リン=アリエノール(20)
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その日の夜、リンはダリアの部屋にいた。彼女が購読している『月刊マヌエル通信』のバックナンバーを見せてもらうためだ。
ダリアが就職を目指している出版社は、まさにこの『月刊マヌエル通信』を発刊しているところだ。これはエスメラルダでかなり有名な雑誌であり、長い歴史を誇っている。ダリアは熱心な読者だった――熱烈、と言っても良いほどだ。ダリアが持っている『月刊マヌエル通信』のバックナンバーは、相当の冊数に上った。ダリアが生まれるはるか以前のものも、ちらほら抜けている号こそあるものの、だいたい揃っているほどのコレクションだ。
本当に、このコレクションがジレッドとベルトランの魔の手を逃れてよかったと、リンはしみじみ思う。
あまりにも場所をとるので、ダリアは、最近エスメラルダで流行している収納ケースをいち早く導入して活用していた。少ない生活費を切り詰めて、コツコツ集めたものだ。
ダリアらしいポップな色合いの、しかし素材はかなり頑丈なものだ。魔女たちの装備を参考に一般向けに販売された物で、コレクターたちに熱狂的に受け入れられた商品だ。ダリアが使っているのは書籍や雑誌をコレクションするために作られたもので、さまざまな雑誌の規格に合わせてさまざまなバリエーションのケースが作られているので、適切な物を買えば一冊一冊がピッタリ入るのだ。気持ち良いくらいだ。隙間には空気で膨らむ専用クッションを詰められるようになっているので、雑誌が中で倒れて折れたりしないで済む。
雑誌三年分を収納できるケースを小さく縮めたものがびっしり入る大元のケースは、大きめのトランクくらいの大きさがあり、小さく縮めると手のひらサイズになる。最近就職活動のために根を詰めていたダリアは、お守り代わりに持ち歩いていた。本当に、かえすがえすも、そうしておいてくれて助かったとリンは思う。このコレクションを、ダリアがどれほど大切にしていたか、リンはよく知っている。これからまださまざまな研修や試験を乗り越えていかなければならないというのに、このお守りが奪われていたら。そう考えるだけでゾッとする。
ケースの一番上に、八割くらい埋まった最新の雑誌を詰めたケースがあり、ダリアはもったいぶって――とても嬉しそうに――テーブルの上にそのケースを広げてみせた。
『月刊マヌエル通信』という雑誌は、数あるマヌエルの専門紙の中でも、とくに若い読者を想定して作られているものだ。読者層の大半が十代後半の少女なので、載っているのも若い男性のマヌエルが中心だ。表紙を飾っているのは、リンでさえも見覚えのある、二十代の見目麗しい男性のイリエルだった。
ジェイドが表紙に載ったことは一度もない、とダリアは教えてくれた。そうだろうな、とリンは思う。
雑誌はカラフルな文字と写真、イラストに溢れ、しばらくこういう世界から遠ざかっていたリンにはなんだか懐かしかった。しかし中を読んでみると、マヌエルのインタビューや、荷運びのスケジュールや、相棒の誕生やたまごの現状などについてかなり詳しいことまで書かれていて、何だかぞっとする。エスメラルダの中に来れば、こんな情報までたやすく手に入ってしまうのだ。狩人は入れないと、みんな思い込んでいるからだ。
「ジェイドはあんまり露出したがらないタイプね」
専門家らしく、ダリアはもったいぶって分析を披露する。
「インタビューは仮魔女期が終わって、正式なマヌエルになったときの、通例インタビューのみ。写真もなし、イラストだけ」
「それって、人気が出ないだろうって予測されてるってこと?」
何げない問いにダリアは、しょうがないわね初心者は、と言いたげに笑った。
「違うわよ。芸能人と違って、マヌエルは、こういう雑誌に載らなくても仕事できるわけでしょ、だから、大々的に載るのは掲載を許可したマヌエルだけなの。出てないってことは、出たくないって言ったってことよ」
「ふうん。芸能人とはやっぱり違うのねえ。スクープとか載ったりしないの」
