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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 それぞれの決意
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リン=アリエノール(7)

 胸がじんじんするまま、【魔女ビル】を出た。動道へ続くわずかな距離を、名残惜しく思いながら歩いた。

 その時リンは、待ってください、待ってください、と言う声が、正面から近づいてくるのに気づいた。

 サンドラが顔を上げて、「あっ」と言った。正面からヒールの音が響いてくる。カツコツカツコツ、カツコツカツコツ、リズミカルに歩いてくるのはリスナ=ヘイトス室長だ。その後ろから追い縋ってくるのは、まだ若そうな――サンドラと同じくらいの年頃の、ひょろりとした男の人だ。


「待ってくださいヘイトス室長、本当に、誤解なんです。エリックは何にも悪いことなんかしてないんです。本当なんです――」

「あー……」


 サンドラが、何か悔やむような声を上げる。ヘイトス室長がこちらを見た。正確にはサンドラに、意味ありげな一瞥を投げたのだ。サンドラはその一瞥で瞬時に意味を悟り、さりげなくリンの後ろに回った。小柄なサンドラはリンの陰に隠れる形になり、その横を、ヘイトス室長と、彼女に追い縋る若い男が通り過ぎる。


「室長、お願いです。きちんと調べたらわかっていただけるはずなんです!」

「何度も申し上げているとおり、わたくしにはなんの権限もございません。警備隊の取り調べは警備隊の管轄ですから」

「あの、あの、もうひとつ。こないだ提出した僕の論文、今度、今度こそ、受理していただけますよね?」

「それもわたくしの管轄ではありません」

「お願いです、議員におとりつぎをお願いできません、か――」


「歩いて」


 サンドラが言い、リンの腕を引っ張るようにした。その時、なんの弾みだろうか。その囁きが届いたとは思えないのに、ヘイトス室長に追い縋るようにしていたその研究者が、振り返った。サンドラを見て、「あ!」声を上げる。サンドラの口から「ああ……」とうめき声が漏れ、研究者はものすごい勢いでこちらにかけ戻った。


「ウィードさん、僕! 僕のこと、覚えてるよね? レイモンドだよ、交流教室で一緒だったよね。何度も連絡したんだ、ちょっとこれから良かったら、飲みにでも行かないかな」

「ごめんなさい」サンドラは一瞬で声を改めた。「久しぶりね、レイモンドくん。卒業式以来ね。ごめんなさい、今ちょっと急いでいるの」

「今、元老院事務官補佐室にいるんでしょう? すごいね、君は本当に昔から優秀だった。あの、お願いがあるんだ。僕の論文、」

「ごめんなさい、ほんとに。本当に急いでるの。――行きましょう」


 サンドラはリンの腕をぐいぐい引いて歩き出した。「あのっ」研究員が後をついてきて、


「じゃあ目的地まで一緒に――」

「レイモンドさん。わたくしの部下になんのご用ですか」


 ヘイトス室長まで戻ってきて、鋭い声で言った。


「わたくしもですが、彼女も、論文採択には一切携わっておりません。保護局事務担当者と言うだけで何らかの優遇措置を取れると思われるのは心外です」

「いえ、いえ、優遇してもらおうなんて言うわけじゃ。僕の論文は画期的なものなんです。ただ、読んでさえもらえればその価値に気づいてもらえるはずだと」

「わたくしたちには特定の論文を議員に紹介する権限などないのです」


 ヘイトス室長がサンドラを一瞥した。リンにさえその意味がよくわかった。早く行け。早く帰れ。サンドラはぺこりとヘイトス室長に頭を下げて踵を返した。リンは一瞬出遅れて、あっという間にレイモンドと目が合う。


