リン=アリエノール(16)
*
休みの間にラセミスタに何度か連絡を取ろうとしたのだが、いつもつながらなかった。彼女は既に本格的なカリキュラムに入っていて、課題をこなすために高等学校には滅多に戻ってこないのだ、と〈アスタ〉は説明し、リンとしてもそれを信じるしかなかった。マリアラも、ほとんどいつも留守なのだと〈アスタ〉は説明した。ガルシアはとても広い国だ。三日病やさまざまな病気やケガの治療に、国中を飛び回っているのだと。
そんなこんなで、リンの休みはゆるゆると過ぎていった。研修にも行かずジェイドにも会わず、惰眠をむさぼるか暇を持て余すだけの、とても自堕落な時間の中に、その人は唐突にやって来た。
サンドラの攻撃を退けた、二日後のことだ。リンは部屋着のまま、人のいない食堂でぼんやりしていた。食べ終えた昼食のトレイも下げないで、日の光を浴びて座っていると、起きているのか眠っているのか自分でも分からなくなってくる。自堕落にしているのは、他の寮生がみんな出払っているからだが、寮母さんに咎めてほしい気持ちがあったのも確かだ――小言でいいから構ってほしい気分だったのだ――けれど寮母さんは久々の休暇を満喫しているリンが、どういう風にどういう格好で過ごそうと咎めないと決めているらしい。ダリアを始めとする同じ寮の友人や後輩たちは、授業や研修やアルバイトで忙しくしているから、リンを構ってくれる人はひとりもいないのだった。
ジェイドにあんなこと言うんじゃなかった。
リンは心底後悔していた。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
あんなこと言ってなかったら、ジェイドは荷運び以外は暇だと言っていたから、もしかしたら一緒に過ごせたかもしれない。リンは机の上に顎を乗せ、むう、と唇を尖らせた。どうして、なぜ、あんな軽率なことをしてしまったのだろう。いや、近々連絡を取らなければならないのだが、こちらからはとてもしづらい。
「あー……」
誰でもいいから、リンを構ってくれないだろうか?
「……リン!」
絶妙なタイミングで寮母さんの声がかかり、リンはがばっと体を起こした。来るべきお小言に備え、今片付けるつもりだったんですーと言えるよう昼食のトレイに手を伸ばす。
しかし寮母はリンにお小言をくれるつもりはなかったようだ。あわてた様子で小声で叫びつつ食堂に入ってきた。
「リン、大変よ! お客様よ! 早く――なんて格好してるのあんた! 早く着替えて来なさいっ」
「は、はいっ!?」
寮母の様子に、これはただならぬ客なのだと感じ、リンは慌ててトレイを持って立ち上がった。速足で近づいて来た寮母がトレイを引ったくる。
「いいから早くしなさい! ――そっちから出ない! お待たせしないのよ、早くっ!」
普段使いの扉ではなく厨房の出入り口から押し出される。察するにお客様はロビーで待っているのだろう。リンはロビーを避けて階段に出、足音をさせないように駆け上がった。一体誰だろう? 大急ぎで着替え、歯磨きをし顔を洗って髪をとかし、階段に駆け戻るまでに五分もかからなかったはずだ。けれど寮母さんが階段の下で待っていて、心配そうに手をもみしぼっていた。
「大丈夫? 何か問題があったの?」
「え――」
「ニュースで見たことあるわよあの人……お行儀良くね!」
ぽん、と背を押されてロビーに一歩足を踏み入れ、リンは硬直した。
リスナ=ヘイトス事務官補佐室室長だった。
「リン=アリエノールさん」
リンの内心の悲鳴が聞こえたかどうかは定かではないが、ヘイトス室長はつんとしたしぐさで眼鏡を押し上げ、きびきびした調子で言った。
「お休みのところお邪魔します。先日の件で、こちらで作成する書類にあなたのサインをもらい忘れたんです」
「あ、は、はあ」
良かった。どうやら叱責するつもりでも国外追放の辞令をもってきたわけでもないらしい。リンはほっとした。ヘイトス室長はてきぱきと続ける。
「もしあなたの手がすいてるようなら、事務局にきていただいて、サインをお願いできませんか。【魔女ビル】外に持ち出せない書類なので……こちらの不手際で、申し訳ないんですけど」
リンは呆気に取られた。申し訳ないって言った?
