身支度
*
地図で見ると、リファスからウルクディアまでは、だいたい二百キロくらい離れているらしい。
この馬車を引いている馬は一頭だけで、それも、とてもゆっくり歩いている。アナカルディアで借りた馬をつぶしてしまうわけにはいかないし、普通の人のように途中の拠点で馬を取り替えるわけにもいかないから、ウルクディアまで五日くらいかかりそうだと彼は言った。
覚悟を決めなければならない、と、その話を聞いたときに思った。捕まるかもしれないという覚悟ではなく、逃げ続けるという覚悟だ。
とっくの昔に気づいていた。心の奥底には、捕まって楽になりたいという臆病な――怠惰な――自分がいるのだ。だって、捕まったら、エスメラルダに帰れる。どんな処遇を受けることになるかはわからないが、とにかくその点は間違いないはずだ。エスメラルダに帰ったら、フェルドにまた会える確率はぐっと上がる。逃げ続けていたって、フェルドに会える日は永遠に来ないんじゃないだろうか?
小さな声は、あのチラシを見た時から、執拗に執拗に囁き続けていた。
――逃げてどうなるの?
――どこに行っても事態は変わらないんじゃないの?
――この先一生追われ続けるんじゃないの?
――フェルドにはいつ会えるの?
――世界のへそなんて場所に行っても、二度目の孵化なんて起こらないんじゃないの?
――そもそもどうして、二度目の孵化なんて、迎えないといけないの……?
囁き続ける自分は、ただ楽になりたいだけだ。それが解っているから、マリアラはその声に耳を貸さないことに決める。
体験して初めて、思い知った。逃げ続け、隠れ続けるというのは、底知れない圧力を持っていた。終始、誰かが自分を見ているような気がしてたまらなかった。今にも扉が開いて人がなだれ込んでくるかもしれないという馬鹿げた想像が、頭に付きまとって離れない。それが五日も延びるのだ。一日をやり過ごすのだけでも大変だったのに。ラルフのいなかったあの淋しく寄る辺なく恐ろしい一日を、あと五回も繰り返さなければならない。正直、悲鳴を上げたい気分だった。
でも、それでも。絶対に、自分から逃げたりするまい。
十徳ナイフを取りだし、両手の平の中に握り込んで、マリアラは決めた。
マリアラが指名手配されるほどの状況だ、フェルドだって、大変なことになっているはずだ。フェルドも戦っている。なのに、デクターに守られているマリアラが自分勝手にそれを投げ出すなんて絶対にダメだ。フェルドに顔向けできないことだけは、しない。それをより所にすれば、この五日だって何とか乗り切れる気がする。
そう心に決めて、自分の指針として胸に刻み込んでおかないと――ともすればデクターを、恨んでしまいそうだったから。
そんな弱い自分に、辟易しそうだった。
太陽はゆるゆると空を渡っていった。
昼を過ぎる頃、馬車はまた右に曲がった。マリアラは小窓から外を覗いてみて、風景が一変していることに気づいた。今の右折で馬車は大きな――広大な、道路に乗っていた。舗装も煉瓦ではなく、アスファルトだ。
感心して、その濃灰色の平らな道路を見た。おまけにその広大な道路は白い線で八本に区切られ、馬車はその一番左端に乗っていた。左側の四本がウルクディア行き、右側の四本がアナカルディア行きらしい、と、地図を引っ張り出して確かめる。
たぶん、エスメラルダの動道と同じようなものだ。ただ地面が動かないだけだ。ウルクディアに向かう乗り物はこちらを通る、と、あらかじめ決めておかないと、大混雑が起きてしまうだろう。そう納得するほどの乗り物が、整然とすれ違っていた。
右側の道路を走るのは四頭や八頭だての馬車だ。かなりの速度で、どんどん追い越して行く。
その上、そのさらに右の道路を走っているのは、馬車じゃない。車だ。
授業で習った。アナカルシスでは個々で動く乗り物が主流なのだ。国土が広大すぎるから、動道を敷くのは現実的ではない。国中に魔力供給網を張り巡らせるのも不可能だ。だから自然と、エネルギーを供給する仕組みを地中に埋め込むのではなく、乗り物に埋め込むようになったのだと。
道路を走る車は、大半が静かに滑るように走っている。