「マヌエルのスクープ写真は法律で禁止されてるの。破ったら雑誌は廃刊、編集長と記者は国外追放、おまけに莫大な賠償金が課せられるから、誰もやらない。こういう雑誌に出ることは、マヌエルの職務とは違うけど、マヌエル全体のイメージアップにつながるから、出たい人は出てもいいというのが保護局のスタンスよ。だから、写真もインタビューも全部マヌエル本人の許可があったものだけ掲載されるわけ。通例インタビューだけは、断ると角が立つから、できるだけ出てほしいって、保護局から要請があるらしいけどね。だからジェイドもそれだけは受けたのよ。その他には、そうね、荷運びのスケジュール表には頻繁に載ってるけど、名前だけ、コメントもなし。ダスティンの方は結構載ってるわよ。インタビュー読む?」
「それって最近?」
「んーん。最新ので去年。【毒の世界】に研究所が作られることになって、そこに荷運びに行く担当に選ばれた時のが最後かな」
「ダリアって本当にすごいわ……見せて」
すぐに差し出されたそれを、リンはのぞき込んだ。ダスティンの人の良さそうな、優しそうな、結構整った顔がくっきり写っている。ああ、この顔だ、と、リンは考える。マリアラの相棒の座を勝ち得ようと必死になっていた、そのためにジェイドを威圧しフェルドに噛みついた。フェルドが検査三昧だった時、マリアラに、相棒を乗り換えてくれと言った顔。
確かにリンは、ダスティンのことは好きじゃなかった。リンがグールドに拉致された時、フェルドがリンを救うために少々無茶したことを怒っていた。始末書だぞ、問題にさせてもらうからな――リンがきたと知るとその言葉を飲み込んだけれど。
けれど、まさか。
小さな男の子を飢えさせるなんて。
それで平気な人だった、なんて。
リンは顔をしかめてそれを読んだ。短いインタビューだった。すぐに読み終わり、また初めから読み返し、ふう、とため息をひとつ。
やっぱり、思ったとおりだった。
この記事だけ読むと、ダスティンはひとりで荷運びをする予定のようにしか取れない。トールの存在は、相棒本人へのインタビューでさえ、明らかにされていない。いや、この雑誌は少し前の号だから、この時はまだトールと組むことが決まってなかったのかもしれないが……
「ダスティンに相棒ができたって話、聞いた?」
聞いてみるとダリアは、いきなりリンに詰め寄った。
「なにそれ! 本当なの!? 聞いたことないんだけど!」
その剣幕に思わず気圧される。
「し、知らないのね。じゃあ間違いかな? なんかそんなこと、小耳に挟んだような気がするんだけど……」
「ミーシャ!? じゃ……ないわよね、そうだわよね……孵化したばっかりだし、あの子がシフトに入れるのは来年よね。じゃあありえないわよ、リン。左巻きのラクエルって本当に希少なのよ、マリアラが孵化したときだって大騒ぎだったじゃない」そうなんだ、とリンは思った。「仮魔女期を終えたのはあの子が最後、次に終える予定なのがミーシャ。マリアラはフェルディナントの相棒だし、ミーシャはこのあと、一年はシフトに入れないんだもの。ね、マリアラ……元気でいるのかな」
そう言ってダリアはケースを一瞥し、背表紙からすぐに目当ての雑誌を抜き出した。
よっぽど何度も読んだのか、その雑誌は、その前後の号よりはるかによれていた。
「……言ってなかったけど。この通例インタビューの取材の時。あたし、……マリアラのこと聞かれたんだよね。記者が訪ねてきたの」
「えっ」
リンは思わずダリアを見返し、ダリアはへへへ、と何かをごまかすように笑って、巻末の読者ページを開いて見せた。
「あたし、よく……読者ページに投稿してたの。ほら、巻末の読者コーナー。ここ。イラストとか、雑誌の感想とか、毎月送るの。何度か載ったことあるのよ。それで、編集者のラングーン=キースさんが訊ねて来たの。マリアラの一般学生時代のエピソードとか、知ってたら教えてほしいって。あたし、その時は……ほら、リンに紹介してもらったばっかりだった、し……その……なんていうかな、知らないですって言ったの、ぜんぜん知らない子なんですって」
「え、どして?」
通例インタビューは、仮魔女期を終えてシフトに入った後に載るものだ。ダリアに記者が聞きに来た時には、すでにダリアとマリアラは知り合いだったはずなのに。
「そりゃ……知り合ったばかりだったから。仲良くなりたかった、からよ」
なんだか歯切れが悪い。ダリアはどう説明しようかと迷うようにしながら、「ほらこれ」と言って記事を見せてくれた。写真ではなく、イラストだった。マリアラが写真の掲載をOKしなかったのだろう。
