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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 それぞれの決意
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フランチェスカ

 フランチェスカが【魔女ビル】まで戻ってきたのは、9月もそろそろ終わりの頃だ。

 エスメラルダは、すでに秋の装いになっていた。フランチェスカは陰鬱な気分で、路地裏から、神々しく輝く【魔女ビル】を見上げた。


 シェスカが氷漬けにされ、人魚の王から立ち入りを禁じられた以上、もはやフランチェスカが人魚の国に入って、あの安らかさの中でまどろむことは不可能だ。アナカルシスは農園や森が多すぎ、さらには晴れの日が多すぎ、全く寛げない。【毒の世界】もフランチェスカにとってはほとんど未知の国だ。【夜】とともに移動する魔物たちはあまりに粗野で、話が通じない。といってアシュヴィティアを信奉していないやつらは弱弱しくて軟弱で、付き合う気になれない。エスメラルダの他の場所は人が多すぎるし明るすぎるし夜になっても賑やかすぎる。

 もはや、ここ【魔女ビル】以外に、身を休められる場所はない。

 それが重々わかっているのに、足が進まない。


 ――今までさんざん騙してきたのだろう。

 ――その嘘は、もはや二度とそなたの口から出られぬ。


 ああ――まことに、あの猛々しい人魚の王さえ戻って来なければ、フランチェスカがこのようなみじめな境遇に陥ることはなかったのだ。


 フランチェスカはイライラと尻尾で地面を叩いた。


 人魚の王は、ここ千年近く――本当にずいぶん長いこと、ティティ姐と皆から呼ばれる大きな人魚が務めていた、らしい。しかしさすがに老いてきて、フランチェスカが物心ついたころに代替わりをした。

 ティティは引退して人の世に紛れて余生を過ごすことを選んだ。その後を継いだのがリエルダである。

 リエルダの継承は、人魚の世に少なからぬ波紋を呼んだ。若い人魚たちは、ずっと、跡継ぎはシェスカだと聞かされていたからだ。


 シェスカ――フランチェスカを育てた人魚は、自らが正当な後継であると、若い人魚やフランチェスカたちに吹聴していた。本来の後継であるリエルダは長い間、人魚の国を留守にしていた。一人で世界の果てに出かけ、何か探し物をしていたらしい。シェスカはリエルダの留守を任され、若い人魚や【養い子】たちをまとめ、世話をし、人間たちと交渉して儀式に必要な男を差し出させる役目を負った。そのうちシェスカは増長しはじめた。ティティの目を盗んでは、【養い子】たちを陸に上げ、人間の食べ物を作らせて、自分がそれを楽しむようになった。やがてその材料を手に入れるために人間たちを脅し強請りとるようになった。人間たちとの交渉を少しでも有利に進めるため、シェスカは自らが王であると嘘をつき、若い人魚たちにもそのように振る舞うよう言い含めた。ティティは後継に自分を選ぶだろうと言う自信もあったのだろう。越権行為ではない、少し先取りをするだけだと。


 しかし人間は狡猾だった。世間知らずなシェスカより、ずっと目端が効いて現実も見えていた。シェスカは、人間たちを強請るつもりで、その実自分が搾取されているということに、ずいぶん長い間気づかなかった。人間たちは下手に出ながら、言葉巧みに、人魚の宝物や、【養い子】の毛皮を騙し取った。そしてシェスカはそのうち、宝物があまりに減ったために儀式がずいぶん見劣りするようになっていることにやっと気づいた。宝物も毛皮ももう渡せないと言おうとした時、人間たちは急に牙を剥いたのだ。あんたが偽物なのはわかっていた、本物の王に取引きをバラす――脅されたシェスカは、人間たちに脅されるままに、【養い子】の死体を売り続ける羽目になった。


