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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 それぞれの決意
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リン=アリエノール(3)

 ばたんばたばたばた……と、机に向かっていた人々が立ち上がる。各ブースに留守番の人が一人は残るようだが、ほとんどみんな外に出かけるようだ。みんな談笑しながら、あるいは急ぎ足で、あるいは持参したランチの包みを持ち、三々五々昼休憩に出かけていく。リンは、ああ……と声を漏らした。お昼時に訪ねると顰蹙を買うとサンドラは教えてくれたけれど、どうやら顰蹙どころの話ではない。


「ご、ごめん。俺のせいで、間に合わなかった……?」


 ジェイドはうろたえ、リンが答える前に、「ジェイド、お待たせ!」製薬所の事務の人がジェイドを呼んだ。手に書類板を持っている。


「チェック済んだわ、全部揃ってた! ほんと、助かったわ! ありがとう!」

「いえ……じゃあ俺、これで」

「はいはい、ありがとうね~」


 ジェイドの用は済んだようだ。ジェイドはリンを振り返り、ごめんね、と眉を下げた。リンは笑う。


「ジェイドのせいじゃないよ、あたしが場所よく知らなかったせいもあるし、別に急ぎの書類ってわけでもないから、お昼休み終わったらまた来ればいいだけだもの。ジェイドはこのあたりよく来るの?」

「うん」ジェイドはほっとしたように微笑んだ。「よくってほどでもないけど、たまにね、【魔女ビル】の製薬所で作った薬を届けてほしいって頼まれるんだ。夏は雪かきがないから、俺はそんなに忙しくないから……」

「そっか」


 ジェイドは偉いなあ、とリンは思う。

 そういえば【魔女ビル】に【炎の闇】が乱入したあの事件の時にもジェイドに会ったっけ。あの時ジェイドは取り調べをされていたけれど、ジェイドと一緒にいたと証言していたおじさんは、ジェイドのことを口を極めてほめていた。マヌエルによっては嫌がる仕事を快くやってくれる、ほんとにいい子で、絶対に人を陥れるようなことはしない――


 イクスとは大違いだ。と、リンは思った。イクスが孵化していたら、絶対に『ついでの配達』なんて引き受けることはないだろう。ジェイドには彼女はいるだろうか、といつもの癖で考えた。どうだろう。顔立ちは悪くないけれど、少し奥手っぽいというか、受け身の子のようだから、自分からガツガツ行くことはなさそうだ。でもマヌエルはモテるしなあ……


「あの、……アリエノールさん」

「えっ?」リンは目を瞬いた。「って、あたし? 何で名字で呼ぶの?」

「えっ?」


 ジェイドも同じように目を見開いた。リンは記憶を探り、そういえばジェイドとはそれほど仲良くなったわけじゃなかったんだっけ……と思い至る。


「あれ、そっか。もう何度か会ったから、すっかり仲良くなったような気がして。ごめん。でも、マリアラと同い年だって言ってなかった? つまりあたしとも同い年でしょ? 初めて会ったわけでもないんだから、もう敬語もなしだし、さん付けもなしでしょ?」


 常識でしょ? と畳み掛けるとジェイドは、思わずというように笑った。


「そっか、そうだね」

「でしょ。それで?」

「えっと、それで」ジェイドは咳ばらいをする。「書類出しに来たんだろうけど、昼休みは受け付けてもらえないみたいだから……今からどこかで昼食取って、時間つぶすんだよね」

「うん、そのつもり」

「……よかったら、昼ごはん、おごらせてくれないかな。ずっと、こないだの礼をしたいと思ってて」


 話しながら自然に歩き出していた。周囲の事務ブースはもうすっかり昼休みの顔になっていた。電話番が一人ずつ、ぽつんぽつんと残っているが、彼らも持参のランチをゆっくり堪能しはじめている。テレビがつけられて、そちらに集まっている人たちもいた。ゴリゴリゴリゴリ……と手回しミルでコーヒー豆をひいている人もいる。コーヒーの香ばしい香りがあたりに漂う。テレビから長閑な音楽が流れている。


 リンは歩きながらジェイドを見上げた。といっても二人の身長差はほとんどないといっていいくらいだった。

 おごらせてほしいとジェイドは言った。それはいったいなぜだろう。あたし、なんかしたっけ?