でもたまに、ごくたまに、白っぽい煙を吐き出しながら、大きな音を立てて走る車もあった。煙の匂いに覚えがあった。出張医療の時にマリアラを追いかけ回したあの醜い蠅のような乗り物と、きっと動力が同じなのだろう。かすかに届く排気の匂いに顔をしかめながら、マリアラはできる限りつぶさにその乗り物を眺めた。乗っている人はルクルスなのだろうか、と、考えずにはいられなかった。出張医療の時に乗せてもらったけれど、疲れすぎてほぼ眠っていたから、正直なところあまり覚えていない。
彼の駆る馬車の車線を走るのは、やはり馬車ばかりだ。たぶん速度が違うからなのだろう。かなりの速度で前方に流れていく右側の車線とは、うって変わった長閑さだ。そして、マリアラは、彼が眠っているのに気づいた。変装のための麦わら帽子を深く被り、御者台の背もたれに身を預けて――手綱を握っているはずの手にタオルが掛かっているところを見ると、おそらく、居眠りではなく本当に、寝ようと思って寝ているらしい。眠っているときは外見が元に戻ると言うから、あの若草色の紋様が出てしまわないようにと言う配慮なのだろう。
そうか、と、思った。馬車だから、箒と同じなのだ。
この馬はとてもよく訓練されていて、前の馬車の速度に合わせて自分で判断して馬車を引いている。他の馬車の列に合流できたし、しばらく曲がる必要もなくなったから、休むことにしたのだろう。マリアラが心配するまでもなく、彼は旅慣れていた。今までも、何度も、こうやって移動して、差し入れを続けてきたのかもしれない。
少し安心した。彼が自分の体調さえないがしろにしてまで、対処しなければならないほどの事態ではないのだ。
それでも、彼が眠っている間くらいは、代わりに前を見ていることにした。馬が疲れてきたり何かトラブルが起こったときに、彼を起こすくらいのことはできる。その程度しかできない、という現実には、目をつぶることにする。
地図によると、この広大な道路は国道、しかも一号線という名が冠されていた。アナカルシスで一番、由緒正しい道路だということなのだろうか。
地図でも大きく太い線で描かれていた。通行量もかなりのものだ。アナカルシスの首都機能を支える姉妹都市間を結ぶのだから、当然なのかもしれない。一号線はアナカルディアからウルクディアまで真っすぐに伸び、ウルクディアで丁字路になっている。一号線は右に曲がり、おおむね真っすぐの線を描きながら、なんとイェルディアまで続いていた。ウルクディアから左へ向かう道路は七号線と名を変え、アリエディアまで続く。
地図を見ながらウルクディアから伸びる七号線を指でなぞった時、馬車が左へそれた。
のんびりのんびりとした足取りで、馬車は一号線から左斜めに飛び出した道路を進んでいた。見ると彼は起きていて、老人の姿を取り直し、欠伸をしながら手綱を握っている。マリアラの視線に気づいたのか、振り返り、
「朝食にしよう。馬もちょっと休ませないと」
「ああ、うん」
そういえばお腹がすいた。こんな事態でも空腹を感じる自分の図太さにうんざりする。
ところで彼は、マヌエルの巾着袋に匹敵するくらいの道具を、マリアラのために準備してきていた。
マリアラには、光さえあれば水を出すのは簡単だ。その能力を見越して、彼は簡易シャワーまで準備してきていた。タンクに水を入れれば、適切な温度にしたお湯をシャワーから出してくれる。終わった後に排水タンクに溜まった水を処理すればいいという優れものだ。大きな鏡もあったし、ハウスに設置されるような高性能のポータブルトイレもあった。狩人の事務全般を担当していたエマという気のいい年かさの女性がいたそうで、彼女に頼んで一式揃えてもらったというバッグの中には、女性に必要なたくさんの細々したものまで全て入っていた。
馬車が停まると、彼は馬車の中に『ズレ』を作り出してくれ、自分は年老いた御者の姿を取り直して降りていった。
マリアラはいそいそとシャワーやその他の設備を整えた。大変な一晩を過ごした今は、熱いお湯を気兼ねなく浴びられるのがとても嬉しい。念入りに髪と身体を洗い終え、他の必要なこと全てを済ませると、マリアラはホッとして鏡の前に座り込んだ。髪を乾かすのも一瞬で済むが、梳かすのはそうはいかない。
ブラシで、ていねいに、ていねいに、毛先までゆっくりと梳かしていると、エスメラルダの【魔女ビル】の、あの居心地のいい部屋にいるような気がする。隣にラセミスタがいて――詰所でララやダニエルやヒルデやランドに会って――ミランダとお茶を飲んで――
そしてフェルドがいる、あの日常。
マリアラは髪を梳かし続けながら、覚悟を決める。
