第一章 仮魔女と友人(3)
マリアラの箒はミフと言った。
ミフは自律行動できる回路を備えた、技術大国エスメラルダの技術の粋を極めて作り出された最高級の魔法道具だ。動力はマリアラから供給されるが、ある程度なら離れていても自由に動き回ることができた。飛行中に誤って落ちたとしても追いかけて来てくれる。箒の柄は真っすぐだがしなやかで、穂はとても大きく、二人乗りでも座り心地がよかった。
リンはマリアラの後ろに腰を落ち着けて、マリアラの腰に腕を回した。
ふわりと、体が浮いた。
木の梢に近づき、がさがさと枝をこすって、森の上に出る。
「……わあ!」
思わず叫んだ。
素晴らしい眺めだった。
木々の梢は緑のじゅうたんのように、正面の山肌を這い上っていた。頂上を少し越えた辺りに、エスメラルダと外界を隔てる【壁】が見えた。【壁】は無色透明で、光は通すが、空気は通さない。だから、【壁】自体は見えなくても、その存在は歴然と分かった。あちら側とこちら側では天気が違う。
「森の中を飛ぶより上を飛んだ方が危なくないから……大丈夫だよ、手を放さなければ落ちないから。リン、怖かったら言ってね」
リンは咳払いをした。
「……怖くない」
本当だ。ちっとも怖くなかった。感動し過ぎていて、怖さを感じる余裕などなかった。振り返るとエスメラルダの都市部の町並みが見えた。リンはまた呻いた。
「すごいよ、マリアラ……」
エスメラルダは大都会だ。狭い半島の中央部分に、びっしりと家やビルがひしめき合っている。中でも一際目を引くのは、巨大な二本の高いビルだ。【学校ビル】と【魔女ビル】は、それ一本の中にひとつの町がすっぽり入ると言われるほど大きい。高さも大きさも揃った二対のビルは、都市部ならどこからでも見ることができる、壮大で美しいエスメラルダの象徴だ。
――あの建物を、上から見下ろしてる。
「掴まって、リン。動くよ」
「……うん」
リンは前を向き、マリアラの腰にしっかりと掴まり直した。初飛行で落下だなんて、そんな伝説作りたくない。
「寒くない?」
普段どおりの口調でマリアラが聞く。箒での飛行に慣れているのだろう。リンは首を振る。
「大丈夫。……でもこれ、風があったり雨が降ってたりしたら、大変だねえ。荷運びって、海の上を飛んでいくんでしょう?」
ミフの穂は普通の箒より大きく、当然ながら材質も違う。初めて触ったが、柔らかくて弾力があり、姿勢保持をサポートするためのさまざまな工夫をこらしてあるのがよくわかる。これなら数時間乗っていても疲れないだろうと思うが、全身が剥き出しなのは構造上仕方がないことだろう。
マリアラはああ、と言った。
「その時には保護膜出すから」
「ほ、保護膜? って?」
「うん。ミフ、お願い」
マリアラが言った瞬間、ぶわっ、と柄の先端から大きな布のようなものが飛び出した。布は大きく膨らみながらマリアラとリンをすっぽりと包み込んだ。外気が遮断され、急に暖かくなった。リンは呆然と声をあげた。
「な……に、これえ……」
保護膜は半透明で、向こうの景色がうっすらと透けて見えた。なるほど、とリンは思う。布というより、膜だ。
「上空を飛んだりすると、風がすごいんだよね。寒いし、雨とか雪とかが降るとつらいし疲れるし……お客さんによっては怖がったり、するの。パニックになって暴れて落ちたりすると大変だから、最近開発されたんだって。これが実装されてから、飛ぶのが格段に快適になったんだって聞いたよ。これ張ると、寒くないでしょう」
「ほんとだ……」
「速度は出せないし、嵐だとこのままもみくちゃにされたりするけど、多少の衝撃なら防いでくれるから。このまま飛ぶ?」
「いやー」リンは笑った。「ありがと。でもしまってくれない? 景色が見えないから」