 思えばティティはシェスカの悪事に気づいていたのだろう。自らの引退を決める時、ティティはリエルダを呼び戻し、長の権限を全て譲り渡した。

 シェスカの目論見は潰えた。【養い子】の村の中に【毒】をばら撒かれ、フランチェスカがアシュヴィティアに染まったのも、同じ頃のことだ。




 シェスカが継いでくれていればよかったのにと、フランチェスカはいつも思う。

 シェスカが人魚の長を担っていたならば、人魚はもっと与しやすかった。シェスカをうまくなだめすかして騙くらかせば、アシュヴィティアの眷属を引き入れることもできたはず。そうなっていれば、巨人がいないこの時代、箱庭の崩壊は簡単に起こせていたはずだ。


  ――その嘘は、もはや二度とそなたの口から出られぬ。


 またあの冷たい呪いの声が耳に蘇り、ぐうっと喉の戒めを感じる。実際に喉が締まるわけではないが、魔法は厳然とそこにあり、フランチェスカの発言を縛る。

 なんと言う技巧。人魚はもはや滅びかけた種族とはいえ、その長の持つ強大な力は健在だ。


 この喉の重みが、フランチェスカの足を鈍らせる。【魔女ビル】は目の前なのに、どうしても足が進まない。フランチェスカの嘘――人魚の長はフランチェスカの親であり、フランチェスカを排除すれば、人魚がエスメラルダ全土の水に呪いをかける。その嘘が、フランチェスカの身を守ってきた。またエルカテルミナに責務を果たされては困ると言うレジナルドの事情もあって、本来敵同士でありながら、手を携えてきたと言う状況だ。

 今までついてきた嘘が暴かれたなら、レジナルドにはフランチェスカを守る理由がない。リスナ=ヘイトスの忠実なる僕、あの清掃隊の隊長が、喜んでフランチェスカを炙り出し焼き殺すだろう。


 以前はちっとも怖くなかった。強大な力があったからだ。【魔女ビル】の古い通路を我が掌中に納め、穏やかな闇の中でぬくぬくとくつろぎながら、レジナルドがエルカテルミナを閉じ込め続けるその手腕を鑑賞していればそれでよかった。

 それができなくなったのは、マリアラ=ラクエル・マヌエルのせいだ。あの娘が、フランチェスカの体内から【毒】を引き摺り出しさえしなければ。


 そして地下で会った流れ星――その横にいた獣じみた若者。あれは一体なんだったのだろうと、今日もまたフランチェスカは訝しむ。なぜあんな存在に巡り逢わなければならなかったのか。本当に人間だろうか。まるで銀狼のような猛々しさ――思い至ってフランチェスカはぞくりとした。

 あの若者は、人間に化けた銀狼だったのではないか。人魚の縄張りにいたから、元の姿に戻らなかったのでは。

 銀狼が生きていたなら、フランチェスカの代にアシュヴィティアの目的を達するのはさすがに無理かもしれない。

 しかし何もしないわけにはいかない。このまま座して滅びを待つわけにはいかないのだ。今できることを探して、成さなければ。何かを。



 ――レジナルドに、犯罪者を供出させるのはどうだろう。


 考えながらフランチェスカはのっそりと体を起こした。

 手っ取り早く体力を戻すには――生き物を食うのが手っ取り早い。それも、人の肉が望ましい。


 今まで人の肉を食べたことは一度もなかった。魔物にとってはかなりリスクのある食べ物だからだ。普通の人間は、特に美味しいものでもないらしい。中には恐ろしくまずい人間もいると聞く。そう言う人間に当たったら、ただでさえ少ない体力を根こそぎ奪われる。下手をしたら命まで吐き出してしまうかもしれない。それならうまいとわかっている調理済みの菓子やさまざまな料理を食らった方が良いに決まっている。


