというか。少なくとも、生き延びていればそれでいい、というような、まるで駒か記号のように思われているわけではない、ということがわかる言葉だ。責務を果たすことができるという能力以外の、人格とか、感情とか、そういう部分もちゃんと考えてくれている。
だからきっと、待っているだろう。
自分のことなのに、他人事のように考えた。
ここで彼を待たずに、ふらふらと、人前に出て行くようなことだけはしないだろう――。
――眠たい。
また、目を閉じた。
なんだか、寝ても寝ても眠い。ガルシアへ向けて飛んだ時の疲労は、リエルダが引き取ってくれたのに。
溶けてしまいそうだ。溶けてしまいたい、と、思った。溶けて、蒸発して、空気になって、エスメラルダの方に漂って行けたらいいのに……。
彼から、いつ戻るかは正直分からない、と言われていた。三日は我慢してほしい、とも。ありがたいと思っていた。三日もの間、この快適なズレの中に隠れていられる。ただ丸くなって眠っていられる。すべてのことを先送りにして。全部、彼に丸投げして。赤ちゃんみたいに、ただ食べて、飲んで、眠って、立ち向かわなければいけないことから逃げて、いられるのだから。
ところが、彼は意外に早く帰って来た。
【炎の闇】に会った次の日の、夕方。うとうとしていたマリアラを、ていねいに、しかし断固として揺り起こした彼は、今回のことが起こって初めてと言うほど、嬉しそうな顔をしていた。
「悪い。でも起きて」
彼は言いながら、その辺に散らばっていたシャワーだの簡易トイレだのといったものをあっと言う間に片付けた。マリアラがようやく身を起こした時には、ズレの中はマットと毛布以外のものがすっかりなくなっていた。マリアラは目をこすり、あくびをし、ぼうっとしたまま彼を見た。人違いじゃない。彼は今、ウィナロフの姿をしている。
「ものすごく運がよかったんだ」毛布を引っ剥がしたそうに手をわきわきさせながら彼は言う。「ヒッチハイクして貸し馬車屋に行ったんだけど、警官が張っててね。どうしようかと考えながら国道を歩いてたら、偶然、知り合いが通りかかったんだ。アナカルシスのルクルスで、すごくいい人なんだ。信頼できるから。事情を話したら、ウルクディアまで乗せて行ってくれるそうだ」
ズレの外は、いつの間にか日暮れだった。マリアラが立ち上がると、彼は毛布とマットをさっさと片付けた。
「ウルクディアで、ディーンさんの系列のレストランやってる人でね。契約農家に野菜を買いに行った帰りなんだって」
彼は話しながら、周囲を伺って、ズレを解除した。
もう薄暗く、今ならば確かに歩いていてもそれほど見とがめられることはないだろう。彼は先に立って、その乗り物の方へ歩いて行く。
そこにあったのは、よく見かける車に比べると少し大きく、バス、と呼ばれる乗り物らしかった。あの大きさなら、お客を十人は乗せることができるだろう。
「あれだ。セドリック=ドーラ、という人だ。本当にいい人だから、大丈夫。もう話してあるから、先に行ってて。食料とか飲み物とか補充してくる」
「――あ……う、ん」
返事をする間もなく彼は走っていってしまった。この数瞬の間にも日没はどんどん進み、バスの傍らに立ってマリアラを招くその人の顔も、もうよく見えないくらいだ。
おっかなびっくり近づいたが、信頼できると彼が言ったとおり、その人の声は明るく優しかった。
「やあ、こんにちは。マリアちゃんだっけか。事情は聞ぃたわ。いろいろ大変だったなぁ?」
そう言ってぱちりとウィンクをした、らしい。強い訛りのある言葉はとても温かい。背の高い、陽気な男だった。年はおそらく、四十歳くらいだろうか? リファスにいたシェロムと似た年格好の男だ。
「……あの、こんにちは、あの、……お世話に……」
