リン=アリエノール(15)
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それから三日の間、サンドラは毎日リンの寮へ来て、損害賠償請求の申請書類を作成するやり方をていねいに教えてくれた。
サンドラが指導して行う損害賠償請求は、寮の器物損壊と現状復帰への対処についてがメインになるのだとリンは思っていたのだが、実際のところそちらについてリンの出る幕は全くなかった。寮関連は全て寮母が責任者となるらしい。
サンドラがサポートしてリンが提出した書類は全て、リン個人の被った被害を弁済させるためのもので――その金額はリンの考えるよりはるかに多かった。数倍というレベルではない。桁が二つほど違ったのである。
「あのね、あたしの個人的な恨みを晴らそうとしてこんな金額にしたわけじゃないのよ」
そうしたいのは山々なんだけどさあ、と、三日目にしてだいぶ打ち解けたサンドラは笑う。
「これくらい正当な額なのよ。まああなたの場合は、証言者がマヌエルだったってことと、あいつらが初犯じゃないってこともあるから、ちょっと強気の請求にしてあるけどね。未成年者に対する脅迫と暴行と窃盗と私物の損壊とおまけに――ね、あなたとダリアさんの受けた恐怖と精神的苦痛を考えたらこれくらい安いものよ!」
「……そうなんですね」
それにしても銀貨1000枚とは。こんな金額、今まで自分の手に入ることなど夢想したことさえなかった。
「あのね、貯金は、いくらあっても悪いことないんだから。十月には保護局に入局することになるでしょ、スーツとかひととおり揃えることになるし……寮を出て、自分の城を構えることになるのよ? 忠告するけどベッドと寝具はいいものを買いなさい、体が資本の職業なんだからね。さ、これでいいわ」
サンドラは、最後に書類を揃えて封筒にしまい、ほっと息をついてにっこり笑った。
「いい、書類は今日でできたけど、提出は四日後よ。それまでゆっくり休みなさい。受験勉強も研修も続いてたし、本当に疲れたでしょう? 寮母さんから、受験勉強でリンがげっそり痩せちゃったって聞いたわ」
「え」リンは頬に手を当てた。「そんなはずないですよ。もともとこうですよ」
「そうかしら」サンドラは笑う。「もう少しふっくらしても可愛いと思うわよ。研修は来週から再開するからね」
「はい」
後片付けが済んだ。サンドラが立ち上がり、リンも立った。サンドラの目を見て、リンは頭を下げた。
「本当に、いろいろありがとうございました。助かりました」
「いえいえ、どういたしまして」
サンドラは微笑んだ。リンが顔を上げると、サンドラは、まだリンを見ていた。
その目に奇妙な色が宿ったような気がして、リンは瞬きをした。
なんだろう。
「……ガストンさんは」
サンドラがゆっくりと言い、リンはぎくりとする。
サンドラの口元に、不思議な笑み。
「本当に困った人よね。そう思わない?」
「え――」
「いくら必要だって言っても、みんなの前で、あんな風にこき下ろす必要はないわよね。ストールンなんてすっかり信じちゃって、ひどい言い草だったじゃない。なにもあなたの天敵にまで、わざわざ嘘の悪口を言って喜ばせなくてもいいのに」
「……あ」
どうしてそれを――
混乱しつつも、瞬時にリンの胸に広がったのは、分かってもらえていた、という安堵と、歓喜だった。
本当はガストンに嫌われていない。それどころか、認められて、『こっち』に誘われていて、寮母に心配されるほど必死で受験勉強をしたのだって、ガストンに今年入るようにと言われたからで。いくら必要だって言われても、みんなに誤解されるのはつらかった。ガストンと同じくらい、サンドラにだって、認められたかったからだ。それにイクスにも――もちろんそうだ、誰よりもあのイクスの前で叱責されたのが、一番つらかった。あんなやつを喜ばせることになるのが、本当に悔しかった。ガストンには名字じゃなくて名前で呼ばれてるんだって、教えてぎゃふんと言わせてやりたかった……
そのやるせない気持ちを、サンドラは、わかってくれていた。
ほっとして、思わず、口から同意の言葉がこぼれるところだった。
「大丈夫よ」
優しい、甘い、蜜のような誘いが、サンドラの口から紡がれた。
「あたしも『こっち』だから。あたしには、本当のことを言ってもいいの。研修中に、ガストンさんに、『こっち』においでって、言われたんでしょ? ……あなたが」
――そいつは多分こう言う。俺も『こっち』だから、本当のことを言ってもいいよって。
――気をつけろ。そんなことを言っておまえに近づく人間は、『こっち』にはいないからな。
ガストンの言葉がぽつりぽつりと胸に浮かんで――
「あなたが『こっち』に入ってくれれば、本当に心強いわ」
サンドラは笑顔だった。優しい、美しい、リンの大好きな、サンドラに間違いなかった。