 しかし、稀に――本当に、ごくごく稀に、凄まじく美味い人間、と言うものがいるらしい。


 そう言う人間を食べることができたら、体力も魔力も一気に回復する。いやそれどころか、今まで以上に強くなれるかもしれない。

 けれど尻込みするのは、アシュヴィティアの一族たちの中で語り継がれる伝承のためだ。

 かつて人の肉の美味しさに取り憑かれた魔物がいたと言う。その魔物は強くて立派な右だった。賢くて狡猾で、歴史に名を刻むほどの存在だった。

 けれど人の肉のあまりの美味さに、執着を抱いたと言うのである。

 彼は道を踏み外した。崇高な意志を忘れ果て、ただ人肉の美味さだけを追い求める惨めな存在に成り下がった。彼の末路を知るものは誰もいない。狂ったまま狭間に落ちて、マグマにでも灼かれたか。歪みを通って出た先が大地の底だったなら、如何に強靭な肉体を持つ魔物だとてひとたまりもない。永遠に池の底に閉じ込められて、ただ大地の底に溜まる一握りの毒となって朽ちていった、のかも、しれない。


 執着を抱くほどの美味さとは、いったいどれほどのものなのだろう。

 その肉を食べることができたら、この行き詰まった事態をどうにか逆転させることができるだろうか。


 マリアラの肉は美味いだろうか。あの時はちっとも食べたいと思わなかった。食べてみればわかるのだろうか。一度人肉の味を知れば、嗅いだだけでその肉が美味いか不味いか、わかるようになるというが。


 


 ゆっくりと時間をかけて、ようやく、いつもの裏口にたどり着いた。ここから入れば旧通路に通じるダクトはすぐだ。

 人通りが途絶えたら入ろうと思いながらしばらく待った。

 何人か、談笑しながら入っていき――夕食のピークタイムに向けて休憩を終えた食堂の関係者たちらしい――何人か、せかせかとした足取りで出ていった(出動する清掃隊の数人だった)。少し出入りが途切れてそろそろ腰をあげようかと思った頃、【魔女ビル】から一人の若者が出てきて、フランチェスカは動きを止める。


 知らない顔だ。ごく若い。マリアラやその守護者とほとんど変わらない年齢に思える。とても――とても不貞腐れた様子で、仏頂面で、目つきが昏く、フランチェスカの注意を引いた。とても面白そうな若者だ。

 一見、育ちが良さそうな風体だ。しかし表情が荒んでいる。ああいう顔をした人間にはつけ入る隙が多いから好きだ。フランチェスカはふんふんと匂いを嗅いだ。不機嫌の匂い。自らの境遇に抱える不満の匂い。自暴自棄。誰もわかってくれない。自分はこんな理不尽な仕打ちを受けて良い存在ではない――匂い立つほどの傲慢。周囲全てに恨みと呪いを撒き散らしているかのような剣呑さ。


「――待ちたまえ」


 若者を追うように出てきた男には見覚えがあった。フランチェスカはますます興味を惹かれた。

 アロンゾ=バルスターだ。元老院議員の秘書を長年務め、最近は校長秘書室室長の地位に成り上がった五十絡みの男。実はレジナルドの右腕である。あんな地位にある男が、なぜこんな若者に、こんな裏口で、人目を避けるように接触するのだろう。


「待ちたまえ、イクス=ストールン」


 バルスターが再度声をかけ、イクスと呼ばれた若者は驚いたように振り返った。「……なんですか?」


「私はアロンゾ=バルスターという。校長の秘書だ」


 バルスターが名乗るとイクスは驚いた顔をした。「……え? 校長の?」


「そうだとも。ストールンくん、君に下りた処分は残念だった。異例の人事だ。気の毒だった。相手が悪かったんだ……ブライトン事務部長を怒らせることになったのは、君の正義感が少し行きすぎてしまっただけなんだろうに」

「……」


 イクスの感情が動いたのが見えた。

 バルスターは的確にイクスの肥大した自意識を刺激した。イクスは首だけで振り返るのをやめて、バルスターに体ごと向き直った。


「ウルクディアで待っていてほしい」言いながらバルスターは名刺をイクスに渡した。「すぐ呼び戻すよ。校長は今、エスメラルダの中に潜む裏切り者や国益に反する活動をしているものたちを秘密裏に炙り出し、司法の裁きを受けさせるための、特務機関を作ろうとしているんだ。君の経歴を読ませてもらったよ、イクス=ストールンくん。若いのにとても優秀だ。そして君の正義感は素晴らしい。行動力も申し分ない。君は、校長のお眼鏡にかなったんだよ」


