四日目 当番(4)
砂浜にたどり着いたとき、ラルフはこちらに向き直っていた。ふたりがやって来るのをどうやって知ったのだろう。寄る辺ない幼子の風情はかき消え、彼は怒っていた。――ものすごく。
ずかずかと森の中に分け入ってきて、思いっきり顔をしかめて見せる。
「ついて来んなって、言っただろ」
「気づいてたんだ。お前すげーな」
フェルドが言い、ラルフはチッと舌打ちをした。「なんか小せえ虫みたいなのがクレメンスの後追ってった。あれ箒だろ」
「見えたのか。ほんとすげーな」
フェルドはフィから降りてラルフに向き直った。ラルフはらんらんと光る目でこちらを睨んでいるが、マリアラはフィから降りる余裕も、ラルフを気にする余裕もなかった。ミフがいつ見つかるかと気が気ではない。見つかったら、全てが台無しになってしまう。
クレメンスと言う名の狩人は今、猟師小屋の中に入ったところだった。中にもう一人、若者、というより少年に近いくらいの年頃の男がいた。フェルドより年下ではないだろうか。彼はラルフやルッツと同じようなぼろぼろの服を着ていて、クレメンスとは財政状況が違うことがうかがえる。
ミフはそろそろと暗がりを動いて、天井の梁の上に滑り込んだ。見つからなかった――少なくとも今のところは。マリアラはホッと息を吐き、ラルフがまた顔をしかめた。
ミフの聴覚を通して、あちらの声が聞こえてくる。
『ラルフがとっ捕まえて来た。さすがハイデンの秘蔵っ子だな』
クレメンスは機嫌良さそうに言い、地面に魔物を投げ出した。ぎちっ、とロープが軋み、魔物が呻き声を上げる。若者は腰を浮かせた。
『じゃールッツ、返してやらねーと』
『阿呆かお前』クレメンスが呆れたように嗤う。『実行まで捕まえとけ。ラルフに邪魔されちゃたまらねえ』
『邪魔なんかしませんよ。あいつだってルクルスだ。エスメラルダ本土を壊滅させる計画、嫌がるわけねーもん。手伝ったら狩人に入れてやるって言えば、』
『アルノルド、お前ほんとーに阿呆だな。ルッツに聞いてみっか、え? ――おい坊主』
クレメンスが何かを蹴った。
ルッツは声を立てなかった。衝立が動いて、小さな黒い頭が覗いた。小さな汚れた膝小僧も見えている。ルッツだ。
ルッツは縛られてはいなかった。膝を抱えて、蹲っている。
『なあルッツ、ラルフがここに来たのはハイデンの差し金だ。――そうだな?』
『違うよ』掠れた声が囁いた。『あいつはただ俺を心配して捜しに来ただけだよ。アルノルドが俺を巻き込んだのがいけないんだ。しょうがねえじゃん、俺、あいつのお荷物だもん』
『自覚あんのか』クレメンスは笑った。『ちっとは見どころがあるじゃねえか、おい。……なあ、正直に言え。ラルフをここに送り込んだのはハイデンだな?』
尋問は続いている。ルッツがこれ以上痛い目に遭わされたらと思うと、いてもたってもいられない。
――信じる気がない奴は、何を言われても信じないよ。
昨日のフェルドの言葉を思い出す。確かにそうらしい。クレメンスは既に答えを決めつけていて、ルッツが何を言おうと信じる気がなさそうだ。
――わたしの患者に、酷いことしないで。
ふつふつと胸の奥に怒りが燃える。治すのは大変なのだ。体の治療はもちろん、もっとも大変なのは心の治療だ 。三週間前、狩人に刺された手のひらは、今でもかすかに幻の痛みを伝えてくる。トラウマが残らないよう、エスメラルダ最新の医療技術と左巻きのレイエルによって念入りに処置を施されてもなお。
それなのに、小さな子供を大柄な大人が蹴るなんて。叩いて、返答を強要するなんて。答えないと殺すと、脅すなんて。
その恐怖がもたらす影響を癒すのに、どれほど時間と魔力が必要だと思っているのだ。全く、冗談じゃない。
*
左巻きの魔女は箒に腰をかけるようにして、目を閉じている。何を見ているのか、眉間に皺が寄っている。箒がクレメンスを追いかけていったのは見えたが、まさかあの箒の見ているものをそのままここで見ているのだろうか。そんなわけないと思うのに、そうとしか思えない。
もう一人の若者の方は、しげしげとラルフを見ている。ラルフは顔をしかめた。見た目はごく普通の若者だった。身なりが違うだけで、頭はひとつだし手も足も二本ずつだ。
でも落ち着かない。畏怖を感じる。
体の中にあるものが、強すぎる。今にも溢れ出し暴れ出してもおかしくない圧倒的な力の固まりが、普通の人間の体の中に収まっている。それが、信じられない。
「な、共同戦線張ろうぜ、ラルフ」
若者に言われ、ラルフは目をつり上げた。何を親しげに俺の名を呼んでんだよ魔女のくせに。自然に声が険しくなる。
「キョードーセンセン?」
「あー、つまり、手を組まないかってことさ」
「俺が? 魔女と?」
「そう。俺たちとしては狩人をこのまま放っとくわけにはいかない。お前はルッツをこのまま放っとくわけにはいかない。利害が一致してるだろ」
確かに。
と、思ってしまう自分が悔しい。
クレメンスが約束を破ることを予想していなかった自分の愚かさ加減が悔しくて堪らない。事態を打開するどころか、刻一刻と手に負えなくなっていくばかりだ。魔物を取り返さなきゃいけないのに、どうすればいいのかわからない。
――どうにもならないときには誰かを頼れよ、ラルフ。
ルッツの声が聞こえ、ラルフは更に苛立つ。
目の前の若者は、自分の背後の新米魔女を振り返った。
「ガストンさんの名刺がある。〈アスタ〉を通してちゃ埒があかない。直接連絡しよう」
――こいつら……!
