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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 それぞれの決意
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リン=アリエノール(22)

 空島に着いた時、そう言う理由で、リンはしょげ返っていた。


 ジェイドは空島の端っこにリンを降ろした。空島はとても美しかった。下界が夏を迎え、この標高の高い島にも初夏が来ていた。可憐な花を咲かせる高山植物が絶妙な配置で植えられて、リンの落胆を一瞬忘れさせるほどの絶景だった。


 少し離れた場所に、四阿のような風情の小さな小屋が見える。なぜあそこの戸口まで飛んで行かなかったのだろう、とリンは思う。

 と、ジェイドが身をかがめた。そこにまるまるとした猫がいたのに、リンは初めて気が付いた。


「こんにちは」ジェイドはていねいな口調で猫に言った。「グレゴリーに、お茶を持って来ましたよって、伝えてください」


 当然のことながら、猫は何も言わない。つーん、とばかりにそっぽを向いて、前足で顔をぐりぐり撫でた。ジェイドは構わず立ち上がり、リンを振り向いてにこっと笑った。


「行こう」

「……うん」


 ほっとして、リンはジェイドに並んで歩きだした。ジェイドはもういつもどおりで、先程の不快の名残はどこにもない。だからリンは、努めて元気を出そうと決めた。グレゴリーに大切な頼み事をしなければならないというのに、落ち込んでいる場合ではないのだ。




 それにしても、本当に、夢のような光景だった。想像していたよりも広いのだが、ここを、グレゴリーはひとりで丹精しているのだろうか。ジェイドがわざわざ島の端で箒を降り、小屋までとことこ歩いて行く理由が、今はもう分かるような気がした。こんな光景、箒でひとっ飛びしてしまうなんてもったいない。目に鮮やかな白い植え込みは、雲のようにもこもこしているが、近づいて見ると小さな無数の花のかたまりだった。ほのかないい香りが漂い、リンは目を閉じて深呼吸をした。

 雪山登山でもしたかのような、清涼な空気。


「やあ、ジェイド」


 小屋のそばに設えられた椅子に座っていたおじさんが、気さくな声を上げた。

 リンは目を見張った。グレゴリーという男は、名前だけは有名だった。教科書に載るほどの功績をたくさん残している。でも、そんな名声が似つかわしくないくらい、どこにでもいる普通のおじさんに見えた。


「こんにちは、グレゴリー。荷運びに来ました」

「いつもご苦労様。……こんにちは、アリエノールさん。空島へようこそ」


 グレゴリーがそういい、立ち上がる。リンはぴっと気をつけをした。


「はっ、初めまして! 突然お邪魔して済みません!」

「グレゴリー、リンのこと、知ってたんですか」


 ジェイドがたずね、リンは深々と下げていた頭をぱっと上げた。てっきり、ジェイドが先にグレゴリーに話していたものだと思ったのに。グレゴリーは微笑んで、手を振った。


「ラスから聞いたよ。みんなで撮ったという写真も見せてもらった。新しい友達ができたって、そりゃあ喜んでいた。あんなことがなかったら、近々連れておいでって言うつもりだったんだ」

「ラスは」リンは一歩前に出た。「元気でしょうか、あの、……ケガしたって、聞きましたけど、マリアラは、その」

「……」


 グレゴリーは苦笑して、片手を上げて見せた。


「まずは仕事を済ませてからにしよう。ジェイド、魔力の結晶を頼めるかな」

「あ、はい」

「荷物はこっちに。……リンさん、ラスは元気だよ。コオミ屋のバラエティセットを持って行ったら喜んでいた」

「あちらに、行かれたんですか」

「そう。義手を作りにね」

「ぎ……?」


 リンは絶句し、グレゴリーは、微笑んだ。


「少しだけ、待っていてくれるかね。空島の下部に魔力の結晶をはめ込む作業があってね、ジェイドに必要箇所を知らせなきゃならん。かけていてくれ。すぐ済むよ」

「あ……はい」


 勧められるままに、リンは座った。

 義手ってなんだ、と思う。

 ジェイドは、マリアラが飛んで行った、と言った。ラセミスタがケガをして、マリアラが飛んで行った。ひとりで。フェルドを置いて、二本の箒を組み合わせて、たったひとりで――