そのインタビュー風景のスケッチをみて、泣きそうになった。
ちょっと幼いが、確かにマリアラだった。左巻きのラクエルが生まれたのは久々だったし、彼女の仮魔女試験は前代未聞の大騒動になった。さぞ大々的に載ったのではと思ったのだが、その記事はとても小さかった。
おそらく、さっきダリアが言ったけれど、マヌエルの人権を保護するためなのだろうという気がする。狩人に狙われて殺されそうになったことをこんな雑誌でみんなに広めてしまったら、その後のマリアラの生活に多大な影響が出てしまうから。この記事を読む限りでは、マリアラの試験の時にあんなことが起こっただなんてわからないようになっていた。
けれど、一般学生時代のエピソードを掲載できなかったからか、ゲームのことがちょっとドラマティックに紹介されていた。彼女の相棒の座をめぐって三人の右巻きが(しかもみんな男性である)争っただなんて、いかにも、少女たちの興味と羨望をそそったに違いない。
「リンはすごいよ」
ダリアがぽつんと言った。リンは顔を上げる。「え?」
「最近……よく考えるんだよね。あたし、マリアラの友達になったじゃん?」
「うん」
「でもあのさ、あたし、……今、就職活動中でしょう?」
「うん」
「だからよぎっちゃうの。どうしても、あたし、『月刊マヌエル通信』の記者になりたいんだもん。だから……面接で……言ってしまいそうなの。あたしには、マヌエルの友達がいるんです。あたしを採用したら、左巻きのラクエルとの、……とても太い繋がりができます、って」
「……」
リンは座り直した。ダリアは唇を噛み、俯いた。
「言ってないよ。あたしがあの子と友達になったのは、コネを作りたかったからじゃない。だから、通例インタビューの時にも、知らないふりをしたの。けど、今は……就職活動してて、それで、このまま言わずに、落ちたら、ああ言えばよかったって、後悔しそうなんだ。自分の中でいつも囁いてる声が聞こえる。嘘つくわけじゃないじゃん。どうしても『月刊マヌエル通信』の記者になりたいじゃん。使えるものは全部使って、何が悪いの? って」ダリアはリンを見た。「……軽蔑、する?」
「なんで!? するわけないじゃん!」
「……」
ダリアは何かを押し殺すように笑った。
「……だからね、リンはすごいなって思うの。ほんとに、ほんとに、そう思う。ジェイドもきっと、いつかそう思うよ」
何がすごいのかわからないんだけど。
リンは言おうとし、その言葉は飲み込んだ。ダリアがこんな風に話すなんて珍しい。稀有なことだと言ってもいい。
だから本心なのだろうと思う。ダリアは、理由はよくわからないけれど、リンのことを心底すごいと思ったのだろう。それは否定すべきではない、気がする。
リンは微笑んだ。
「ありがと。ジェイドにも、そう思ってもらえるといいなぁ」
「……リンってば、ほんとに!!」
突然の衝撃だった。
ダリアは出し抜けに、リンの肩をばーん、と叩いたのだ。
かなり本気の力だった。リンは思わず叫ぶ。
「いったああっ!?」
「リンはすごい! だから、頑張れ! ジェイドもなんとか落とすんだ!」
「いったいよダリアー!」
「うるさい、愛の鞭よ!」
「意味わかんないんだけど!?」
「あさってデートでしょ? 服どーすんの? 明日買いに行く? 明日の午後は空いてるんだ。見立てて上げるわよん」
「ほんと!?」
痛さも忘れてリンは飛び上がった。ダリアの趣味の良さは折り紙付きだ。ダリアは自信たっぷりに笑う。
「あたしも服減っちゃったし、買いに行きたいと思ってたのよね。賠償金ふんだくれるわけだし、貯金を少々崩したって大丈夫。リンは十月から保護局員だし、仕事でも使えるような、大人っぽいの買いに行こうよ。リンは細くて足が長いし、ジェイドと付き合ったら箒に乗ることも増えるだろうし、女の子っぽくも大人っぽくもなるスラックスなら、数着持ってても邪魔じゃないはずよ」
「ありがとう! ダリア大好き!」
「うふ」ダリアは満足げに笑った。「それじゃあ今日さ、点呼よろしくねん」
「……え? 点呼?」
「今夜これからデートなんだ」
「……ほほう」どうりで、ダリアの部屋で雑誌を読むといいと、熱心に勧めるはずだ。「門限後だけど? 五階からシーツ裂いて脱出でもするつもりかね」