気が付けば物腰も、普段ほどの威圧感を抱かせない。穏やかと言ってもいいような雰囲気だ。リンは呆然としたまま、うなずいた。
「はい、あの、特に予定はないので。もちろん伺います」
「ありがとう」
礼まで言われた! そう言えばサンドラが、ヘイトス室長は事務方に人気がある、と言っていたっけ。リンはそのまま、ヘイトス室長とともに寮を出た。出掛けに寮母さんに、大丈夫だから心配しないで、と、目で伝えることも忘れなかった。
陽光はうららかで、空気はとてもすがすがしかった。エスメラルダ中が心躍らせる夏の空気だ。そのせいか、ヘイトス室長はいつもよりくつろいでいるように見えた。髪形も服装も、一部の隙もない普段どおりなのに、横顔がなんだか柔らかい。
この人がラセミスタを追放したのだなんて、信じられなくなりそうだ。
そしてリンは、ヘイトス室長が自分より――おそらくはサンドラよりも、背が低い、という事実を初めて知った。
動道はすいていた。一番ゆるやかなスピードのレーンに乗って少しして、ヘイトス室長が言った。
「というのは口実なんです」
「はいっ?」
リンは目を丸くした。何が口実なのだろう?
ヘイトス室長はリンを見て、つんとした口調で言った。
「このわたくしがサインをもらい忘れるなどと言った失態を犯すわけがないでしょう。サインはもちろんしていただきますが、忘れたのではありません。わざともらわなかったのです」
「は――そ、そうなんですか」
「ええ」ヘイトス室長はまた前を見た。「【魔女ビル】に着いたら〈アスタ〉を警戒しなければなりませんから、今ここでお話します。サインが済んだら、あなたに会わせたい人間がいるので、一緒に来ていただきます」
「あたしに……どなたでしょうか」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエルです」
リンは絶句した。
ヘイトス室長は言葉を重ねた。
「どうしてもあなたを呼んでほしいと言うもので。……私はね、リン=アリエノール。あなたを『こちら』に引き込むのは、最後まで反対だったんです。今でも歓迎はしてませんよ」
動道はゆるやかに進んでいく。何度かカーブを曲がって、行く先に見える【魔女ビル】の巨大な姿が少しずつ近づいて来ている。
「ガストン指導官とゲン=リカルドの熱のいれようときたら大変なものでしたが……私は反対でした。ルクルスの子供が自分の身代わりに狩人につれ去られた程度で、魔女の治療を拒否するほどに傷ついてしまうようでは、この先、仲間を切り捨てる決断を迫られた時に対処できるはずがない。若いからだとガストン指導官は言いましたが、そうでしょうか? 若くとも冷徹になれる人間は大勢いる。知性で感情を制御できる人間でないと、『こちら』に引き入れるリスクが大きすぎる。でもジルが引き下がらないので、しょうがなく、サンドラに頼んだのですよ。あなたを『こちら』に引き入れることに、あの子の判断も加えたいと思いました」
「え……」
これは、いったい、
――何の話、だ?
「サンドラも、反対しました。あなたは確かに誠実で、一生懸命で、真摯で一途。とても好ましい人間。だからこそ『あちら』との戦いになど、引き入れるべきではないとね。警備隊員とのいさかいがあってさらに、サンドラは反対しました。『こちら』に入ったなら、あのような出来事が起こる確率は格段に上がります。サンドラも、入局以後ずっと、つらい思いをしてきたのですから」
「……あの」
「でもねえ」ヘイトス室長はこちらの反応には相変わらず一切構わなかった。「仕方がない。あなたは試験に合格しました。ジルの言い付けを忘れず、恩を受け好意をもつ上司にさえつたないながらも嘘をつき身を守る判断をとっさに下した。だからまあ……しょうがないですね」
「あの、ヘイトス室長、」
「サンドラから伝言です。次はもっと平然と嘘をつかないとだめよ、だそうです。動揺が丸見えで、もしサンドラが本当に『あちら』の人間だったら、今頃あなたの葬式がしめやかに執り行われていたところですよ」
「……じゃあ」
リンの胸に、後ればせながら、安堵と歓喜が広がった。
「ウィードさんも、『こっち』だったんですね」