「ジェイド、仕事は忙しくないの? 戻らなくて大丈夫?」

「うん、今日は非番なんだよ。明日、南大島でメンテの手伝いをすることになってて」

「えっ、非番なのに薬運んだの?」

「あ、まあ……暇だったし」


 ジェイドは親切というか、お人よしに近いのではないだろうか、とリンは思う。ジェイドは少し慌てたように手を振った。


「今ね、医局は大忙しなんだ。三日病の患者が増えてて、みんな忙しくってさ。三日病には薬をたくさん使うから、製薬所も手いっぱいで、だから」

「そうなんだ。親切なんだねえ。あのね、お昼一緒に食べるのはいいけど、でもおごってもらう理由がないよ。お礼って何のこと?」

「えっ?」


 ジェイドがびっくりしたようにこちらを見た時、ふたりは、先ほどのフロア表示板のところまで来ていた。


 リンはフロア表示板を見上げ、飲食店を探した。今きた廊下をそのまままっすぐ行った先にある飲食店は、定食屋さんのようだった。しかしすでに廊下にまで順番待ちの列が伸びている。リンはジェイドを見、「二階に行ってみようか?」と言った。ジェイドは首を振る。


「二階にあるのは元老院議員さんとか秘書さんとかが行く超高級料亭みたいな店だよ。こんな恰好だとちょっと」


 ジェイドが着ているのは、いかにも非番らしい、飾り気のないTシャツと足首の見えるカーゴパンツ、おまけにサンダルである。リンは笑った。


「そうなんだ。ジェイド、この辺詳しいの? あたし、【学校ビル】のあっち側はよく知ってるんだけど、こっち側は全然」

「まあ、たまに来るから……でもこのあたりの店で昼食をとろうとしたら、12時前にはお店に入ってないといけないんだよ」


 そういってジェイドは定食屋さんの行列を示して見せた。確かに12時に一斉に昼休みになるのなら、このあたりの飲食店が昼食時には大混雑になるだろうことは疑いない。一般学生のお昼休みは取っている講義によってまちまちだから思い至らなかった。

 ジェイドは少し考えて、


「リン、には、昼休みしか時間がないし、すぐ食べられるもののほうがいいよね。……甘いもの平気? その、ドーナツとか、」

「天才!!」


 リンは思わず叫んだ。そうだ、そうだった! 【学校ビル】の裏手には、有名なドーナツ屋さんがあるのだった。営業開始は十一時からだが、一番混雑するのは三時ごろだから、今くらいの時間はねらい目のはずだ。リンの賛辞にジェイドははにかみ、「じゃあ、」と言った。


「今は季節がいいから……ドーナツと飲み物買って、【学校ビル】の屋上で食べるのはどうかな」

「屋上? って、鍵閉まってるよ、ね……」


 言いかけてリンは気づいた。そういえばジェイドもマヌエルだ。

 つまり箒がある。


「……天才!!」


 リンがもう一度叫んでジェイドがまたはにかんだ時、ふたりは吹き抜けの真下に差し掛かっていた。

 その時、上階でちょっとした騒動が起こった。

 きゃあっ、と女性が声を上げた。どすん、ばたん。驚く声、狼狽の声。リンは上を見上げ、二階の手すりに、誰か若い人が縋りついたのを見た。目が合った。見覚えがある――リンがそう思った時、上から何かが降った、ような、気がした。ごく小さな、虫のようなものがすうっと飛んで。

 ぽすん。

 リンの着ている袖なしパーカーのフードのところに落ちた。

 ……ような、気がしたが、本当にごく小さなもので、重さも何も感じない。何か落としたのだろうか、リンが体をひねってパーカーのフードをつかもうとした時、頭上の若い人の姿が消えた。ばたばたばた、乱暴な足音が響いた。「てめ――いい加減に――っ」「観念しろやおらあっ」身の毛のよだつような怒鳴り声。