 命にかかわるケガだったのだ。わかっていたはずなのに。


 〈アスタ〉はそんなこと、リンに一言も言わなかった。ただ、カリキュラムに入ったから高等学校から出て課題に追われている、と伝えただけだった。リンは唾を飲み込んだ。

 リンがラセミスタに――いや、ラセミスタの近しい存在が、ラセミスタに、連絡を取ろうとすることを、〈アスタ〉は、その背後にいる存在は、喜ばないのかもしれない。

 初めてそのことに、思い至った。

 ラセミスタに連絡を取るには、〈アスタ〉を介さない方法が、絶対に必要なのかもしれない。それが重要な連絡などではなく、ただ近況を訊ねるような他愛のないことでも。





 ジェイドとグレゴリーはすぐに戻ってきた。リンのそばの机の上にジェイドは運んできた荷物をざらざらと出し、リンは興味津々でそれをのぞき込んだ。水瓶が十個もあった。これは一週間分の荷のはずだから、きっとシャワー用の水も含まれているのだろう。それから、肉や野菜、小麦粉、牛乳やバターなどの食料品。パンが見当たらないのは、材料を入れたらパンを焼いてくれる魔法道具が備えられているからだろうか、とリンは想像する。マヌエルの使う乾燥パンは焼きたてかと思うくらいふんわりしていて美味しいが、あくまで非常用のものだ。いつも同じ場所に住んでいて、量もそれほどいらないのなら、自動パン焼き器を作った方が美味しいし安上がりだろう。


 それから、やはりリズエルには欠かせない、魔法道具を作るためのさまざまな材料、そして、お菓子だ。


 一週間分、ということを考えると、目を疑うほどの量だった。

 リンは思わずグレゴリーの体を見てしまった。ラセミスタと同じく、全く太っていないのに。


「さあ、お茶にしよう」


 グレゴリーは必要なものをすべて片付け、その豊富な菓子の中から、美味しそうなものをいくつも惜しみ無く選び出して、机の中央に積み上げた。リンは感心した。まるでラセミスタのようだ。リズエルとしてのラセミスタを育てたのはグレゴリーだと聞いているが、こういうところまで似るものだろうか。

 そして、グレゴリーはさらにたくさんの水筒の中から一本を選んで、三人の器に注いでくれた。濃い色の美味しそうな香茶だった。


「パンは焼くのに、お茶は下界からもって来てもらうんですか?」


 リンは思わずたずね、グレゴリーは目を丸くした。

 そして、微笑んだ。


「そうとも。パンは焼き立てに限る。そしてここは標高が高いので、水は90℃程度で沸騰してしまうんだ。茶は100℃まで上がった湯で抽出するに限るんだよ」


 リンは感心して、うなずいた。「そうなんですね。今まで気にしたことありませんでした」


「いや、いいんだ」グレゴリーは苦笑した。「正直に変だと言ってくれていいよ。ラスにもフェルドにも呆れられたものだ。だが自分のこだわりを捨て周囲に従属し続ける生活は、もはや人生とは呼べない。人間は自分のためにこだわり、選択する生き物なのだ」

「……ああ」

「理解できるかね? たまにコオミ屋のアーモンドスライスの焼き菓子を食べない人生など許容できるかね、リン=アリエノール」

「できません」


 リンはきっぱりと言い、立ち上がった。「わかります、すごくよくわかります! あたし、同じ予算で同じカロリーなら、手近なお菓子屋さんよりも、動道を乗り継いでコオミ屋行って行列に並びます!」


「そうだろうとも」


 グレゴリーはニヤリとし、カップを掲げた。


「乾杯しようじゃないか。私のお茶への、そして君の菓子へのこだわりにね」

「かんぱーい!」


 ジェイドが苦笑しているのを尻目に、香茶がこぼれないようにていねいにカップを打ち合わせ、リンとグレゴリーは同時に香茶を飲んだ。そして顔を見合わせて笑った。グレゴリーが言う。


「だからラスにも約束してきたよ。毎月コオミ屋のバラエティセットを贈るってね。早速コオミ屋の支配人に約束を取り付けた。日もちのするものを選んで毎月ガルシアへ送ってくれるはずだ」

「すごい! ラス、喜ぶでしょうね」

「コオミ屋がガルシアへ出店してくれれば生菓子も食べられるようになるんだがねえ……コオミ屋の基準はとても厳しくて、支配人の目の届く範囲でしか製造・販売しないのだよ。彼のおめがねにかなう後継が増えれば、ガルシアへの出店も検討してくれるだろうがね。まあそれはともかく、若者の時間は有限だ。君がわざわざ僕を訪ねてきてくれた理由を聞こうか」

「あ、はい」


 リンは遠慮なく頬張っていたアーモンドスライスの焼き菓子をひとまず置き、香茶を飲んで、カップを戻し、居住まいを正した。


「用件を申し上げます。ふたつあるんです。まず、ラスとマリアラのことをお聞きしたいんです。先日ガルシアへ行かれたのなら、ラスにも、マリアラにも会われましたよね。あたし、連絡を取りたいんです。でも、ラスもマリアラも忙しくって、〈アスタ〉がつないでくれなくて――ラスが」声が震えた。「ケガをして、マリアラが飛んで行った、ということしか知らないんです。どんなケガだったんですか。義手って……どっちの……」