なります、と言い終えないうちに、その男はバスの扉を開いて、マリアラを招いた。
「まーまーいーからとにかく乗りな。狭ぃけど、他の客はいねぇから大丈夫だ」
覗き込むと、中はほぼ満杯だった。運転席側の窓沿いに椅子が五脚、助手席側の窓沿いに椅子が四脚あるのだが、その運転席以外すべてが荷物に埋もれていた。乗っているのは野菜が大半だ。バス中に青臭い匂いが充満している。
「ウルクディアに荷を運ぶ途中なんだわ。ちょいと待ちな、今、あんたの分の座席も空けっから」
「……あの」
マリアラは、呼吸を整えた。
どうしても、聞いておかなければならない気がする。
「……あの。わたし、ご存じかと思いますが、あの、指名手配、されて、しまってるんですけど……」
「あー。全く酷い話だよなぁ」
「……助けていただけるんですか。あなたの立場が、悪くなったりしませんか」
「見つかればな」
男はあっさりと答え、マリアラに向き直った。
そしてにかっと笑い、バスをぽんと叩いた。
「これ、いいべ。これがな、あっしの相棒なんだぁ。荷物どっさり積んで、運べるし。仕入れにぃくときにゃ、希望する客がいりゃ、ついでに乗っけて運賃もらうこともできら。この相棒がいなきゃ、あっしはもう何にも出来ねえ」
相棒、と言う言葉に、胸がつきりと痛んだ。「……そうなんですか」
「ルクルスは不便だ。『それ以外』にはそもそも、運送を仕事にするってぇ発想がねえもの。ちょっと前までな、あっしらが野菜仕入れて運ぼうと思ったらさ、『それ以外』に小さく縮めてもらって、馬車じゃあ時間がかかりすぎっからよ、頼み込んで『それ以外』の車に乗せてもらって……着いたらまた『それ以外』に頼んで荷をもとに戻してもらわなきゃなんねかったんだ。別に『それ以外』が恩着せるとか法外な金をふんだくるとか、言ってるわけじゃねえのよ? けどま、ルクルスが荷ィ運ぶんは、不便なんだ。面倒なんだよ」
「……は、い」
「でもあっしには今はもう、こいつがいっからさ」またバスをぽん、と叩いた。「だぁら好きなように買い物して、誰に頼まねえでも自分の力でこいつに乗っけて、自分で運転して移動さして、店に戻ったら自分で下ろせる。それがどんなに自由で嬉しいことか、あんたにはわかるかなあ。……あっしはその自由を手に入れた。この相棒をな。ちこっと前まで、そんな自由、夢見ることもできなかったんだ。それを……この相棒を、作って、それもたくさん作ってさ、あっしらでも買えるような値段で作れるようにしてくれた。国会に働きかけて、国道沿いの休憩所には必ず給油できる設備を作るようにしてくれた。それをやってくれたのが、狩人の〈開発部門〉だ。その開発部門の責任者がな、今はあの人なんだわ」
「そうなんだ……」
知らなかった。情けないと、思った。マリアラは本当に、彼のことを何も知らない。
「大変だったろうな、って思うよ」
彼はしみじみと言った。
「三十年前には考えらんねかった。誰にも厄介かけずにさ、自分の力で仕事できるようになったんだもんよ。いやまあ、あん人はそりゃあ、三十年前の【風の骨】の跡継ぎってやつだけどさあぁ、そんなこた関係ねえべ? な? 恩人が望んでることなら、そりゃあ手伝うのが人の道ってェもんだ。そうだべ、な?」
「……はい。ありがとう、ございます」
頭を下げると彼は、照れたように笑って、また荷を移す作業に戻った。けれど、結構難航している。そもそも移すスペースがないくらい、バスの中は野菜でいっぱいだった。
小さく縮めましょうか、と言いかけて、先程の話を思いだし、言い出せなかった。
手伝おうにも手を出せず、おろおろしているところへ彼が戻ってきた。
「セドリックさん」