「あのっ、あなたは――」

「し、失礼いたします!」


 リンは急いで逃げ出した。追従しようとしたレイモンドはヘイトス室長に捕まった。そもそも保護局員には特定の人間に便宜を図ることは許されていません、あなたがしていることは友情を搾取しようと言う卑劣な行いです――レイモンドが叫んでいる。「彼女は退勤したんじゃないか。勤務後の友人を飲みに誘うことを邪魔する権利があなたにあるんですか!」サンドラが動道に乗り、ずかずかと低速レーンを横切って高速レーンに移った。ややして中速に移り、もう一度低速に移った。数メートル早足で歩いて、タイミングを見計らって降りる。降りたところはまだ【魔女ビル】のすぐそばといっていい場所だった。そこをてくてく歩いて、路地を曲がって、てくてく歩いて、もう一つ路地を曲がる。


 そうしてサンドラはリンを振り返った。

 くすっと笑う。


「……あなたまでついてこなくても良かったのに」

「あっ」


 リンは驚いた。本当だ。


「や、あの、その……なんか、成り行きで……」

「ふっ、ふふふ、ふふふ」サンドラは抑えきれないと言うように笑った。「ん、もー、ちょっと、笑わせないでよ。この後用事があるんじゃないの?」

「そ、そうなんですよね……」

「やだ、本当にあるの? なーんだ、食事でもどうかなって思ったのに。デートかしら?」

「デート」


 とは、言い切れない。

 しかし、リンはジェイドのことが気に入っていた。もしかしたらこれからそういうふうに持っていけたら嬉しいな、と思っている。リンの逡巡にサンドラはまた笑って、いいのいいの、と言った。


「じゃああたしはここで。また明日ね、アリエノールさん」

「あの、ウィードさんは? 帰らないんですか」

「あたしはもう少し、この辺で時間潰してから帰るわ。覚えておいてね。あなたがこれからなろうとしている保護局員と言う身分は、さっきみたいに……何らかの便宜を計ってくれって、今までの知り合いたちから……頼まれかねない重みがあるの。マヌエルほどじゃないけどね。あーあ、室長のお手を煩わせちゃったわ。ご負担になりたくなかったのに」


 聞いていいのか、リンは迷った。何が正解なのだろう。

 でも、聞かずに済ませることは自分にはできない、とも思った。リンはおずおずと訊ねる。


「あの……さっきの人。は、……同級生だったんですか?」

「そう」サンドラは悲しそうに微笑んだ。「研究者になった。彼はさっきあたしを優秀だったと言ったけれど、彼の方がよっぽど優秀だったわ。ほんとに、学年トップってくらい。将来を嘱望されていた。特に歴史学の成績は抜きん出ていた……彼は、歴史学の研究者になったの」


 胸がどきんとした。歴史学を学んでいる優等生と聞いて、どうしても、マリアラのことを思い出さずにはいられなかった。

 サンドラは俯いた。


「あたしには何もしてあげられない。かつての優等生があんなふうに、必死で、あたしにすがりつこうとしているって言うのに。学生だった頃、あの人はとっても優しくて、穏やかで、なんて言うかな、あたしたちとは別の次元にいるようだった。みんなでワイワイ遊ぶような場に姿を見せることはほとんどなかったわ。みんなで喋ったり笑ったりするよりも、一人で、果敢に、歴史の謎に挑んでいたい人だった。……それがどう。今じゃ、かつての同級生にまとわりついて、飲みに誘って、論文を議員に取り次いでくれですって」


 サンドラは笑った。しかし全然おかしそうじゃなかった。

 リンは俯いた。保護局員になったとき、マリアラがやってきて、わたしの論文を議員に取り次いでくれなんて言ったら。

 想像するだけで、悲しい。あのマリアラにそんなことを言わせた現実そのものが、悲しくてたまらない。


「……暗黒期の謎なんて諦めればいいのに」

「あの人は、暗黒期の研究をしているんですか」


 エスメラルダの歴史に存在する暗黒期は、確かに、歴史を研究する上で避けては通れないテーマだ。

 マリアラも、孵化をせずに歴史学の研究者になっていたなら、きっと取り組んだに違いないテーマだ。


「この国ではそもそも歴史学は……国から喜ばれない。他のもっと有意義なことに取り組めばいいのにとあからさまに示されている。なのに……なのに歴史学に魅了された人たちは、彼らは、……暗黒期は解かれるべきだと。人の歩んできた道筋は全て解明されるべきだと、魂の底から信じている。信じ切っている。予算もおりないのに」

