リン=アリエノール(26)
外に出て陽光を浴びるとほっとした。生還した、という気持ちになる。トールはしばらく足早に歩いていくつかの角を曲がってから、やっとリンを振り返った。
『一昨日ジェイドが僕に、シンボクをフカメルとかの理由で、喫茶店で特製パフェ・デラックスをおごってくれたんです』
リンは思わず、いいなあ、と言いそうになった。言わなかったのだが、トールにはリンが何を言いたいのかわかったらしい。やっと、表情をゆるめて笑った。
『美味しかったです』
「美味しいよねえ、あれ。ひとりで食べたの」
『ジェイドと、僕の相棒と三人で。でもほとんどは僕が食べました。ジェイドはガールフレンドを誘うための下見だと言いました』
「……そうなんだ」
胸がざわついた。トールは首をかしげてリンを見る。
『ホウベンなんでしょ』
「そっか、な」
『それから昨日もです。ジェイドは荷運びに行く前に、僕を捜し回ってまでつかまえて、余ったから食べてほしいと言って飴の大袋をくれました。帰って来てからはアレクシという人のガールフレンドが作ったという試作のケーキをくれました。ジェイドには歯が溶けるくらい甘くて食べられないんだそうです。それから今朝、朝食の注文を間違えたからと、チョコレートバーを五本も』
「ジェイドって親切だよね」
トールはリンを真っすぐに見た。
『リンさんに助けてもらった直後からです』
「そうなんだー」
『しらばっくれてもだめです。それで、今日僕は暇だったので、ジェイドの荷運びに先回りしようと思ったんです。話がしたかったからです。トロッコで上がって待ってようと思ったら、おめかししたリンさんが噴水のベンチに座ってたでしょ』
「見てましたかー」
『箒に乗ってる間に手を放したら危ないです』
「……見てましたかー」
『それで話をするのを諦めて帰って来て、記憶の定期バックアップのために工房に行きました。そしたら、イーレンタールがジェイドに呼び出されていそいそとコオミ屋に出かけるじゃないですか。何かあるんじゃないかと思って、工房の外で待ってたら本当に何かありました。何してたんですか? イーレンタールを工房から呼び出してまで、白衣で変装してまで、保護局員に嘘をついてまで』
リンは黙り込んだ。
グレゴリーも間違いないと言った。トールは記憶を消去され、外見を変えられたヴィレスタ自身だ。
ラセミスタがヴィレスタを復活させたら――同じ記憶をもった良く似た別人に過ぎなくても――トールはどう思うのだろう?
「……ええ、っと」
『いえ、言わなくて、いいんですけど』
トールはどこか、あやふやな声で言った。
驚いて、見ると、トールの瞳の焦点がぶれていた。リンは、水飴を食べた時のトールを思い出した。ここではないどこかを見ているような、頭の中の何かの残滓に思いを馳せているような――。
「言わなくて、いいの?」
訊ねるとトールは瞬きをしてリンを見た。
そして、頷いた。
『言わなくていいです。僕はただ、こないだの恩をお返ししただけですから』
「そっか。すごく助かったよ。ありがとう」
『そうですね』トールは重々しく頷いた。『本当に危ないところでしたね。でも、覚えておいてほしいんです。僕は校長先生から、さまざまな仕事を頼まれる身です』
リンは硬直した。「えっ?」
『イーレンタールと同じです。いえ、もっとです。僕に魔力を提供しているマヌエルは、ふたりいて、必要に応じて切り替えられるようになってるんですが……仕事で【毒の世界】に行く時は相棒ですが、ふだんは、校長です。今も』
「……そうなの?」
『すべてのことを校長に報告する義務はなくても、僕には、校長の命令を遂行する義務があるんです。だから……僕は、人を殺そうとしたこともあります。それも、だいすきな、ひとを』
急に言葉が揺らいだ。トールは瞬きをし、ため息と共に、目を伏せた。
『……僕は、校長のために作られた、道具ですから』
「そんなこと言わないで」
『いいえ。それは事実なんです。だからもう、やめてもらえませんか』
「やめ……?」
『僕ももうやめます。僕がリンさんを助けるのはこれで最後です。だから僕のことも、もう助けないでください。ジェイドにもそう言います。僕は、もう、あなたみたいな人と、これ以上関わり合いたくないんです』
「……あたし、みたい、な?」
『殺せと命じられたら、殺さなくちゃいけないんです。あんな気持ちはもう嫌です。僕はもう、誰も好きになりたく、ない………………』
不自然な沈黙があった。リンは固唾を飲んだ。トールから表情が、抜け落ちていた。