「ダメだ!」ラルフは叫んだ。「ガストンってのが誰だか知らないけど、別の人間を巻き込むなら俺は降りる」
「けどな、」
「狩人はエスメラルダん中の誰かに依頼されてここに来てるんだ。“お客さん”って言ってた。雪山の魔物も南大島の魔物も、“お客さん”の依頼で放されたんだぜ」
若者はちょっと黙った。瞳の色がとても濃い。殆ど漆黒に近いほど。
ラルフは苛立った。こんな強い力の固まりを持っているくせに、何でこんなに落ち着いていられるのかがわからない。そう、落ち着いている。穏やか、と言ってもいい。押さえ込んでいる様子がない。全然無理をしていない。
「……何でそんなに脳天気でいられるんだよ」そんな力を持ってるくせに。「あんたらの国ん中の誰かが、狩人を呼んだんだ。いつ裏切るかわかんねえような奴仲間に入れて、キョードーセンセンなんかやれるか!」
「俺たちがこのまま保護局員に狩人の存在を通報したら、狩人も魔物もどうにかできるけど、ルッツが危ないかも知れない。だから協力しないかって、誘ってるんだけど」
若者が少し意地悪げな口調で言い、ラルフはじろじろと、彼の後ろの新米魔女を眺めて見せた。へっ、と唇を歪める。
「そこのねーちゃんが噛んでりゃ、ルッツも何とか助けてくれそーじゃん。後先も考えずにさ、俺が入らなくても、あんたが危ないからやめろって止めても、自分で飛んで行きそーじゃん」
「良くわかってんな」
思いがけず真面目な言い方だった。ラルフは息を呑んだ。
むくり――若者の体の中で、何か大きなものが、頭をもたげたような気がした。
「だからお前の協力がいるんだ。さっきからそう言ってるだろ」
「……なんで俺が」
「左巻きの魔女ってのは博愛精神の固まりなんだ。見返りなんか考えずに自分の力をどんどん差し出す。一昨日の夜でわかっただろ」
それでいいのか。若者の黒い瞳がそう言っているのが聞こえるような気がした。
ラルフは一昨日、お人好しの魔女を騙して利用して、引きずり回した。それが理由で彼女はラルフとルッツに心を留め、危険なことに首を突っ込んで、ルッツを助けるために動き出そうとしている。お前はそれでいいのか。その左巻きをそのまま放り出して、顔を拭って知らんぷり。本当にそれでいいのか――
――いいわけないだろ、ちくしょう!!!
