四日目 当番(5)
ガストンという男はかなり有能らしい。不思議な機械越しの会話を聞いただけだが、ラルフはそう思った。ガストンは通報をすぐに信じた。また的確な指示を出した。箒を狩人につけろ、だが断じて近寄るな。すぐ保護局員を組織するが包囲完了まで三十分欲しい。次の連絡を待て――その指示の出し方はてきぱきとして、全く迷う様子も考え込む様子もない。
フェルドも魔女もガストンを“信頼できる”と言ったけれど、確かにそうなのかもしれない。後ろ暗いところがあるなら、もう少し判断に迷いそうなものだから。いや、全然関係がないなら通報を疑うような気もするけれど。
連絡を終えたフェルドを見上げて、ニヤリと笑ってみせる。
「連絡を待てって言ってたけど、動いちゃっていーの?」
「聞こえてたのか。お前の耳どうなってんだ」
フェルドは感心していたが、ラルフからすればフェルドの方が変だ。今はそれどころではないが、いつか機会があったら聞いてみたい。そんな大きな“何か”を体ん中飼ってるくせに、なんで平気でいられんの? ――そういう意味では、魔物よりこっちの方が不可思議だ。
魔女の方はまた箒の方に気を取られている。顔が青ざめている。ラルフは、ルッツは殴られ慣れているから平気だ、と言ったのだが、魔女にとっては大問題らしい。
この人も変だな、とラルフは思う。
アルノルドはバカだがクレメンスはバカじゃない。魔物を本土に解き放つまでは、ルッツを生かしておくはずだ。魔女は、どんな大ケガでも生きてさえいればその傷を癒やすことができる、はずだ。それが本当なら、ルッツが多少小突かれたり踏まれたりしてケガを負っても、気にしないでいいはずじゃないか。
「猟師小屋の包囲が完了するまであと三十分欲しいってさ」
遠くにいる相手と話ができる不思議な道具をしまいながらフェルドが言った。
「つーことはそれまでに、魔物を盗み出して、逃げ出しておく必要がある。できるか、ラルフ?」
「楽勝」
ラルフは軽く答えて、伸びをした。本心だった。南大島に来て以来初めて、体が軽い。羽根みたいだ。今なら何でもできる、そんな気がする。
ところが、そう簡単にことは運ばなかった。
全く出し抜けに、猟師小屋が――吹き飛んだから。
一番初めに魔女が駆けだした。彼女は箒の目を通していち早くそれを見たのだ。続いてラルフの耳が“その音”を捉えた。破壊音、悲鳴、怒鳴り声、金切り声。粗末な猟師小屋が崩壊し、その中から――
黒々とした小山のような生き物が頭をもたげた。
オオオォオオオォオ……魔物の雄叫びが空気を振るわせる。
魔物を戒めていた〈銀狼の牙〉で縒ったロープが弾けたらしい。
森から駆けだそうとした魔女を危ういところでフェルドが止め、その隙にラルフは飛びだした。保護局員が来るまで三十分しかない。幸いロープにはまだ予備がある、魔力の結晶も予備を持っている。楔の状態を確かめてもう一度捕縛し直す、そのための手順を考えながら砂浜を突っ切っていく――と。
どしゅっ、鈍い音が聞こえた。
「――来ちゃダメだ!」
ラルフは背後に向けて叫んだ。魔物が絶叫した。既に聞き慣れた、苦痛の悲鳴。
クレメンスが魔物の背中に足台を撃ち込んだのだ。
――ロープが切れたんじゃなかった!
