リン=アリエノール(10)
*
その夜。
ベッドが変わったからか、枕がいつもと違うからか。もうどこも痛くないし悪いところも全然ないのに、リンはなぜか寝付くことができなかった。
目まぐるしかった今日一日の出来事が、頭の中でぐるぐる回る。思い出されるのはなぜか、嫌なことばかりだ。ジェイドと【学校ビル】の屋上でお昼を一緒に食べたことを思い出せばいいのに、イクスに嫌味を言われたことや、ベルトランに恫喝されたこと、服を掴まれて頭を床に叩きつけられたことや、背の上にのしかかられたことなどが次々に思い浮かんでしまう。三十分ほど頑張ったが諦めて、起き上がって明かりをつけた。
仕方がない。何か建設的なことに時間を使った方が良いようだ。
しかし何をすればよいのだろう。筆記試験の勉強はもうしなくてもよくなった。研修も今回のをやり遂げれば全て完了だ。受験勉強の間中、やりたいことが次々に浮かんできたというのに、いざ時間ができてみると何もやりたくないというのはどういうことだろう――考えているリンの目が、一点に吸い寄せられた。
ジェイドから受け取ったあのノートを隠したお財布が、テーブルの上に載っている。
今日のことで、ジレッドとベルトランとの間に嫌な繋がりができてしまった。不幸なことだが、しかたがない現実だ。
それならば、あの二人が一体何を追っていたのか――エリック=フランシスが『盗んで』逃げたものは一体なんだったのか、よく調べてみた方が良いだろう。ガストンに渡すにしても、これが一体なんなのかわからないままでは、説明もできない。
ジレッドとベルトランが、あれだけのことをしたのだ。それはもう、ものすごく重要なことが書いてあるに違いない。
ガストンを個人的に訪ねることは、少なくとも保護局に正式に入局するまでは止められている。マリアラとフェルドの逃亡についての指示も、合格内定の知らせも、だからガストンから直接ではなくゲンを経由して知らされた。近々ゲンを訪ねるべきだろう――そう思いながら多少覚悟してページを開いたのに、やはりそこに書いてあったのは、古めかしい文言ではあるが、幼い子供を持つ若い人妻の、ごくふつうの日常だった。
文字は結構読みやすかった。古文の苦手なリンでも、〈アスタ〉に訊ねずともなんとか意味がとれる。たぶん正式な文書ではないからだろうとリンは考えた。書いている人が若い女性だということもあるかもしれない。教科書に載るようなしゃちほこばった文体ではなく、若い女性の話し言葉に近い書き方だから、一時間程度で数ページは読み進めることができた(長い単語は意味をとろうと努力せずに読み飛ばした甲斐があったともいえる)。
読んでいるうちに眠くなるかと思ったのだが、全く眠気がこない。リンは次第に、二度も披露宴をやる羽目になったエスなんとかという役職にあるらしいこの若い女性とその夫と娘に、親近感を抱き始めていた。
「レティアが机の上に載ってた入れ物をたたき落として墨を浴びた……部屋が大惨事……笑い転げた。うふ」リンも思わず笑った。「おおらかな人だなぁ。えっと、すべてのものをレティアの手の届かないところに移した……まあそうだよねえ……で……巡る旅を送ってどっかまで行った……ニーナは見送りだか食い倒れだかわからない、とふざけて言った……いやぁ本心だと思うなそれは……」
何しろこの人はチーズ入りのケーキにつられて披露宴をやってしまう人なのだ。リンはあくびをして笑った。アイなんとかいうお姫様も、彼女にどんな脅迫が一番効果的なのかよくわかっていた。モリーとかいう人の丸め焼きとやらを封印されたくなければ披露宴をやれと脅すなんて、そして彼女の方もそれに屈してしまうなんて、ほほえましいとしか言いようがない。リンにはその気持ちが良くわかる。モリーのチーズケーキを食べたくてたまらない。
「来年はレティアも巡る旅と一緒に行けるだろうか……ガスとバートの食べっぷりに見とれる……巡る旅ってなんなんだろうなぁ。ふわあ」
十数ページ読み進めるうちに、ようやく、うっすらと眠気がさしてきていた。時計を見ると、もう夜の二時だ。明日は休むようにとサンドラから言われているので、リンにとっては本当に久しぶりの休みだった。研修も勉強も面接も入っていないなんて何ヶ月ぶりだろう。
もう寝ようと思いながら、せっかくの休みだという思いで、意地になったように続きに目を落とした。
「グル……がまた来た……グルツ……グルツォ……? ああ、もう。〈アスタ〉に聞くわけにもいかないしなあ」