「そっか」
しゅるるるる、と可愛い音を立てて、保護膜は元どおりミフの柄に吸い込まれた。リンは感嘆した。なんて便利なんだろう。
でも、やっぱりこっちの方がいい。せっかく箒に乗せてもらっているのだ、風景を楽しまずにどうする。再び押し寄せた冷たい外気に身震いをして、うん、と言った。
「いい景色だねえ……」
「嵐が収まって、ラッキーだったよね」
「ほんとほんと」
深緑と白の入り交じった海の上を、ミフはゆっくりと飛んで行く。ジョギングくらいの速度だったので、頂上まではしばらくかかったが、それでも昼前になると、天空までそびえ立つ【壁】のすぐ側までたどり着いていた。
こちらは晴天だが、あちらは今日は曇っていた。あちら側はアナカルシスだ。こんなに近いのに、気候が全然違う国だ。アナカルシスは温暖で、雪などめったに降らない。もしこの【壁】に穴が空いたら、と、リンは考えた。きっと湯気が立つだろう。
「魔物を見るだけじゃ、課題にならないでしょ」
マリアラが少し後ろを振り返って言った。リンはぎくりとする。
「そ……かな、やっぱ、ならないかな……?」
「レポート書くんでしょう?」
「そりゃ書くよ……あの、あのね、もともとはね、アナカルシスの魔物飼育政策について書きたかったんだ。ほら、アナカルシスでは、魔物を捕らえて軍事的に利用する研究がなされているじゃない? すごいなあって。魔物って毒を持ってて、すごく大きいんだよね? どうやって捕まえるんだろう、餌はどうしてるんだろう、とか、いろいろ……」
マリアラは黙ったまま、少し考えていた。
一年前まで、マリアラは優等生だった。十五歳で孵化した時、担当教官が嘆いたという話は有名だ。よっぽど目をかけていた学生だったのだろう。
マリアラが孵化した時、友人たちが彼女を阻害したのは、きっとその辺りにも原因があったはずだ。孵化さえすれば生涯、生活に困ることはない。必死で勉強して単位を取り、国内に残れる仕事に就かなければならない学生たちからすれば、孵化したマヌエルは羨望の対象だ。
――マリアラなら孵化しなくても、教師とか学者とかの名誉職に、楽々と就くことができたはずなのに……
「……壮大なテーマだね」
ややしてマリアラは感想を述べた。ああ、とリンは嘆いた。
やはり、わかる人にはわかるのだ。リンもわかった。書き出してみてやっと、だったが。
「そうなんだよ……ちょっと大きすぎてね、詰まっちゃってね、それで、魔物が実際にいるところを見れば、何か閃くかなあって」
「そっかあ……巧く見られればいいね……」
頼めば手伝ってくれるだろうかと、リンは期待した。
マリアラは本当に、優等生だった。落第しそうなリンに、救いの手を差し伸べてくれるだろうか。
「……去年の専必単、落としちゃって……」
白状するとマリアラはギョッとした。……のだろう。今までずっと滑らかに飛んでいたミフが一瞬、落ちかけたからだ。
「専攻必須単位、落としたの……?」
エスメラルダの一般学生にとって、あるまじき失態だ。
一般学生は毎年、必須単位をひとつ獲得しなければならない。それを落としたらエスメラルダで、一般学生の身分を失うということになる。学問の国エスメラルダは、国全体がひとつの巨大な学校という体裁になっているので、国民はみんな学生、もしくは教師の身分だ。
つまり国籍剥奪の瀬戸際、ということだ。
「……やばいんだよ……」
「……そ、そっか……」
「で、でもっ、『遭難者』研修とって、レポート出せば、専攻必須単位に充ててもらえるって、だからっ」
「が、頑張って! 何かできることあったら言って、手伝うから!」
「ありがとううううぅ」
リンはほっとした。マリアラにアドバイスをもらえれば、レポートひとつ書くくらい、きっと何とかなるだろう。