「箒で窓まで迎えに来てくれるんだ」
「へ」
「イリエルの彼氏ができたんだ。……お願い! 夜明けまでには帰るから! マヌツー全部好きに読んでいいから!」
マヌツーってなんだ。
一瞬考えて、『月刊マヌエル通信』の略称なのだろうと悟る。
リンは苦笑した。つい最近まで、リンもこういうアリバイ作りをよく頼んでいたものだ。さすがに門限後に箒で窓まで迎えにくるような、派手な相手と付き合ったことはなかったけれど。
「うん、わかった。点呼はなんとかうまくやるわ」
「ありがとう!」
ダリアは嬉しそうに、パジャマを脱ぎ捨て、着ていく服をあれこれと選び始めた。
リンはマリアラとフェルドとダスティンの情報を見つけ出すべく、再び雑誌に目を落とした。部屋の主が出かけるなら、このままベッドに陣取って、気兼ねなく調べ物に没頭できる。
ダリアが出かけて、しばらく経ったころ。
マリアラの通例インタビューが載っている号から順番に雑誌を拾い読みしてきたリンは、先月号までたどり着いたところで、その記事を見つけた。
『天使と呼ばれる少女――ウルクディアにて』
記事内に出てくる日付は、先々月の半ばになっていた。
記者の署名には、ラングーン=キースとある。ダリアが心酔している、リンもすっかり名前を覚えてしまった人だ。すっごいのよキースさんて、売れっ子で、記事バリバリ書いてるのにコンスタントに書籍も出してるの、執筆スピードが尋常じゃないんだよね――今回のは見開き三ページにもわたる特集記事で、特例的にウルクディアに配属になった、左巻きのレイエルの活躍について、事細かに書かれていた。
記事によると、まだ年若い、十代の少女だという。レイエルがエスメラルダ国外に配属になったのは初めてで、その治療の腕と、彼女の献身的な働きがウルクディアで大評判になり、誰からともなく『ウルクディアの天使』と呼ぶようになった、とある。
――ミランダのことだ。
リンはなめるように記事を読んだ。
……彼女が特別なのは治療の腕のお陰ではない。何よりその献身的な働きが、ウルクディアの人々の心をとらえた。町の噂で、彼女が休みを取ったことが配属以来一度もないらしいと聞き、ウルクディアの【魔女ビル】医局に問い合わせたところ、担当官は苦笑いと共にその噂を肯定した。配属以来ずっと、朝八時から夜十時過ぎまで働きづめで、担当官も再々休暇を取るよう勧めているのだが、暖かくなるにつれて三日病の患者が増え始めたこともあり、彼女の申し出に甘えるしかないのが現状だという。
エスメラルダ駐在特使は彼女の体調を憂慮し、エスメラルダにさらなる左巻きの派遣を求めるため、ウルクディア街長に対し、狩人の放逐対策をさらに進めるべく強く要望した。……
――天使か。
反射的に反抗心が渦巻いて、リンはたじろいだ。
――あたしって、やな奴だ。
マリアラとフェルドがややこしいことになっているのは、ミランダのせいじゃないのに。抜け駆けしたのはグムヌス議員だし、そもそも、こんな状況を招いたのはそのグムヌス議員でもないのだ。悪いのは校長で、だから、校長を排除すべく、ガストンもヘイトス室長もサンドラも、努力を続けているのに。
ミランダが何も悪くないと知っていながら、あたしは、ミランダの活躍を喜んでも、その体調を心配してもあげられないのか。
イクスのことをとやかく言えやしない。リンは顔をしかめ、ダリアのベッドに仰向けに寝転がり直した。雑誌を取り上げ、顔の上に掲げて、その特集記事をもう一度読んだ。
どうしてミランダは、休みを取らないのだろう。
ガストンから聞いたところによると、シグルドが、ウルクディアに配属になったそうなのだ。だからグムヌス議員もミランダの逃亡先にウルクディアを選んだのだ。遠距離じゃなくなったのだし、今頃は休みごとに、デート三昧だろうと思っていた。
いくら忙しくたって、特権的なマヌエルなのだ。どんなに治療を求められても休みを取る権利は認められているはずだ。休みを取らないと治療にも差し障りが出るだろうし……なのにシグルドと会う日まですべて、仕事に当ててしまうなんて。
リンは雑誌を顔に伏せて、目を閉じた。シグルドと喧嘩したり別れたりしたわけじゃないといい、と、考えた。
それが自分の、紛れも無い本心だということに、少しほっとした。