「左手だよ」


 グレゴリーの声はとても静かで、リンは身の毛がよだつのを感じた。


「利き手じゃ……!」

「ああ、残念なことだ。だが、それは、本人も納得ずくのことだった。言わば、起こるべくして起こったことなのだ。狩人がラセミスタの居場所を嗅ぎ付け、捕らえようとした。だから、それを避けるために、自分で斬った」

 めまいを感じた。「……自分で……」

「彼女は覚悟をして行った。リズエルがエスメラルダから出るということは、そういうことなのだ。自由を奪われ、魔女を狩るための道具を死ぬまで無理やり作らされ続ける人生と、自らの利き腕の喪失と、どちらかを選ぶ必要に迫られるだろうと、覚悟の上で赴いた。そして、そのとおり、彼女は選んだ。ただそれだけのことだ」

「……そんな」


「だが、覚悟していない事態が起こった。季節がまだ早かったのと、受験勉強の妨げになることを考慮したために、ワクチンの接種が不完全だったのだ。ケガで血と体力を奪われていたから、三日病に罹ってしまった。抵抗力も弱く、本当に危なかったんだ。マリアラはラスの命を救った。ガルシアまで、二本の箒を組み合わせ、一睡もせず、ほとんど飲まず食わずで――たったの四十八時間で駆けつけた。だから間に合ったんだ。マリアラは、私の娘の命の恩人だ」


 リンは頭を殴られたような衝撃を感じていた。

 ――四十八時間!


 ガルシアまで、箒でならだいたい五日くらいでつけるはずだ、とジェイドが言っていた。それを二日でたどり着くなんて。それがどんなに大変だったことか、リンには想像するしかできないけれど。


 ああ、やっぱりマリアラなのだ、とリンは思う。

 ダリアはリンをすごいと言ったけれど、マリアラには到底かなわない。受験勉強にかまけて、そんな大変な事態になっていた友人たちのことを、今まで知りもせずにきたリンなんか。


「君の、もうひとつの用件を聞こうか」


 グレゴリーが淡々と言い、リンは我に返った。「え」


「マリアラのことについて話す前に、まず、君の話を聞きたいのだ。もうひとつの用件とは、いったい何だね」


 リンは唾を飲み込んだ。グレゴリーの物腰から、柔らかさが消えていた。

 さっきリンと意気投合して乾杯してくれたおじさんとは、別人のようだった。

 ジェイドが何か言おうとしたが、リンは身振りでそれを止めて、もう一度、居住まいを正した。


「あたしは……私は、マリアラの友達です。二度も、マリアラに、助けてもらいました。でもそれを差し引いても、私は、彼女が好きなんです。ラセミスタのことも、大好きです。それで、あの、今この国が、何だか変なことになっているらしいことも、知っています。十月から、私は保護局員になります。保護局員になったら、……マリアラやラセミスタが、またエスメラルダに帰ってきて、コオミ屋でお茶したり、空島に遊びに来たり、できるように、努力したいと思っています。私の力は弱いけど……まだ、ひよこにもなってないんですけど……ラセミスタを娘と呼んで、マリアラを恩人と呼んだ、あなたに、どうぞ、知っておいていただきたいと、思います」


 我ながら、たどたどしい言い方だったけれど、必死になって、リンは話した。

 仲間に入れて欲しかった。ヘイトス室長の、ガストンの、サンドラの、『こっち』に入れて欲しかった。

 そして、グレゴリーにも、仲間だと認めて欲しかった。ラセミスタとマリアラを、とても大切に思っているらしいこの人に、敵に当たる存在ではないのだと、知っていて欲しかった。


 ――私はやっぱり反対です……私が『あちら』かもしれないという可能性も考慮しなさい。そうすぐ信じてどうするんです。


 ヘイトス室長がそう言った。自分でも、そう思う。グレゴリーが、ジェイドが、『あちら』だったらどうするのだ、と、そんな懸念が頭を過ぎった。でも。

 そんな駆け引きをしていられるような余裕が、どうしても、なかった。すべてをさらけ出してでも、グレゴリーに助けを請いたかった。


「だから、どうか、あたしに力を貸して欲しいんです。〈アスタ〉の目と耳をごまかせるような、そんな魔法道具を、作っていただけませんでしょうか」


 厳しい顔をしていたグレゴリーの、眉が跳ね上がった。「不法行為をするつもりだね」


「はい、そうです。イーレンタールの工房から、持ち出したいものがあるんです」


 グレゴリーは、じっとリンを見た。

 そして、笑い出した。からかうように。


「私はラセミスタ同様、イーレンタールも手塩にかけて育てたんだよ。その私に、イーレンタールに不利益を与えるとわかっていて、味方しろと言うのかね」

「そうです! イーレンタールを育てたのがあなたなら、あなたにも責任があります!」

「責任? なんの」

「ヴィレスタを殺した責任です! あたしは、……ヴィレスタの記憶の」

「リン!」


 ジェイドが声を上げる。でも、リンは続けた。


「バックアップディスクを、盗み出したいんです」



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