「な、なに、なに?」


 と、その時、階段の上にその人が姿を現した。

 彼は必死だった。ものすごい形相だった。ずいぶん逃げ回ってきたのか、髪も服も振り乱してひどい様子だった。階段を転がるように落ちてきて、リンとジェイドのすぐそばに倒れこんだ。


「たっ、助けて――」

「エリック=フランシス! 観念しろや!」


 続いて階段の上に姿を見せた大柄の人を見て、リンはぞっとした。

 以前会った。『リン=アリエノールだな?』とても恐ろしい声でそう問われた。リンを路地裏に引きずり込んで『任意同行に同意しろ』と迫り、リンを壁に叩きつけた。ステラ=オルブライトと名乗った女性が通りかかってくれなかったら、何をされていたかわからない。

 あの時オルブライトさんは、確か、ベルトラン、と呼んでいたはず。


 そしてエリック=フランシスと呼ばれた人のことも思い出した。こちらは先週……バーバラに研究課の仕事を紹介してもらった時、たくさんの研究室を回った。その時に会った人だ。確か歴史学の講師だと言っていたような。


「助けてください!」フランシス研究員はリンを見ていた。「何も悪いことなんかしてない! 誤解なんです――」

「黙れ!!」


 階段を飛び降りてきたベルトランは駆けつけざまにフランシス研究員の背の上に、ためらいなく左足をたたきつけた。「ぐっ」フランシス研究員がうめき声をあげ、リンは悲鳴を上げそうになる。ジェイドがリンの前に出て、右腕でリンをかばうようにした。


「乱暴はやめてください。いったい何の騒ぎなんですか」

「うるっせえ!!!」


 ベルトランがまた吠える。そこに、階段の上からもう一人の人間が姿を見せていた。ベルトランはとても大柄でいかにも犯罪者のような風体だったが、今度の男はすらりと細身で、スーツさえ着ていれば事務員や元老院議員秘書に見えそうな外見だった。

 しかし彼はベルトランの仲間だった。仕立てのよさそうな革靴をコツコツと鳴らしながら歩いてきて、腕時計を見ながら言った。


「十二時十五分、エリック=フランシスを確保。あーどーも皆さん、お騒がせしてすみませんね。我々は保護局員です。【学校ビル】の保管庫から重要文化財を盗んで逃走した犯人を、今、確保したところです。ご質問やご意見があれば保護局警備隊窓口までどうぞ」

「誤解……なんです……」


 フランシス研究員がそう言い、またベルトランが彼の頭を床にたたきつけた。リンは思わず後ずさった。ジェイドが不快そうに顔を歪めている。

 と、ベルトランがリンを見た。舐め回すような貪欲な色がその目に見え、リンはジェイドの後ろで身を縮ませた。


「あんだよ、彼女の前でいいカッコしたいってのか? ガキがイキがりやがって、ああ? ずいぶん綺麗なの連れてんじゃねえか」

「……」


 ジェイドの肩にぐっと力がこもった。周囲の空気がピリッと張り詰めた。

 と、エリック=フランシスの腕をねじり上げて手錠をはめようとしていたもう一人が、呆れたように言った。


「お前ほんと見境いねーな、まだガキじゃねーか」

「るっせーよジレッド、ワッパ、早く代われよ。こいつ押さえといてくれ。俺ぁそいつを」

「――やめとけよ」ジレッドがジェイドを見て目を細めた。「相手が悪い。お騒がせしてすみません。俺たちは保護局警備隊です」


 言って、バッジを取り出して見せた。ちらりと見えたが、本物らしい。

 研究者が何かわめこうとした。それを、ジレッドの陰で、ベルトランが殴りつけた。重い痛そうな音。リンは身をすくませた。


「貴重な文献を盗んだ現行犯で、窃盗犯を確保しました。何かありましたら〈アスタ〉にお問い合わせを。……行くぞ」


 ふたりは研究者を両脇から引きずり上げるように立たせた。フランシス研究員はもう何も言わなかった。ちらりとリンを見たその目に、何かすがるような色が見えて、リンは前に出ようとした。けれどそれを、ジェイドが止めた。見た目に反して硬い腕。リンの力ではびくともしない。フランシス研究員はすっと目をそらし、もう抵抗せずに連行されて行った。