「……かった」
「ん?」
「――わかった! わかったよ! わかればいいんだろ!」
「よし」
若者が左手を上げ、ラルフはその手のひらを自分の左手でぱちんと叩いた。いまいましい。魔女のくせに、なぜルクルスと同じ言葉を話し、同じように考えるのか。
そして何故同じ価値観を持つのか、本当にわけがわからない。
「俺はフェルドだ。フェルディナント=ラクエル・マヌエル。よろしくな、ラルフ」
「ん」よろしく、と返すのだけは危ういところで踏みとどまった。「……でもその、ガストン? ってやつは信用できない。ルッツと俺のことをそいつに伏せとくってのはできる?」
「ふーん。狩人を捕まえんのは構わないんだ」
「……」
一瞬、何言ってんだコイツ、と思った。
でもすぐに、名前を知られていたからと言って、ラルフの事情まで全てわかっているはずがない、と思い至った。いくら相手が魔女で、不可思議な力を使えるからと言って、全てを見通せるわけがない。
「俺にとっても……魔物が本土を襲うってのは困るんだ。もともと、ルッツを助け出したら、折を見て魔物を盗み出すつもりだった」
たぶんクレメンスにはそれを見透かされていたのだろう。認めたくはないが、ラルフは嘘が下手だ。ハイデンもそれを心配していた。お前はわかりやすいからな、と。
と、ずっと黙っていた新米魔女が、静かな声で訊ねた。
「ねえラルフ。ハイデンって、誰?」
「え!?」
すっかり虚を突かれ、声が裏返った。魔女は灰色の瞳を開いていた。同じ色だ、そう思って落ち着かなくなる。
――なんで魔女のくせに、ルクルスと同じ色の瞳をしてるんだよ。
「クレメンスという狩人は、ラルフをここに送り込んだのはハイデンの差し金だろうって、ルッツに聞いてる。ルッツは、自分を心配して探しに来ただけだって……答えているけど」
どうやらルッツはクレメンスに、蹴られたり踏まれたり殴られたりしているらしい。魔女の表情を見ればわかる。ああもう駄々なんかこねずにとっととキョードーセンセンでも何でもやれば良かった。この人にこんな表情をさせるくらいなら、そう思っている自分に気づいてラルフは首を振る。魔女がどう思おうとどんな顔しようと俺に関係ないだろ、くそ。
「ハイデンは俺の養い親。確かに俺はハイデンに言われてここに来た。ハイデンは、魔物を狩人から盗んで〈壁〉に棄てろって言った。それが俺の仕事」
「ハイデンと言う人は、狩人の敵なのか?」
フェルドに聞かれ、ラルフは首を振った。
「そうじゃない。なんつーか、ややこしいんだけど……狩人はそもそも俺らの恩人なんだ。でも狩人の中にもいろんなのがいて、魔物をとっ捕まえてエスメラルダに放したがってるのもいれば、それはちょっとやめとけって人もいるんだ。ハイデンはやめとけ側に頼まれたんだよ、たぶん、俺も詳しくわかんねーけど」
「ふうん」
「とにかく俺は魔物を盗んでくる。もともとルッツさえ人質にされてなきゃ簡単なんだ。あんたらはルッツを助けてくれるんだよな」
「ガストンさんに連絡しようと思うんだ」フェルドが魔女に言った。「保護局員集めて狩人さえ捕まえてもらえれば、問題の大半は片づく。ただラルフとルッツはガストンさんに存在を知られたくないらしい」
魔女はラルフを見た。ラルフはそっぽを向いた。どうしてだろう、あの人の灰色の瞳に見つめられると、何だか落ち着かない。
彼女はフェルドの方に視線を戻し、頷いた。
「うん、それがいいと思う」
「待てってば。そのガストンって奴、ほんとーに信用できるのか」
我ながらしつこい、と思いながらラルフは繰り返した。早いところ取りかかりたいのは山々だが、このお人好し魔女たちがまんまと敵を引っ張り込むのをむざむざ見過ごすことはできない。エスメラルダの中に、魔物が本土を襲うことを狩人に依頼した人間がいることは確かなのだ。
「大丈夫だよ、ラルフ。ガストンさんなら――」
「あんたの信頼なんか当てになるかよ」
魔女が言いかけ、ラルフは遮った。魔女が目を見張る。
「あんたみたいなお人好しにとってはさ、この世の人間殆ど全部がいい奴で、悪いのはごく一握りなんだろ。でも現実は違うんだ」
「あのな、ラルフ。ガストンさんが味方か敵か、というのは、この際問題じゃないんだ」
フェルドが宥めるように言い、ラルフは彼に向き直った。こちらの方が人を見る目においては魔女よりマシ、という気がする。たぶん。
「味方だったら問題ない。でも敵だとしてもさ――さっきの休憩所の惨状を見れば、これ以上この島に魔物がいることをごまかせない、ということはわかるはずだ。これ以上魔物の存在を秘密にするメリットはない。それなら“敵”はきっと保身を図る。自分は何も知らなかった、狩人は勝手に入って勝手に魔物を連れて来た、という演技をするはず」
「うん――」
「だったらガストンさんが敵でも味方でも、狩人を捕らえるために動く。そうなるだろ」
「そっか」ラルフは頷いた。「そんならいいや。じゃあ、実行しよう。俺が魔物を盗んで、その隙にあんたらはルッツを助ける。その後でガストンって奴が狩人を捕まえる。――ルッツはさ、北東の海岸沿いに連れてきてよ。“向こう岩”って俺たちは呼んでんだけど、窓みたいな穴が空いたでかい岩がある。俺魔物を〈壁〉まで棄てに行って、その後で岩を目指すから」
話はそれで調った。
未だ名前を知らない左巻きの魔女が、何か言いたげな様子だったのが、少しだけ気がかりではあったのだけれど。