ややして、囁くような声が聞こえた。
『――あのひとがすきだった。優しい人だって、知ってました。初めて会った人だったのに。じぶんがころされそうなときでも、だれかをかばってとびだしちゃって、おかげであのひと、が』トールの頭がふらりと揺れた。『かんしゃしてたのに……かのじょのおかげであのひとがたすかった。かのじょがああしてくれなかったら、あのひとがころされてた。ほんとにかんしゃしてたのに』
「トール……」
『でも殺そうとしたんです。失敗したけど』
急にトールに戻った。
リンは息を詰めて彼を見ていた。トールは不思議な表情を見せていた。ふたつの人格がその表情の中に見える気がした。失敗したことを喜ぶ誰かと、残念がる誰かと――。
『失敗して、叱られちゃいました。記憶の消去は、してもらえませんでした。……だから僕は、もう、誰も好きにならないことに決めました。だから、もう、あなたに会いたくないんです。ジェイドにも』
「あたしは会いたいよ」
『そうですか』
トールは薄く笑った。
『誰にですか?』
いきなりきびすを返した。リンが止める間もなく、すごい速さで走って行ってしまった。行き先は分かっていたが――追いかけられなかった。
トールが殺そうとした、大好きな人間とは、一体誰なのだろう。
リンはそのまま、ぼんやりと道端に立って考えていた。誰にですか――本当に、誰にだろう? トールに? ヴィレスタに?
あのトールは、ヴィレスタなのだろうか? トールなのだろうか? もしイーレンタールか校長の気が変わって、あの体をもとのヴィレスタに戻すことにしたら――ヴィレスタは復活する。でも、トールは、どうなるのだろう。
死ぬのだろうか。
リンは身震いをした。さわやかな夏の空気が、急に色あせ、セピア色になった気がした。物悲しくて、淋しくて。無性に、マリアラに会いたい、と思った。
マリアラなら、何と言うだろう?
マリアラは、ヴィレスタと親しかったはずだ。ヴィレスタが復活したら、きっと大喜びするだろう。トールと会ったことはあるのだろうか? マリアラなら、もしトールと普通に会っていたら、すぐに仲良くなっただろう。
トールとヴィレスタと、マリアラならどちらを――?
リンは薄いジャケットをかき寄せた。
ヴィレスタの記憶を消去し、外見を変えた校長とイーレンタールは、ひどい、とリンは考えた。そんなこと、すべきではなかったのだ。
では――
トールは生まれるべきではなかった、と、いうことになるのだろうか?
「……マリアラ」
つぶやくと、周囲の色と音が、急に戻って押し寄せてきた。路地裏はひとけがないが、少し離れた大通りから雑踏が聞こえている。さわやかな夏の空気。わくわくするものが待ち受けているような気配。賑やかで楽しげなエスメラルダの外で、マリアラはどうしているのだろう?
グレゴリーがアナカルシスの駅でくすねてきた、色鮮やかなチラシを思いだし、リンはわめきたくなった。嘘だと――こんな嘘八百のチラシがアナカルシス全土にばらまかれているというのに、エスメラルダの、彼女を良く知る人達は、そんなチラシが存在し、マリアラの尊厳を侵害していることを知りもしないのだ。【国境】で情報の流通も遮断されているからだ。急に、恐ろしい、と、思った。校長が恐ろしい。そんなことをしてまで、何を守ろうというのだろう。
情報の提供をお待ちしています、と、安っぽい呼びかけ文句がでかでかと書かれていた。情報の提供者にはダルシウス金貨一枚、身柄を拘束した者には二十枚、と、多額の報奨金まで書かれていた。エスメラルダ大学校国【魔女ビル】に狩人を侵入させた容疑で全国的に指名手配、という物々しい文句とともに載っていたのは、確かにあの、初々しく可愛らしい、マリアラの写真だった。
まるで犯罪者のように。
捕まらないで、と、リンは祈った。
グレゴリーの話では、雪山であった、あの、ウィナロフという狩人が、マリアラをかついでガルシア国から逃げたのだという話だった。彼はきっとこういう事態になることを予期していたのだろう。エスメラルダの校長が、どんな手を使ってでも、マリアラを捕らえようとすることを。
だからきっと、準備をしているはずだ。フェルドの代わりに、マリアラを守って、安全な場所にかくまっているはずだ。吹雪の中で、一枚しかない防水布を差し出し、食べたいものを話して子供たちを元気づけることに協力してくれたあの人なら、きっとそうしてくれるはずだ。
そう、祈るしかなかった。