「ジェイド」


 リンはそう言い、それ以上、どう言っていいのかわからないことに気づく。リンはフランシス研究員とは面識がある上に、ベルトランに恫喝された過去があり、あの時の経験は、心の中に重い澱のように沈んでいる。けれど、今ここで、ジェイドに、制服を着てもいないのに。非番なのに薬を運ぶようなお人好しに、エリック=フランシスへの暴力をやめさせて欲しいと、頼むことはできなかった。そんな権利などあるわけがない。と言って、自分でベルトランに立ち向かうこともできない。あの底知れぬ貪欲さを湛えた目。リンを品定めする、あの理不尽な欲望。


 ジレッドとベルトランが通り過ぎていく。【学校ビル】内が息をひそめて静まり返っていたのに気づく。扉が閉まった瞬間、ふうっとその静けさが緩んだ。ざわざわと人々が動きを取り戻していく中、ジェイドはリンを振り返った。


「行こう」囁き声でジェイドは言った。「裏から出よう」


 ドーナツ屋さんは正面口側にある。今、ジレッドとベルトランが、あの気の毒な研究者を引きずって出ていった方。

 今あっちに向かうのは、絶対に無理だ。


「リン」


 重ねて促され、ようやく呪縛がほどけた。リンはドーナツ屋さんとは反対側へ向けて足を踏み出し、ジェイドがリンに並んだ。細いけれどしっかりと力のこもった腕がリンの背にわずかに触れ、行き先を誘導する。その温かさに促されるようにリンは歩いた。人の多い吹き抜けを通り過ぎ、廊下に出て、数メートル歩いて、左に曲がると裏口があった。その先には誰もいない。足を速めて歩きながらジェイドは囁く。


「リン、ごめん。ちょっと触るね」

「……触る?」

「外に出ると風で飛んじゃうかもしれないから」


 そう言ってジェイドは、リンの袖なしパーカーのフードから、何かをつまみ上げた。それを見もせずに握り込んで、少しガタついた音を立てて開いた自動ドアを抜けて、【学校ビル】の横手に出た。

 建物から出ると、初めて、息が吸えたような気がする。リンは吸った息をふうっと吐き、ジェイドは周りを見回してから、「……あの研究者の人は、知り合いだったの?」と言った。

 リンはその声を聞いて、なんだか急に、


 ――ああ今あたしはエスメラルダの【学校ビル】の裏手にいるのだ、


 と思った。ジェイドの声があまりに普通で、あまりにいつもどおりだったので。


「う、……うん」


 答えると同時に足の裏の感覚が戻ってきた。踵とつま先が地に着く。土踏まずの筋肉が強張っているのまで感じる。

 ――あたしは今、心底怯えていたのだ。


「せ、先週……あ、今、保護局員になるための、研修中で……。保護局の事務方の職務内容と精神を学ぶというものなんだけど」

「うん」

「先週、【学校ビル】の庶務課の人が、いろんな事務部を案内してくださって。研究課にも行って。【学校ビル】内の研究者、先生たちに、配布物とか、配ったの。その時に会ったの、講師って、言ってたかな。……助教、だったかな?」

「助教?」

「研究者たちの、役職で……」


 話すうちにリンはもう一度、ああ今あたしはジェイドと話しているのだ、と思った。

 ジレッドとベルトランがエリック=フランシスを追いかけまわし、床に倒し、馬乗りになり、何度も殴り、腕を後ろにねじり上げて手錠をかけた。さっきの出来事が、やっと少し遠のいていく。