これは突発的な事故などではなく、クレメンスは魔物を意図して解き放ったのだ。なぜ? どうして? 疑問がぐるぐる頭を回るが、とにかくそれどころではなかった。クレメンスに操られ、魔物は狂ったように走り始める。ラルフに向けて――その背後にはフェルドと、あの魔女がいる。ラルフは殆ど何も考えず、魔物の突撃を躱した。行きすぎながらクレメンスが怒鳴る。
「裏切り者が! 保護局員を呼びやがったな――!」
何故それを。何故わかった。そう、考えている暇はなかった。ラルフは魔物を追い、タイミングを計り、足台に指先を引っかけた。ぐうんと体を引っ張られる。クレメンスが呪詛と共に足を振り下ろしてくるのを避け、足を振って体をひねり、足台に飛び乗った。
ルッツさえ捕まっていなければ、そもそもクレメンスなどラルフの敵ではない。クレメンスも重々それをわかっている。顔を歪めて、叫んだ。
「ハイデンの犬がッ!」
「それ悪口じゃねーよ」
吐き捨て、ナイフを避けクレメンスを蹴落とす。「ぅだあっ」奇妙な悲鳴を上げてクレメンスが転がり落ち、ラルフは前方に向き直った。止めなければ。止めなければ。でも、これは生き物だ。小舟とはわけが違う。どどど、地響きを立てて魔物は走って行く。痛みに追い立てられるように。ラルフの乗る足台は、搭乗者の体重に応じて魔物に苦痛を与えるように作られている。これを抜くか、魔物の体力が尽きない限り、暴走を止めることはできない。
フェルドが魔物に向けて右手を突き出していた。ラルフには何をしているのかは見えなかった。でもその手のひらから、何かが吹き出したのを|《感じた》。膨れあがり爆発した何かは、まるで巨大な翼のよう。怖ろしくて猛々しくて、とても綺麗で。
ラルフは絶句した。
――あんな存在がこの世にいたなんて!
と。
「やめて……っ!」
魔女が叫んで、フェルドの背に抱きついた。動きを阻害されてフェルドが立ちすくんだ。どどど、地響きを立てて魔物が走る。フェルドの周囲を飛び交う何かが霧散した。魔物は止まらない。走って行く。走って行く。
ラルフは叫んだ。
「何やってんだ! 逃げろよ……っ!」
どん。
出し抜けに衝撃が来てラルフは転がり落ちた。魔物の|《頭側》に。魔物の後ろ頭、額、鼻面とバウンドして、砂の上に着地。毒の香りが背後から吹き付け、ラルフはぞっとして飛びすさった。
魔物が倒れていた。呼吸が荒い。
様々な色が大理石のように渦を巻く、複雑な色をした瞳は、ラルフの頭ほどもある巨大さだった。その目からぼたぼた涙が垂れている。ぅぐぐううぅぅぅぅ、魔物が呻いた。ぞわぞわと全身が沸き立つ。まだロープも準備してないし魔法道具も取り出してない状況で、こんな間近で、意識のある魔物と向き合った経験はさすがになかった。しかし、運が良かった。本当に幸運だった。魔物は力尽きたのだ――たぶん。
魔物の体に刺さった楔を確かめる。前足の楔はまだ刺さっている。足台もあるからロープを引っかける場所には事欠かない。うぐぐうううう、魔物がまた呻いた。ラルフがロープを取り出すと、魔物の瞳に明らかな怒りが走った。
「待って」
か細い声が言った。魔女が、ラルフの横に立っていた。
「あんた……!」
「お願い、待って。ごめん。でもお願いだから」
魔女は言って、魔物に近づく。ラルフのすぐ目の前に投げ出された魔物の前足には楔が突き刺さったままだ。その前足に緊張が走り鉤爪が飛び出した。しかし魔女は躊躇わなかった。
「動かないで。抜いてあげる」
「抜いて――抜いてどうすんだよ!?」
ラルフは叫んだが、フェルドが自分の隣に並んだのでそっちを見上げた。フェルドはとても真面目な顔をしていたが、魔女を止める素振りがない。
「なんで……止めないんだよ」
「あんま猶予ないよ」
フェルドの声は相変わらず穏やかだ。魔女の背にかけた言葉らしい。それからラルフを見下ろして、苦笑して見せた。
「しょうがないよ。――これが左巻きだから」
「だって、魔物だよ!? たすっ、」
言いかけて、それが真実なのだとラルフは悟った。悟って、驚愕した。信じられない。
「――助ける気なのかよ! 魔物を!!」
「しょーがねーよ」
「なにがしょーがねーんだよ、あんたも何考えてんだ! なんであんときやめたんだよ! 魔物が力尽きなかったらあんたら、しっ、死んでたんだよ!?」
「力尽きたんじゃないよ。自分で止まったんだ。だからさ……」
フェルドは言って、魔女の背を見て微笑んだ。
「――しょうがないよ、ほんと」