 バスルターの言葉はとても巧みで、イクスはかなり興味を惹かれているようだ。表情こそ取り繕っていたものの、頬が紅潮していて、わずかにのびた鼻の下が若者の内心を表している。つまるところイクスという若者は、ジレッドやベルトランと同じく、校長の手下にふさわしい素質を示したのだろう。自らの欲望を満たすためなら道を外れることも、ためらいも良心の呵責も感じないという、類稀なる素質を。


「一月は我慢してほしい。だが11月か、遅くとも12月の初めには呼び戻す。良ければこれを持っていってくれたまえ」


 バルスターは懐を探って、小さなケースを取り出してイクスに渡した。


「携帯電話が入っている。それと、写真が三枚。少し前にウルクディアに派遣された、特務機関の仲間の写真だ。保護局員が二人、それから子供が一人」

「子供――?」

「と言っても人間じゃない、見た目は子供そっくりだがね。魔法道具人形アルフィラだ」

「人型の? アルフィラ? ……すごいですね」

「選りすぐりの人材を集めているからね。裏に名前と連絡先が書いてあるから、研修の間に連絡してご覧。彼らにはすでに君のことは話してあるから」


 バルスターとイクスはそれから少しやり取りをして、別れた。バルスターは【魔女ビル】に戻り、イクスは、繁華街の方へ向かって歩き出す。バルスターからもらったケースは大切そうに懐にしまい、もらった名刺は手に持って、大切そうに眺めながら歩いていく。フランチェスカは少し迷い、イクスの後を追うことにした。イクスはウルクディアに行くらしい。ウルクディアといえば、アナカルシスでも有数の大都市だ。


 ――特務機関とはよく言ったものだ。


 真っ黒な猫の姿でとことことイクスの後をついていきながらフランチェスカは考えた。


 ――耳触りの良い言葉を選んだものだ。


 校長はさまざまな人間を選ぶ。リスナ=ヘイトスは校長の右腕であり、エスメラルダというこの国に君臨し続けるためには欠かせない存在だ。アロンゾ=バルスターもそうだ。イーレンタールもそうだし、歪みの専門家たちの中にも校長の腹心が潜んでいる。


 校長は彼らのことはとても大切にしている。無茶な仕事はさせない。ヘイトス事務官に好き勝手やらせているのがフランチェスカは心底気に入らないのだが、レジナルドが彼女を尊重する理由はよくわかる。彼女にさせるのは、ごくごく重要なことだけで、あとはほとんど放置している。バルスターやイーレンタールにもそうだ、彼らにしかできないこと、それも極めて重要なことだけをさせて、あとは十分な報酬と待遇を与え、自由と権限を与えるのが、校長のやり方だ。


 だから大半の汚れ仕事や暴力沙汰を引き受ける人間がどうしても必要なのだ。

 イクスもそれに選ばれた。あの歳で、あの若さで。自分は選ばれた人間なのだという夢に酔い、多額の報酬と待遇に釣られて、これから一体どんな人生を歩んでゆくのだろう。


 面白いなとフランチェスカは思った。匂いが好ましい。マリアラやその守護者よりも、よっぽど興味深くて、そして――いい匂いだ。

 特務機関にはきっとベルトランがいる。フランチェスカが留守にしている間に、何か問題を起こすなどして、ウルクディアに飛ばされたのだろう。アナカルシスは広いし、エスメラルダよりずっと治安が悪い。ベルトランがウルクディアで大人しくしているわけもない。人肉を食べて体力を戻すのに、何もレジナルドから供出させることはないのだと気がついた。ベルトランの近くに行けば、死にかける人間を見つけるのはずっと容易いはずだ。


 気分がずっと良くなっていた。フランチェスカの足取りは軽かった。力を戻し、マリアラを見つけ出し、自らのした行為を後悔させてから殺す。銀狼と流れ星は厄介だが、体さえ治れば、きっと出し抜くこともできるはずだ。


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