 以前ベルトランに、路上で、裏道に引き摺り込まれ、壁に叩きつけられたあの時の恐怖も、もうずいぶん前の出来事なのだと、自分に言い聞かせられるようになっていく。


 ――あの時ステラはリンに“天災に遭ったと思って忘れなさい”と言った。


 恨まれたりしないように、通報しない方がいい、とも。

 だからリンは医局で“転んだ”と言って治療してもらった。だから心の傷の方は、今の今まで、蓋をして忘れたふりをしていただけだった。

 マリアラだったら絶対に、ステラのようなことは言わないだろうと、あの時も、思ったのだ。


「……ジェイド。さっき、何をとったの?」


 訊ねるとジェイドは、口ごもった。どう答えようかと迷う様子に、リンは、もしかしてジェイドの目には、リンはものすごく怖がって傷ついて縮こまっているかのように見えるのだろうか、と思った。

 情けない。これから保護局員になろうとしているというのに。

 リンは声を励ました。なるべくはきはきと話した。


「フランシスさんは、吹き抜けの上からあたしを見た。それで、あたし目掛けて何かを落とした。ほとんど他人同然なのに……たぶん、他に知っている人がいなくて、全然知らない人よりはマシだって、思ったのかもね。

 あの暴力的な保護局員ふたりは、フランシスさんが『重要文化財を盗んだ窃盗犯』だと言って逮捕した。捕まる時に持っていたら言い逃れができなくなる。だから、吹き抜けの上から落としたんじゃないかな、その、『盗んだもの』を」

「……ごめん、リン」


 ジェイドは迷い、がしがしと頭をかいて、困ったように言った。


「フードの中に何かが落ちたの、俺は気づいてた、というか、見えてたんだ。小さな四角い、本みたいな何か。リンが後ろに下がった時に、フードの中に転がり落ちたのも見えた。フランシスさんはずっとリンを見ていたし……何か、訴えてるみたいだって、思って。おまけにあの保護局員……あの人たち、本当に保護局員なのかな」

「……そうなの。大変遺憾なことに」


 そういうとジェイドはリンを見た。「知ってるの?」


「あの大柄な方……ベルトラン、と呼ばれていたけど。あの人には前に会ったことがあって、……だから知ってる」


 ステラはあの時、申し訳ないことなんだけどね、と言っていた。あんな奴らが保護局員になれてしまうこの国の現状を、いまだに許しているという事実について。

 ガストンはどう言うだろうとリンは思う。ギュンターは。ベネットは。ジレッドとベルトランという人たちが、れっきとした保護局員であるという事実について、いったいどう思うのだろう。


「そっか……。じゃあ、ごめん、本当は……俺、あの時、フランシスさんがリンのフードに落としたこの……何かについて……あの保護局員に、通報するべきだったのかもしれない。今も」


 ジェイドは俯き、囁くように言った。


「今も……。今、から、でも、あの人たちを追いかけて、……渡すべき、かもしれない。さっきはできなかった、でも」

「できないよ!」


 思いがけず大きな声が出た。ジェイドが目を見開き、リンは口を押さえ、声を少し低めて、言い直した。


「……できないよ。あんな……あんな、人、たちに。あんなふうに人を殴って、叩きつけて、恫喝するような人たちに、渡すなんてできないよ」

「俺も。さっきはできなかった。そして今も、……できるとは思えない」


 ジェイドはきっぱりとそう言い、リンは、ほっとした。ジェイドもリンと同じ気持ちでいたのだ、ということを知って。

 エリック=フランシスとは面識以上のものはなく、ついさっきまで、もしどこかですれ違うことがあったとしても、認識さえしなかっただろう。もし誰だか気づいたとしても、声をかけることはなかっただろう。

 けれど、あのジレッドとベルトランよりはずっと、親しみが持てる相手である、ということは事実だ。あの場で渡すことができなかったのはもちろん、今からだって。追いかけて、もしかしてあなた方が追いかけていたのはこれじゃないですかって差し出すなんて。そんなこと、できるわけがない。


「……時間、遅くなっちゃうね。昼飯、どうしようか」


 ジェイドが言いにくそうに訊ね、リンは顔をあげた。背筋を伸ばして、きっぱりと言った。


「もちろんドーナツ。あんな出来事があったくらいで、美味しいドーナツを諦めてたまるか!」


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