セドリック、と呼ばれた男は振り返り、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「【風の骨】。あんたの役に立てるならこんな光栄なことはねえです。しかも可愛い嬢ちゃんを大事に送っていくなんざ、ルクルス冥利に尽きるってもんです」
「助かります」
彼が頭を下げ、マリアラも一緒に頭を下げた。セドリックは照れくさそうに笑って、中を指さした。
「でもやっぱ、ちょいと無理がありました。嬢ちゃんの分の座席を一個、空けてもらえねえですか」
「小さくしてもいいんですか」
「もちろんで。嬢ちゃんに狭っ苦しい思いをさせるわけにはいかねえし、意地を張ってる場合でもねえでしょう」
「ありがとう」
彼が運転席の後ろの座席に載っていたコンテナを小さく縮めると、セドリックは一瞬身を震わせた。マリアラの視線に気づいて、困ったように笑う。
「あっしらぁ小せえ頃からルクルスやってるもんでね、この小さくするって魔法がどうも苦手なんだ。そんなはずはねえって何度説明されても、野菜の鮮度が落ちるような気がしてなんねくて」
「……ああ」
「いやいや、非科学的だってのはわかってんだけど。さ、乗ってくれ。あっしぁちょいと買い物をして、用事済まして、燃料補給してさ、したら出発すっからね」
「よろしくお願いします」
マリアラは頭を下げ、意を決して、その野菜で充満する狭いバスの中に乗り込んだ。
バスの中は静かだった。今は停まっているからか、あの白い煙も、小刻みな振動も無かった。けれど、頭痛を感じるほど煙草臭かった。マリアラが運転席の後ろに座ると、彼は助手席に座った。振り向いて、マリアラに言った。
「本当に運が良かったんだよ。あの人なら絶対大丈夫。親切で、今までにも何度も助けてもらってるから」
「うん」
さっきの熱弁を思い出すまでもなく、いい人だ、というのは疑いなかった。そして仕事にとても誇りを持っている人だった。バスの中は保冷剤をたくさん入れてあるらしく、ひんやりしていい気持ちだった。野菜も、段ボール箱ではなく通気口のたくさん空けられたコンテナに整然としまわれていた。頑丈そうなコンテナで、たぶん、上の重みで野菜がつぶれてしまわないようにと言う配慮なのだろう。
セドリックはすぐに戻ってきた。ビニール袋をがさがさ言わせて、マリアラと彼に、缶ジュースをひとつずつくれた。よく冷えていて、頬にあてると気持ちがいい。
「燃料入れたら行きますよ」
「お願いします」
「それで、ウルクディアの、どこまで? 最近検問が多いんですが、だいじょぶですかい?」
「でしょうね。ルクルスの方には気味が悪いかもしれませんが、少々魔法を使います」
「そりゃすげえ!」
セドリックは口笛を吹いて、出発した。助手席に座った彼は地図を出し、それに見入った。
「それで、目的地なんですが。エルバート殿下にお会いするには、ウルクディアの離宮に行くのがやはりいいんでしょうか」
「それをあっしに聞きますかい……?」
「すみません」彼は笑った。「わけあって、最近の情勢をあまり知らないんです。国王陛下は現在どうなさっていますか」
「陛下ねえ。今はウルクディアにおわすんじゃねえですか。ああ、いや、イェルディアでしたかね、確か、先日そちらにお渡りになったんじゃねかったかな」
「イェルディアの離宮ですか」
「ラク・ルダの大神殿でしたかねえ……とにかく西の方で。いやほら、どっか外国の王様がウルクディアにおわすでしょう」
「……ガルシアのゴドフリー前王ですか」
「あーそれそれ。その方と国王陛下が意気投合なさると困るってんで、イェルディアかどっかに移されたんじゃねえかってもっぱらの評判でさ。そのガルシアの前の王様ってのも困ったもんですね、血の気が多くて」