「予算、おりないんですか」


 エスメラルダは学問の国だ。国全体が一つの学校という体裁になっていて、国民は全員、教師か生徒の身分であり、外国からくる人たちは全員、留学生という立場になる。

 そんな国なのに、ある分野には予算がおりないと聞かされると、現実味を感じられない。どんな学問だって推奨されて、勉強したら褒められて、学者たちはみんな尊敬され、優遇されていると、信じていたのに。

 サンドラは悲しそうに頷いた。


「……あの人たちはね、他の研究をしながら、空いた時間で、暗黒期の研究をしてるの。そして論文を書くの。誰にも頼まれていないのに」

「どうして、予算がおりないんですか?」


 リンの問いに、サンドラはゆっくりと応えた。


「研究費は国民の税金で賄われているものだから。今、暗黒期の研究に予算が使われないのは、国民の大多数が、そっちよりも、もっと使うべき分野があると思っている、ということ。大気に空いてしまう【穴】の解明や、【毒の世界】の有効利用。魔女にまつわること全て、三日病、社会保障、等々。暗黒期なんかよりもっと考えることがある。それも山ほど。……あなたも、そう思っているんじゃない?」

「そう……ですかね」

「だからしょうがないのよ」


 そうだろうかとリンは思う。リンは歴史学にはさっぱり興味がなかったから、今まであまり考えずにきたけれど。

 マリアラなら――そしてモーガン先生、南大島で殺されそうになっていた、マリアラの大好きな先生も、暗黒期の謎には挑むだろうと言う気がするのだ。

 ならばリンは応援したい。そう考える人は、決して少なくはないはずだ。そう言う人たちで少しずつカンパして、研究に充ててもらうことはできないのだろうか。サンドラはそうは思わないのだろうか。モーガン先生にも、マリアラにも、サンドラは、暗黒期の謎など諦めろ、と言うのだろうか。

 

 リンがサンドラを見ていると、サンドラは、何かを振り切るように微笑んだ。


「みっともないところを見せちゃったわ。ね、ほら、時間大丈夫? デートに遅れたら大変よ」

「あ、あ」

「あたしのことは気にしないで? 久しぶりに定時に帰ったから、服でも見ようかな。ほらほら、行った行った」


 後ろ髪を引かれるような気がした。サンドラが傷ついているように見えたから。彼女を放って帰るのは、何か見捨てるような気がしてならなかった。

 けれどそろそろ帰らなければ、ジェイドがくる時間に遅れそうなのは確かだった。デートだとはまだ言い切れないが、ちょっと可愛い服を選びたいと言う気持ちはある。リンは頭を下げる。


「それでは――すみません、今日はこれで、失礼します。今日一日、ありがとうございました。お疲れ様でした!」


 サンドラは笑った。


「あなたの配属ってきっと警備隊になるんでしょうね」

「へっ?」


 思わず顔を上げる。サンドラは一瞬だけ、不思議な表情を見せた。ビルの光が柔らかな顔立ちに複雑な陰影を落としていて、リンはなんだかうろたえた。目の前にいる人はサンドラではなく、よく似た別人ではないかという錯覚を抱いた。

 でも瞬きをしたら、やはりそこにいたのはサンドラだった。彼女は屈託なく笑った。


「立ち居振る舞いがどうしようもなく体育会系なんだもの。お疲れさま。明日もがんばろうね」

「……は、はい」


 サンドラが背を向ける。しばらくその背を見送ってから、リンは頭を振って、今し方の不思議な感慨を振り払うべく足早に歩き始めた。往来を渡り、馴染みのある町並みを見回して、頭を切り替えた。