昨日からずっと、考えていることがあった。
一度『ズレ』から頭を出して、御者台を覗いた。彼はまだ戻っていない。
『ズレ』の中に戻り、こないだ見た指名手配のチラシの写真を思い出す。付け焼き刃だろうと言うことは、解っている。
でも、やらないよりはずっとマシだろう。
ここのところ、馬車から外を覗くたびに観察して、よくわかった。
アナカルシスでは、膝までの長い髪は一般的ではないらしい。
エスメラルダではよく見かけるのだが、これはきっと、マヌエルが身近だからなのだろう。孵化をすれば髪を乾かすのに全く手がかからないから、ごく自然に髪を伸ばす人が増え、普通の人たちにも次第に普及していったのではないだろうか。でもここはアナカルシスで――チラシの写真にも長い髪が映っていたことを考え合わせると、これは切るべきだ。そう思う。
エマの揃えてくれたというバッグの中に、ちゃんと大きな鋏も入っていた。彼も、きっとそうした方がいいと思っているに違いない。
でも、最近何かをマリアラに強要することの無くなった彼が、それをマリアラに勧めるとも思えなかった。マリアラは鏡の中の自分を見て、ひとつ頷いた。別に大丈夫だ、と思った。特に願掛けとかしていたわけではない。長い髪が特に好きだったわけでもない。切ったって、別に何が変わるというわけでもない。マリアラはマリアラだ。これからずっと旅を続けるのなら、切った方がいいに決まっている。
勇気が萎えない内にと、鋏を手に取り、えいっと髪に入れた。
でもすぐに、しまった、と思った。短く切りすぎた。
肩のすぐ上という長さでは、縛ることはできても編むことは難しいだろう。支えを失って手に落ちた亜麻色の髪はたじろぐほどに重い。マリアラは呼吸を整え、残っている髪を一度縛った。それから未練がましい自分を罵倒しながら、同じ長さの所に続けて鋏を入れた。
じょきり、じょきり。重い手応えが鋏に伝わる。
別に大丈夫だ、と、また思った。
別に、願掛けとか、していたわけではないのだから。
髪を全て切り終えると、髪は本当に、びっくりするくらい重かった。ビニール袋を取りだして、髪をぐるぐるまとめて袋に詰め込んだ。袋を縛り、もう一枚の袋を取りだして詰める。その口も縛ると、『ズレ』の外に放り出した。別に大丈夫だ、もう一度自分に言い聞かせた。そんなに短いわけじゃない。縛れる長さだ。リンなんてあんなに短いのに、きれいでかわいくて元気満々じゃないか。本当は色も変えた方がいいのだろう、亜麻色と黒髪では印象がだいぶ違うはずだ、そう思ったが、でも、今はその気力が湧かない。
もう、梳かしても、あの日常に帰れたような気分にはなれないだろう。
ただ、それだけのことだ。何も問題なんかない。
毛先を丁寧に揃え終え、またシャワーを浴びた。お湯の伝わる髪がとても軽い。顔をこすり、髪をゆすぎ、また顔をこすった。タオルで顔を覆い、ため息をひとつ。
その時には、馬車の中に人がいた。
タオルから顔をあげたマリアラはぎくりとした。馬車の出入り口のところに、若い男が座り込んでいる。
外の音が聞こえないので、その人がいつ入ってきたのか全然わからなかった。マリアラは思わずタオルで身体を隠したが、見えているはずがない、と思い直した。その男はへらへらとした笑顔を頬に貼り付けながら、こちらの方を見て何か言っている。視線はこちらに向けているが、見えていないのは明白だ。焦点がずれている。
音が聞こえないので、何を言っているのかはわからない。
マリアラは急いで身体を乾かし衣類を身につけた。シャワーの排水を片づけ、『ズレ』の中に出していたもの全てを元どおりにしまい終えた。それでもその人は、馬車の入り口に座り込んだまま、こちらを見ながら何か言っていた。呼びかけるように――マリアラがここにいるのだと、確信しているかのように。
――あんま過信しない方がいいかもね。
――勘の鋭い人間には、ここが変なんだってことは、何となくわかる。と思う。
ラルフの言ったとおりだった。
全ての準備を整えたマリアラは、今さらぞっとしていた。
なぜこの人が、今、ここにいるのだろう。
記憶と違って髪は黒い。でも、瞳は記憶のとおりの赤だ。優男、と言えそうな風貌で、肌は日焼けしないのかと思うくらい白い。
まだイェルディアにいるはずだと言われていた、【炎の闇】グールドが、今そこにいた。




