リン=アリエノール(6)
広大なフロアのかなたに2人の背が消えると、サンドラは長々とため息をついた。
「……危なかった。ああ、ブライトン部長、おいでくださりありがとうございました。助かりました!」
「まったくゲスな奴らだわ」
ブライトン事務部長も顔を顰めている。リンはおずおずと言った。
「あの、あの……すみません、あの、お騒がせ、してしまって……」
「謝るんじゃありません」
バーバラはピシリと言った。紛れもなく叱責されて、リンは反射的に背筋を伸ばす。
「すみません!」
「だから謝るんじゃないの。あのねえ、あなたは、災害に遭うところだったの。今回のことは、本当に……あなたにはなんの非もない。これっぽっちも! ただあの二人の視界に入り、そして目をつけられてしまった。あなたが謝る必要なんてどこにもない! ああ、立ち会えてよかったわ」
「前にもあったのよ、こういうこと」サンドラが不快そうに言う。「可愛い女性の研修生が来たときにね。あのでっかい方の警備隊員は要注意よ。でっかくない方も結構アレだけど……あいつらはね、貴重な文献なんか捜してないのよ」
「え、ないんですか?」
「捜してないわよ! あれは口実よ、あいつらは、とにかくあなたの身体検査をしたかっただけ。別室に連れてって、嫌がらせしたかっただけよ! こないだなんかヘイトス室長の部屋で暴力沙汰起こしたのよ、まともな人間の対応を期待しちゃダメなの! もーほんっとーに、まったく、あんな奴らが正規の警備隊員だってところが本当に腹たってならないわ」
「……」
リンは今度こそ本当にぞっとした。別室に連れて行かれていたら、捜査にかこつけて、一体何をされていたかわからない。
バーバラが言う。
「警備隊員も事務員も、同じ保護局員だから……組織のてっぺんは同じでしょう、つまり、身内の感覚なの。上層部もそうよ、警備隊員の不祥事はできる限りもみ消したいから……それもあなたは研修生だから、立場が低い。今犯罪者扱いされたりしたら、例え合格が決まっていたとしても、取り消されたりするかも知れない。だから泣き寝入りするしかない、と、彼らは思いこんでいるわけ」
「サイッテーだわほんとに」
サンドラはリンの背をそっと撫でてくれた。
「でも、あいつらみたいな警備隊員ばっかりじゃないって、わかってるわよね? 気をつけなきゃいけない相手はほんの一握りだからね、その中でも、あいつらは特に要注意よ。有能は有能だから、多少の乱暴さは目をつぶってもらえるって、わかってるからたちが悪い。別室でかわいい研修生をちょっとばかり必要以上に脱がせるくらい、悪いことだとも思ってない奴らなの」
「研修生のうちはできるだけ目の届かないところにいなさい。保護局に入ったらそのうち対処の方法もわかってくるわ」バーバラはそう言って鼻を鳴らした。「貴重な文献とやらが早く見つかるといいわね」
リンは二人に向けて深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
「さ、仕事仕事」
バーバラはぽんぽんと手を叩いて、周りを囲んでいた人たちを席に戻らせた。そうして、リンを見て微笑む。
「ストールンは脱落したけれど、あなたの研修継続には異存ないから、引き続き頑張ってね!」
その日の終業時刻が迫る頃になってようやくリンは、サンドラが仕事をセーブしていることに気づいた。
サンドラのところには電話がかかってこない。打ち合わせも入っていないようだ。先週、リンとイクスがバーバラに連れられて事務方巡りをしていた時には、サンドラは大忙しだったのだ。ひっきりなしに電話がかかってきていたし、その合間に次々に人が来ているようだった。
しかし今日、少なくともリンがいる間には、サンドラに会いにくる人は誰もいなかった。
研修生を受け入れることになったから、もしかして、予定をキャンセルしてくれているのだろうか。
そう思った時リンは慄いた。なんと言うことだ。
おまけに定時、五時半になったとき、サンドラは読んでいたファイルをパタンと閉じて、机の上を綺麗に片付けると、「さ、」とリンに声をかけたのだ。
「今日の仕事はおしまいよ。片付けて片付けて」
「え? あ、は、はいっ」
「明日も資材発注担当の手伝いをお願いね。エリー、明日から実際の発注業務に入るでしょう?」
「そうです」エリーが微笑む。「けっこう細かいし量も多いから、覚悟してきて」
「はいっ、かしこまりました!」
「なに、かしこまるって」サンドラは楽しそうに笑う。「さあさあ、今日は終わり終わり。みんなごめんね、お先に」
サンドラのいるチームで先に帰るのはサンドラとリンだけだ。他の人たちはにこやかに快く送り出してくれ、サンドラはリンを連れてさっさと歩き出した。リンは後ろ髪をひかれながらサンドラの後を追い、おずおずと訊ねる。
「あの、ウィード主任。あたしの面倒を見るために、打ち合わせとか、入れないでくださっているんですか」
そう言うとサンドラは目を丸くしてリンを見た。「はっ?」
「ち、違いましたか。ごめんなさい、いえその、先週、ウィード主任はものすごくお忙しそうだったので、でも今日……その、その……」