「……」
ヘイトス室長は長々とため息をついた。
「私はやっぱり反対です……私が『あちら』かもしれないという可能性も考慮しなさい。そうすぐ信じてどうするんです」
「……あっ」
「いいですか。私もサンドラも、あなたを助けませんよ」
動道は最後のカーブを曲がり、【魔女ビル】へ向かう坂を下り始めていた。
ヘイトス室長は厳しい顔をして、リンを一顧だにしなかった。
「あなたがへまをして校長に『こちら』だとばれ、国外へ追放される、もしくは命を狙われることになってもね、私達はあなたをどうすることもできません。あなたはただの一保護局員に過ぎません。自分が特別なのだなどと思わないように。校長があなたに追放の辞令を出せと命じたら私は出します。あなたをかばうことは、私自身を危険にさらすことですから」
「……は、い」
「ジルのことも当てにしないことです。私もジルもあなたとサンドラならサンドラの方を優先します。辞令を出すというポジションを『こちら』が占めておくことは、ジル自身を守ることより重要ですから。サンドラにはいつか私の跡を継いでもらわなければなりません。お分かりですね?」
「はい」リンは真剣にうなずいた。
そして、たずねずにはいられなかった。
「……ジル、というのは、ガストン指導官のことです、よね?」
「あら」
ヘイトス室長はしまったという顔をした。厳しい仮面がくずれ、彼女本来のだろうか、優しい穏やかな内面がその頬にあふれ出た。
その横顔が存外可愛らしくて、どうしても、聞かずにはいられなかった。
「あの……もしかして、親しい、ご関係、なんですか?」
血縁とか……恋愛関係、だとか。
「まさか」
再び元の険しい仮面を貼り付け、ヘイトス室長はつーん、と横を向いた。
「ただ同期なだけですよ。あなたも入局したら分かります。初めのうちは、同期同士でさまざまな訓練や任務につかされますから。ギュンター警備隊長も同じことです」
「……………………ど、うき?」
リンは呆然とした。
ガストンは確かまだ、四十代半ばのはずだ。
リンはヘイトス室長をまじまじと見る。
ヘイトス室長はふん、と鼻を鳴らした。
「年上に見えた方が職務上有利ですから。若く美しく見せるだけが化粧ではないのですよ」
そんなことも知らないのかこのお嬢ちゃんは、と、言ったも同然の口調でヘイトス室長は言った。
リンは呆然としたまま、ヘイトス室長の後について【魔女ビル】に入って行った。
この数十分で、なんだかすごく、世界が広がったような気がした。
*
ヘイトス室長は【魔女ビル】に入ってからはひと言も話さず、てきぱきと廊下を歩いた。
まず七階へ行き、事務官補佐室の部下たちの目の前で、いくつかの書類をリンにサインさせた(サンドラは先日と同じように、休暇中だというのに楽しそうに書類を読んでいた)。その後リンはヘイトス室長の指示どおりに先に出て、【魔女ビル】の一階で、寮母さんに、せっかく町へ出たからぶらぶらしてお茶して帰ると連絡をいれた。外来患者のごった返す医局の受付窓口で待っていると、非常口のそばでヘイトス室長が合図をしたのが見えたのでそちらへ向かう。
ヘイトス室長についていくと、職員専用通路を通って、あっと言う間に食堂の裏口に着いた。ヘイトス室長はそこに用意されていたワゴンから、食べ物の満載されたトレイをひとつ取る。
「持っていただけますか」
「あ、はい。もちろん」
リンにトレイを手渡し、ヘイトス室長はまた歩き始めた。リンはついいつもの癖で、トレイの内容をチェックした。山盛りご飯にカリッと揚がったフライ(多分白身の魚)が三切れ、あんかけの肉団子が四つ、ホウレン草のソテーとおみそ汁。その他に皮のカリカリしたニラまんじゅうがみっつ。随分食いしん坊の食事らしい。
――フェルドのだろうか。
人けのない通路を淡々と歩いていく。いくつか角を曲がった。そのたびに静けさが増していく。こつこつと、ヘイトス室長のヒールの立てる音。きゅっきゅっと、リンのスニーカーが立てる音。ふたつの音だけが静まり返った廊下に響く。
〈アスタ〉を警戒しなければならないと言われたので、リンは黙っていた。でも、考えていた。フェルドはやはり【魔女ビル】にいるらしい。ヘイトス室長は次第に【魔女ビル】の中枢へ向かっているようだ。