 もうすぐジェイドに会える。

 夕ご飯を一緒に食べるのだ。


 箒に乗る時にも降りる時にも自然に差し出された手を思い出す。穏やかで、話が通じる。背がすごく高いと言うわけじゃないけれど、リンより低いわけじゃないし、顔立ちも優しげで悪くない。イクスみたいに意地悪じゃない、それどころか、非番なのに頼まれて薬を運んでしまうお人よしだ。程よい食いしん坊だし、すごく親切。彼女がいるかもしれないが、彼女がいるなら夕食を一緒になんて言わないだろう。


 デート?

 そうです、とはまだ言い切れないけれど、リンとしては『デート』になっても全く構わない。こんなのいつぶりだろう。ずっと受験勉強で忙しくって、男の子と一緒に食事だなんてずいぶん久しぶりだ。


 動道に乗り、考えるうちに、気持ちは少しずつ上向いた。寮に近い場所で降りる頃にはすっかり楽しい気分になっていた。寮へ向かう足取りは次第に軽く、そして速くなった。何を着ようかと、小さなクローゼットの中身に思いを馳せた。リンの衣類は大抵ボーイッシュなものだ。髪が短いから、ミランダのようなふんわりした服装は似合わないのが悩みの種だ。マリアラのようなカジュアルな可愛らしさも、リンが身につけると借りてきた衣装をきているように見えてしまう。何度か髪を伸ばそうとしたことがあるが、手入れが大変だし、頬をくすぐる感触がどうにも鬱陶しいし、おまけに似合わないものだから、最近はすっかり短く切ってしまっている。

 ああ、とため息を吐きそうになった。二着だけ持っているワンピースのどちらかに、ちゃんとアイロンをかけていただろうか。シミなどついていなかっただろうか。いや、箒に乗せてもらうことになるかもしれないから、やはりパンツルックの方がいいのだろうか。ああ、あの可愛いブーツにはショートパンツを合わせたいところだが、一番お気に入りのショートパンツはクリーニングに出しているし、取りに行っている時間はない。



 ぐるぐると楽しく思い悩みながらリンは住み慣れた寮に駆け込んだ。この時間、少女たちはバイトや勉強に勤しんでいて、寮はほとんど静まり返っていた。寮母は厨房で、当番の少女たちと一緒に夕食の下ごしらえにかかっている頃合いだ。今日、リンの分は配膳不要と伝えなければならないが、それは出かける時でもいいだろう。リンはホールを素通りして足音も軽く自室への階段を上がる。ダリアは帰っているだろうか。マヌエルとデートだと言ったら、ダリアは一体どんな顔をするだろう。アドバイスをもらえたらいいのだが――と考えながら扉を開けた瞬間に、リンは立ちすくんだ。




 部屋は嵐でも吹き荒れたのかと思うほどに、しっちゃかめっちゃかになっていた。

 ダリアの姿はどこにもなかった。




 カーテンがぼろぼろに切り裂かれていて、半分はずれかかっていた。その向こうから光が射し込んで、部屋の惨状をまだらに照らしていた。

 ベッドのマットレスも枕も切り裂かれていた。本棚に並べられていた辞書も参考書も教科書も、娯楽のための本もすべてが床一面に投げ出されていた。床には文字どおり足の踏み場がなかった。小さなクローゼットの扉が開いていて、二着しかないワンピースはもちろん、そのほかの衣類すべてがめちゃくちゃにされていた。リンのお気に入りの小物入れや、ごくわずかな化粧品が並べられた菓子箱(コオミ屋のものだ、もちろん)もすべて中身がぶちまけられていた。ごく少量ずつ使うのが楽しみだった香水が、床に小さな水たまりを作っている。むせ返るような香りの中、リンはめまいを感じた。


 甘かった、と心のどこかで悟っていた。

 今日の災難は、まだ終わっていなかったのだ。


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