「あなたって」サンドラは面白そうに笑った。「ふふふ、違うの、あのね、種明かしをするとね。あたし、本当は今週、休暇取ってるの」
「ええっ?」
「お先にー」
広大なフロアを歩きながら、サンドラはにこやかに周囲に挨拶をしていく。リンはぺこぺこ頭を下げながら後を追う。いつかあたしもこんなふうに、堂々と、周囲の人たちに挨拶しながら歩ける日が来るのだろうか、と思いながら。
「……まあ書類上はね」挨拶の合間にサンドラはリンを見た。「書類上は、休暇中。ここんとこずっと……そうね、半年くらい年休とっていないから、溜まっちゃってるの。人事が休め休めってうるさくって。でも休んでる場合じゃないの、わかるでしょう? でもまああたしがオーバーワークで倒れたら、ヘイトス室長がね、労働基準法上の監督責任に問われるでしょ。あの方に迷惑をかけることもしたくないわけ」
サンドラは、ヘイトス室長をとても尊敬しているようだ。
「それでブライトン部長に相談したのよ。で、ブライトン部長が一計を案じてくださったの。ブライトン部長のところにはひっきりなしに研修生が来ていて、ほとんど庶務課で受け入れるんだけど――あのね、ブライトン部長って本当にすごい人なのよ。今日わかったでしょ? とっても優しい方なんだけど、研修生を見る目はとっても厳しいのよ。それであなたたち二人が来るってわかったとき、ブライトンさんは困ったなって思ったんですって。あ、この辺は今日、電話で初めて知ったんだけど……ほら、ストールンの噂を専攻会担当教員から聞いていたから、あなたとストールンを同じ部署で受け入れたら、トラブルの元になるじゃない。だからブライトンさんにとっても、あたしの相談は渡りに船だったんですって」
そう言ってサンドラはリンを嗜めるように見た。
「あのね。ストールンに目をつけられてるってわかってるんだから、相手がどう言う時期にどう言う研修を取るか下調べして、その時期を避けて申請を出せば、こんなことにはならなかったのよ。それくらいの処世術は身につけておいても悪くなかったんじゃないかしら」
全く頭に浮かびもしなかった。あまりの正論にリンはうめいた。「す、すみません……」
「ふふ、いいのいいの。今後そうすればいいってだけだから。えっと、それでブライトンさんは、一人だけ、別の部署に行かせる必要があった。それであたしに休暇を取らせ、その間、研修生のお世話役を任せたってわけ。あたしにとってはものすごくいい話だったの、そのおかげで、休暇中でもオフィスに立ち入ることを許されている。たまった事務処理を片付けたり、頭とデスクとファイルの整理をして問題点を洗い出したりできてる。トラブルが起こったら対処できるから、安心感が違うし、今日一日だけで、今まで抱えてきた問題の突破口をいくつも見つけたわ。休暇ってやっぱり大事なのね! ――だからアリエノール、あなたがきてくれて本当に助かったのよ。本当によ!」
廊下に出ると人通りが少なくなり、サンドラは声のトーンを下げた。
「でもあなたが自分のせいで騒動を起こしてしまったって、気に病んじゃう気持ちもわかるわ。あたしにも覚えがあるのよ。……知ってる? あのジレッドとベルトランは同期なんだけどね。なんとあたしも同期なのよ。最悪でしょ?」
「う、うわあ……」
「でしょ? あいつらは自分より小さくて弱い相手は虐げても構わないと思っている。その小さくて弱い相手があたしみたいに美人で可愛かったら、いったいどうなると思う?」
真っ直ぐに見られてリンは、その『美人で可愛い』と言う自己評価が、決して自慢話ではないということを悟った。
サンドラはリンから見てもとても『美人で可愛い』外見であり、そのせいで、ジレッドやベルトランと言った人間からどう言うふうに対応されてきたのか――あなたならそれがよくわかるだろう、と、言われたも同然だった。
「今日あなたはとても災難だった。窃盗犯が逮捕されるところに遭遇したばかりに――そして、他にも大勢いたはずの目撃者たちの中で、ひときわ美人で可愛い外見をしていたと言うただそれだけの理由で、あいつらに目をつけられてしまった。でもね、だからと言って、あなたが自分のせいだなんて思う必要はないの。ブライトンさんもそう言った。あたしもそう言うわ、あなたの可愛らしさと美しさはあなたを構成する一要素である、それは事実だけれど、他のどんな人間からも、不当に扱われて良い理由にはならないの。軽んじられる筋合いもないし、見くびられる筋合いもない。期待される筋合いもないし、その期待に応えないからと言って落胆されたり攻撃されたりする筋合いもないのよ。強くならなきゃだめよ、アリエノール。胸を張って。ストールンにも、ベルトランにもジレッドにも、その他どんな人間にも、あなたから何かを搾取する権利はないの。悪いのはあなたじゃない。ストールンであり、ベルトランでありジレッドなのよ!」
胸が、じんじんする。
リンは何も言えなかった。サンドラは微笑んで、優しくリンの背中を叩いてくれた。
「早く保護局員になるのね」ぽんぽん、と温かな手が続けて触れる。「警備隊員になって……ああ言う奴らと渡り合う方法を身につけて……そうして、そう言う暴力や搾取に苦しんでいる、小さくて弱くて可愛い人たちを、その手で助けられるようになってね……」