――まるで監禁でもされてるみたいだ。
ヘイトス室長が角を曲がった。少し先に、食堂のそばで見たワゴンに似た物が置いてあった。ヘイトス室長はワゴンを一瞥もしないまま、何段目かに置いてあった小さな平べったい箱をすっと取った。素早くポケットにいれ、そのまま歩いていく。
「この廊下には〈アスタ〉のカメラとマイクがないんです」
ヘイトス室長が囁いた。
「よろしいですか。中に入ったら私語は厳禁です」
「はい」
「〈アスタ〉は万能ではありません。あなたの存在を不審にさえ思わなければ、カメラに映っていても、認識しないんです。あなたは看護助手です」
周囲を確かめ、今手にいれたばかりの小箱を取り出して開き、中から小さく縮められた白いものを取り出した。中に注射器がひとつ入っているのが見えたが、ヘイトス室長はそれは出さなかった。ぽん、という音と共に元の大きさに戻されたのは、白衣とマスク、白いぴったりした手袋、それから書類挟みだ。
ヘイトス室長はリンから食事のトレイを取り戻した。
「着なさい」
「はい」
リンはそれらを身につけ、マスクをした。ヘイトス室長はひとつうなずき、再び先に立って歩きだした。
「看護助手らしからぬ行動はしないように。驚いたりしないように。看護助手が注目すべきは彼ではなく、計測機器です。データのチェックだけをしていなさい。ワクチンが手に入りましたから、少し時間がかかりますが、必要なことは私がやりますから」
「はい。あの……ワクチンって?」
「三日病のワクチンですよ。彼は右巻きですから、三日病にかかったらおしまいです。治療は許されないでしょう」
「フェルドは……」喉がからからだった。「監禁、されてるんですか」
「当然です。左巻きの存在が明るみに出、そして国外に逃れたのですから」
「……」リンは唾を飲み込んだ。「殺されたり、することは、ないんでしょうか」
ヘイトス室長はリンをちらりと見た。
「彼は人間の手で殺すには魔力が強すぎます」
「……その人間が、危険すぎる、ということですか?」
「あなたは馬鹿ですか? 食事に毒を盛ればいいだけの話でしょう。違います。エスメラルダの中で殺すと、生じる歪みが強すぎるんです。校長は歪みの専門家です。フェルディナントを人為的に殺せばエスメラルダ中の歪場が狂い、再び【夜】に向けて【穴】があく事態になりかねません。こないだはひとつだったからなんとか対処できたんです。同時に複数空いたらおしまいです」
「……じゃあ……すぐに殺されるような事態ではない、ということです、ね」
「三日病なら話は別ですけどね。医局の協力者がワクチンを用意してくれたからその懸念もだいぶ減りました。一本だけでもないよりはずっとマシです。彼のことですから、ふたつ目もなんとか手にいれてくれるでしょう。さ、おしゃべりはおしまいです。あなたは看護助手です。それを忘れないように」
「はい」
ヘイトス室長は再び角を曲がった。
両側にぽつりぽつりと扉が並ぶ通路だった。ヘイトス室長は右側の、四つ目の扉の前で立ち止まった。何の表示もない無機質な扉だ。他の扉とそっくりで、一度ここから離れたら、きっともうどこだったかわからなくなってしまうだろう。
ヘイトス室長が扉を開く。リンは唾を飲み込んだ。
中は明るかった。真っ白な部屋だ。さまざまな検査器具がひしめき合っていた。リンは書類挟みをかまえ、中に乗り込んだ。
部屋の半分がガラスで仕切られていた。その中は薄暗く、何も見えない。リンがそちらに目を向けると、中が、ふうっ、とさらに暗くなった。不自然なほどの暗闇で、何も見えない。
ヘイトス室長は黙ってガラスの向こうへ回り、鍵を開け、ガラスの中へ入った。リンは背後の扉を閉め、書類挟みに何か書き込む振りをしながら、医療器具をのぞき込んだ。
心臓がドキドキしていた。
まさしく、監禁だった。
フェルドはあの中にいるはずだ。明かりが暗くなったのは、リンに気づいたからだろうか。見られたくないのかもしれない。それはそうだろう、という気がしたが、ではなぜ、リンを呼んでほしいと言ったのだろう。