「陛下は幽閉されてるような状況でしょうか」
「いやそこまでは。けっこいろんなとこ視察されて楽しくお過ごしだって噂でさ。それより問題は姪っ子ですよ。リーザ姫さまは王太子殿下の呼びかけも全部無視して、今じゃ指名手配されて逃げ回ってるってえ状況でしょ。リファスのシェロムが迷惑してるってぼやいてましたよ。なんかルクルスのちいせえ子供を追い回してるって」
セドリックは鼻を鳴らした。
「なにをそんなにとんがってらっしゃるんだか、とんと見当もつきませんわ。狩人はもうおしまいですね」
「開発部門は……」
「ああ、ご心配でしょうねえ。だいじょぶですよ。ええ、ほら、責任者のノールドってお人が代表になって、国会の一部門に配置されました。エマっておばさんも秘書だかなんだかで。技術の開発やらなんやらも今までどおりで、感謝してまさ。こういっちゃなんだが、開発部門にとっては――もちろんあっしらアナカルシスのルクルスにとっても、運が良かったんじゃねですか、狩人って後ろ指さされるような立場が今じゃあお役人ってぇわけですからねえ」
セドリックの言い方はとてもあっけらかんとしていて、隣で自分の話を聞いている男が、つい最近までその狩人だったのだということをすっかり忘れているようだった。実際、そうなのかもしれないとマリアラは思った。セドリックにとっては、【風の骨】は狩人ではなく、開発部門の責任者というだけなのではないだろうか。
彼も何も言わず、何の感慨も見せなかった。
バスの中は既に真っ暗で、前に座るふたりもシルエットにしか見えなかった。シェロムたちは大丈夫だろうか、とマリアラは考えた。ラルフについても、マギスについても、何の情報も得られないままだ。けれど、さっきリファスのシェロムについて話をした割に、心配そうなそぶりも見せなかったから、セドリックは今のリファスの現状を知らないのかもしれない。
「……リファスの方は大丈夫でしょうか」
彼も同じことを考えたのか、そう言った。セドリックが彼を見る。
「リファス? シェロムですか。あれ、寄って来られなかったんですか」
「ご存じないんですね。リファスに狩人が出て……」
彼がかいつまんで事情を話し終えた頃、給油が終わった。威勢のいい若者がバスの側面についているらしい蓋をばんと閉め、運転席に回って会計をした。マリアラは野菜の陰に身を潜めていたので、給油というものがどういう風に行われるものなのか、結局わからないままだった。「ありまっした――!」呪文のように叫びながら若者が下がり、セドリックがバスを発進させる。
セドリックは難しい顔をしていた。バスはぐんぐん速度を上げ、マリアラは思わず座席にしがみついた。いったい何という速度だろう! 鉄道よりまだ速いかもしれない。いや、車体が格段に小さいから、速く感じるのかもしれないが――ともかくバスは馬車とは比べものにならない速さで国道に乗り、さらにぐんぐん速度を上げた。一番右側の車線にうまいこと滑り込むと、セドリックがようやく言った。
「……そりゃ難儀なこって。いや、しかし、だいじょぶですよ【風の骨】。シェロムは骨のある男でさ。しかしま、店に着いたらぁ、連絡取ってみましょう」
「ありがたい。お願いします」
「狩人はもうおしまいですよ」
セドリックは、先ほどと同じ言葉を、もっと強い意志を込めて繰り返した。対向車線を流れる車のびかびかの目が闇を切り裂くように光っていて、何だか夢でも見ているような気持ちだった。ものすごいスピードだった。二本の箒を組み合わせて空を飛んでいるような気がした。なのにセドリックは落ち着いた口調で、隣席の彼と会話を交わしながら平然と運転していくのだ。
アナカルシスはすごい、と、マリアラは思っていた。
なんだか――スケールが違う。