この部屋は居心地良く整えられていたが、大急ぎで準備されたものだから、アナカルシス古語の辞書などおいてあるわけがない。というか、そもそもリンの私物にだってそんなものはない。まあとにかく、とリンは思った。グルなんとかというものがまたやってきた、と彼女は書いている。
「ほとんどみんな無傷で、エルヴェ……はガスに登録証を渡しておいて本当に良かったと思っているはずだ……エスなんとかもいつまでも私を選んでいないでガスを選べばいいのに……? 意味が分からない……」
一応つぶやきはしたが、リンはあまり気にしなかった。ここまで読み進める間もずっとこうしてきた。意味が分からない文章や単語は読み飛ばすに限るのだ。リンは学者ではない、ましてやマリアラでもないのだから、細かいところなどどうでもいい。大意さえつかめればそれでいいのだ。
「しかしこんなにたくさんグルなんとかがやってくるというのはどうしてだろう……それもク……クレイン……クレインみたいな強いグルなんとかじゃないらしい……ガスの剣には確かにデクターの作ったグル……装置が組み込まれている……けれど、一発で死ぬほど弱かった……らしい。強いグルじゃないのにどうして箱の中に入れるのか……なんとかが減っているとニーナは言った……それはなんとかがなんとかを吸い取るからだろうか……? 全ての母、とファーナは言った……グルにも全ての母がいるのだろうか……」
グルなんとかってなんなんだ。
さすがのリンも少し気になり始めた。
どうやら偉い役職名を指すらしい『エルなんとか』という単語も『エスなんとか』という単語も見事に素通りしてきたリンだが、『グルなんとか』、ということについて書かれているこのあたりが、このノートが狙われる理由なのではないかと薄々感じた。リンは起き上がり、もう一度グルツォ……というその単語の正しい意味を推測しようとした。
「なぁんかなあ、子供の頃、読んだような気がするようなしないような……先を読めばわかるかなぁ……ええと……レティアを……産んで……考えている……赤ちゃんは育つ過程で……周囲の……振る舞い……言葉……吸い取って……育っていく……たぶん……優しい、思いやり、そういうことも、生まれてすぐに発動……できるわけはない……と思う……少なくとも……赤ちゃんは……こちらを気遣って空腹を我慢する、ということはしない……だとすれば、」
いきなり、不自然な空白があいた。この段落は『だとすれば』で終わっているようだ。
数行はあいて、
「どういう意味ですか、と、オーレリアに、聞かれた……だから……意味を話せるくらい……しっかりした考えになっているなら……アスタの記録に書くと言っているのに……痛い目に遭わせる……ガスは……えええ!?」
いきなりだった。
次の段落からは、全く別の話が始まっていた。
それはガス、という名の、彼女の夫について彼女がどう思っているかという――早い話があからさまなのろけ話だった。彼がどんなに優しくて思いやりがあって格好が良くて素敵な人なのか、ということを、手を変え品を変え、微に入り細に入り、事細かに描写し続ける文章が、そこから少なくとも四ページにわたってびっしりと書き連ねてあった。
たぶんこの箇所は数日かけて書かれたものに違いない。
リンは鳩尾のあたりから笑いがこみ上げてくるのを感じる。
オーレリアは毎回彼女の家に侵入して、隠してあった日記を捜しだして読み、その内容が単なるのろけ話であり続けることに、何度も打ちのめされたに違いない。
これはおそらく姉妹喧嘩のようなものだとリンは理解した。いくら頼んでも日記を読むことをやめてくれない姉に対して、妹はこんな実力行使に出たのだ。
「ぶ……」
なんとかこらえた。もう夜中だったので。
でも真夜中の不思議なテンションも手伝って、とうてい押し殺せるものではなかった。寮は結構音が響くので、リンは枕に顔を伏せて声を殺して笑った。妹の家に無断侵入してまで読み続ける姉も姉だが、こういう手段で報復する妹も妹だと思わずにはいられなかった。ずいぶん仲のいい間柄だと思いながら、リンは、心底、この日記をあいつらに渡さなくて良かった、と思った。
あいつらの手に渡ったら、きっと、何かよからぬことのために利用されてしまうのだろう。彼女には何の罪もないのに。ただ夫と娘と、友人たちに囲まれて、姉と他愛ない攻防を繰り返しながら、幸せに生きていただけなのにと。