ジェイドに話さなければならない、と思う。それから、ジェイドが心配していると、フェルドに伝えたいと思う。けれど、それは無理だった。リンはただの看護助手だ。ヘイトス室長の指示どおり、フェルド自身よりもそのデータの方に関心があるふりを装わなければならない。
背後で、食事のトレイが置かれる音がした。それから、しばらく静かになった。ワクチンを打っているのだろうかとリンは想像する。ワクチンって、手探りでも打てるものなのだろうか。
永劫にも感じる沈黙の後、ヘイトス室長が言った。
「本は足りてますか」
フェルドの返事はない。
「何か足りないものは?」
やっぱり返事はない。
ヘイトス室長は軽く息をついた。かた、と音がした。かちゃかちゃと食器の鳴る音。リンが振り返ると、ガラスの中は相変わらずの闇だ。そこから、空の皿の乗ったトレイを持ったヘイトス室長が出て来た。扉を閉め、鍵をかける。
「それでは」
ヘイトス室長はリンに一礼し、さっさと部屋を出て行った。
リンはしばらく考えた。ふだん、ヘイトス室長と看護助手が一緒に行動することはないからだろう。〈アスタ〉に見張られたこの部屋で、フェルドがリンに何かを伝えるとは思えなかった。たぶん、顔を見せることだけがヘイトス室長の目的だったのだろう。
リンはそれから少しの間、計測機器を調べるふりを続け、それからその部屋を出た。
さっき〈アスタ〉のカメラもマイクもない、とヘイトス室長が言った通路に急ぐと、やはりそこにヘイトス室長が待っていた。リンを見て、微笑む。
「上出来ですよ」
ほめられた!
「早く脱ぎなさい。その格好で歩いていたら、看護師に見つかってさまざまな仕事を言い付けられるかも知れません。……あなたにです」
ヘイトス室長はトレイの空になった器の下から折り畳まれた紙片を取り出し、リンに差し出した。
「内容を報告する必要はありません。今回フェルディナントのところへあなたを連れて行ったことはジルも知らないことですから。帰り道をよく覚えておきなさい。私があなたをあそこへ案内することは二度とありません」
リンはマスクと手袋を白衣のポケットにしまい、白衣を畳んで小さく縮めてから、顔を上げた。
「……そうなんですか」
「とても危険な賭けでした」ヘイトス室長は重々しく言った。「もし、次に行く必要があるなら、ひとりで行きなさい。それじゃ」
ヘイトス室長はくるりときびすを返す。リンは慌てた。
「あの、白衣、どこにお返しすればいいですか」
「返す必要はありません。今後必要になるかもしれないから持ってなさい」
ヘイトス室長は振り返りもせず、どんどん歩いて行ってしまう。リンは紙片をポケットにしまい、ヘイトス室長の後ろ姿に向けて頭を下げた。
「危険な賭けに乗ってくださり、ありがとうございました」
「……あなたに礼を言われる筋合いのことではありません」
ヘイトス室長の返答はやはりにべもない。リンは微笑んだ。
この人のことが好きになりそうだ。そんな予感がする。
と、ヘイトス室長は振り返り、囁いた。
「エルカテルミナの要望に出来る限り応えることは、エスメラルダ国民の義務ですから。……お疲れさまでした。気をつけて帰りなさい」
「はい」
リンはうなずき、ヘイトス室長が足早に立ち去るのを見守った。
エルカテルミナって、どこかで聞いた言葉だ、と、考えていた。
*
道順をよく覚えてから、ようやくのことで【魔女ビル】を出た。随分長いこといたような気がしていたが、外に出ると、まだ昼下がりと言っていい時分だった。
リンは寮母に伝えたとおり、ぶらぶらと歩きだした。せっかくここまで来たのだから、奮発して、コオミ屋の喫茶室でお茶でもしよう。もし奥まったソファがあいていれば、そこでこの手紙を読める。
いったい、何が書かれているんだろう。
――すごく変なことが起こってる。
そう言っていたジェイドの声を思い出す。ジェイドの言うとおり、本当に変なことが起こっていた。エルカテルミナって何だ? どこで聞いたんだっけ? 左巻きが国外に逃れた、と、ヘイトス室長は言っていたけれど――
マリアラのことなのだろうか?
リンはぞっとした。バラバラになっているジグソーパズルのピースがひとつ、かちっ、と音を立ててはまったような気がした。