その瞬間、体中に、痺れが走った。視界がねじれ、歪み、頭の奥からすうっと空気を抜かれたような感触、刹那、リンは自分が倒れるのではないかと錯覚した。足元が唐突に砂になって崩れたような気がした。まさか、そんな。まさか、そんな。まさか、そんな。
そんな。
「……なんの、ことですか」
口が勝手に、嘘を紡いだ。
ガストンの注意に促されて、体が勝手に、本能的に、なすべきことをなしたかのようだった。
「……ガストン指導官には……本当に、ご迷惑をおかけしてしまって。あたし、本当に、だめだめだったんです。ガストン指導官があたしを、保護局員にふさわしくないって思われたのは、当然のことだと思います」
――どうして。
サンドラは目を瞬いた。
「嘘つかなくてもいいのよ。言ったでしょう? あたしも『こっち』なんだって」
「こっちって」リンは首をかしげた。「何のことですか?」
――どうして。
「ガストンさんのやり方は、ちょっとあからさますぎるわ。あなたの指導をした人間が、あの評価シートを見たら、絶対に不審に思うわよ。ブライトンさんも不審そうだったし。ガストンさんはとてもすごい人だと思うけど」
――どうしてどうしてどうして、
「少し、ご自分の影響力を過小評価なさり過ぎだと思うわ。ストールンにまであなたの悪評を吹き込むのはやり過ぎよ。ジレッドとベルトランのこともあったし、ストールンがあなたに害をなす前に、その点だけでも改善してもらえるように、ガストンさんに頼んだ方がいいんじゃないかと思ったの」
何という説得力だろう!
リンは泣き出したくなった。いや、そろそろ危なかった。サンドラが出て行ってくれることだけを、じりじりする気持ちで祈っていた。ここが正念場だとわかっていた。身を守らなければならない。ガストンが、そしてもちろん他ならぬリン自身が望んだとおりに、今年の十月の入局を決めた。まだ褒めてもらってもねぎらってもらってもいない、保護局入局内定者が打ち上げで訪れるのが慣例だという、雪山中腹の温泉にだっていってない。ガストンの戦力にわずかながらも数えられるように、なってもいないのに、こんなところで怪しまれて排除されるわけにはいかない――
「ウィードさんがあたしを評価してくださるのは、本当にありがたいと思います。……でも、残念ながら。ガストン指導官に落胆され、見放されたのは本当なんです。イクスについては、研修先の皆さんにまでご迷惑をおかけして、申し訳ないと思います。今後は、イクスにできるだけ近づかないよう気をつけます」
我ながらぺらぺらと、嘘が口からこぼれ落ちた。頭では何も考えていなかった。
「……そう」
サンドラは諦めたようだった。ひとつため息をついて、そして、微笑んだ。
「ごめんなさいね、変な話をして。じゃ、四日後にまた来るわ。一緒にそれ、提出しに行きましょ」
「はい。お願いします」
リンは笑顔をなんとか頬に張り付け、サンドラを送りに部屋を出た。サンドラは階段まででいいと言い、あの人好きのする笑みを浮かべて、普段どおりの様子で帰っていった。
サンドラが見えなくなるや否や、リンは部屋に逃げ帰った。
部屋に駆け込み、鍵をかけた。サンドラが整えてくれた書類を見ないように顔を伏せ、ベッドに飛び込んだ。枕に顔をうずめると、とりあえず叫んだ。叫びながら、もう涙が出ないことに気づく。
さっきまではあんなに泣きそうだったのに。
何回も何回も、喉が割れそうなほど叫んでから、リンは脱力した。その時にはもう、自分の応対に何の落ち度もなかったことは分かっていた。ああ言うべきだったのだ。ガストンの注意したとおり、ちゃんと対処できたはずだ。サンドラは『あっち』側の人間だった。ガストンがリンを邪険にしていることをいぶかしみ、カマをかけ、罠にはめようとしたのだ。それを回避した。危ないところだったけれど、ちゃんとやったのだ。何も問題なんか起こってない。
なのに。
唐突に、涙があふれた。目からこぼれる間もなく枕に吸い取られ、みるみる枕を濡らしていくのを、リンはひとごとのように感じていた。嗚咽も泣き声も耳に入らなかった。どうして、と思っていた。どうして、どうして、どうして、どうして。
どうして――
なにもかもが、分からなくなりそうだった。
サンドラの優しさも的確な指導も、献身的なアドバイスも、すべてうわべだけのものだったのだろうか?
それとも、もしかして、『あっち』は悪い側じゃないのか?
ガストンに注意されたとおり、『問題を回避し』て、それで。
それで本当に、――良かったのだろうか?
十月までは、ガストンに近づくことはできない。まだまだ先だ。それまで、ちゃんと確信して、揺らがずにいられるだろうか。
『あっち』にサンドラのような人がいるのだとしたら――
ちゃんと、『あっち』と敵対する立場で、居続けることができるのだろうか。




