王宮(2)
王宮は輝いていた。その人影に気づいたのは、マリアラの方だった。
頭上にそびえる王宮の、多分四階か五階くらいの高さの窓辺に、誰かが立った。
あちらの方が明るいので、その人影はよく見えた。マリアラは思わず身を縮めた。ウィナロフはそれでその人影に気づいたらしい。ささやき声で言った。
「心配ないよ。こっちの方が暗い。動かなきゃばれない――あれ」
見上げて彼は怪訝そうな顔をした。マリアラも視線を戻すと、人影は伸びをしていた。今から自室へ眠りに帰るとでもいいたげなくつろぎ切った様子で、のんびりと窓辺から姿を消した。ウィナロフは手早く荷物をまとめて、小さく縮めてしまい、マリアラに言った。
「変だ。悪い……ちょうどいいから寄り道してもいいか」
「え……うん」
「王妃宮に行くけど。裏道使うから安全だとは思うけど、念のためここで待ってるか?」
「やだ」マリアラは慌てて立ち上がった。「一緒に行くよ。何が変なの?」
「あの人影、アナカルシスの、国会事務局の制服を着てた」
「そうなの?」
何が『変』なのかわからない。歩きだしたウィナロフは、少ししてから補足した。
「あーそっか……狩人、つまりアナカルシス国王と、アナカルシスの国会は犬猿の仲なんだ。狩人の本拠地で、国会の人間があんなふうにくつろいでるなんて変だ」
「……そうなの」
どういうことなのだろう。ウィナロフは裏道の入り口があるのだろう、王宮の北側へ足早に歩いて行く。マリアラは急いでその後について行った。
数十分後、ふたりは王妃宮の中にいた。
出張医療のときにマリアラが匿われた、あの小部屋だった。ウィナロフは部屋中を見回し、真っ先にいすを持ってきて、その上にあがって天井に手を伸ばした。前回マリアラも気づいた天井の割れ目だ。そこに両手をかけ、身長が足りなかったのか、にょにょにょにょにょ、と足が伸びた。便利だ、マリアラは感心した。でも申し訳ないけど、ちょっと気持ち悪い。横着して足だけ伸ばすからだ。
「あった。あーよかった……」
ウィナロフがそこから取り出したのは、手のひらに乗るくらいの小さな小箱だった。
好奇心に駆られて、マリアラは吸い寄せられるようにそちらへ行った。ウィナロフは椅子に座って、小箱を開けて見せてくれた。光珠の光に、中身がキラキラと光った。小さな細い金の延べ棒が、ぎっしり詰まっている。
一本一本はごく小さいが、縮めてあるのだとしたら大変な量だ。
「何これ……!」
「へそくり」
マリアラはウィナロフを見た。「へ、へそくり!?」
「あー、俺のじゃなくて、あいつの。アルガス=グウェリンの」
「アルガスさんのへそくり!」
めまいを感じた。国宝級だ。
ウィナロフはあっさりしたものだった。
「あいつの全財産。生きてる間に一生懸命使おうとしたらしいんだけど、もともと質素なたちだったし、そもそも奥さんが桁外れの金持ちだろ」
「ああ、なにしろミラ=アルテナなんだもんね……」
「ミラじゃない。マイラ」
ちょっと強い口調で言われて、マリアラは首をかしげた。
「マイラ?」
「本名がマイだろ。戸籍上はマイラ=アルテナ。ミラってのは後世のとある大法螺吹きが、もうひとりと混乱するし、こっちの方がかわいーとか言いやがって勝手に変えたのが、なんでか通説になりやがったんだ。本当はマイラっていうの」
「あ……あー、そうなの……?」
かわいー、って、なんだ。
大ぼら吹きって、誰だ。
おまけにこの剣幕は何事だろう。
「とにかく」ウィナロフは咳払いをした。「媛はちょっと呆気に取られるくらい金銭感覚が滅茶苦茶だった」
「船一隻、現金で買ったって……?」
おずおずと言うとウィナロフはまた強い口調で言った。
「それも法螺!」
「そ、そうなの」
「あの子は大商人と大船長の愛娘みたいなもんだったから、海外行きたいってひとこと言えば、船長が大喜びで船も水夫も食料もぜーんぶ用意したんだ。わざわざ金出して買わなくてもよかったの。大法螺吹きが金持ちエピソードが足りなーいとか言いやがってでっち上げた」
「や、でも……お金出さずに揃えてもらえる方が、なんか、すごくない……?」
「だよな? そうだよな? そっちの方が金持ちエピソードになるよな! まったくそういう感覚が狂ってるくせに伝記書きたーいとかどの口で言ってやがったんだか」
なんだかその『大法螺吹き』に対して、かなりのわだかまりがあるらしかった。ウィナロフはもう一度、せき払いをした。
「まーとにかく……国にいるときも衣食住全部保証されてる姫君だったし、その割にドレスとか宝石とかの贅沢にはあまり興味がなかった。姫君のくせに寝袋と毛布での野宿も平気だった。今の感覚で言えば一般人並の生活しながら金貨三万枚とかの額をいっつも持ち歩いてるような人だった」
「さんまん……」
「だからあいつが金を使う機会ってのが本当になかったんだよ。娘の婚礼の時の支度を全部出すって言い張ったらしくて、それでかなり使ったらしいけど、どんな豪華な花嫁支度整えたって棒三本もありゃ充分だっただろうからなあ。で、使い切れなかったのを俺にくれた」
「……大盤振る舞いだね」
よほどに親しかったらしいと、また考えた。
そういえば、アルガスが命の恩人だとか、言っていたような。
「今まで使えなかったんだよ。気軽に使える金じゃないだろ。でも差し入れに使うならあいつも文句は言わないはずだ。両替すれば金貨一万枚くらいにはなる。千年前の貨幣だから、価値も高いだろうし。これだけあればまあ二十年は差し入れも続けられるだろう。……それまでには必要なくなってればいいけど」
「さし入れ、ラルフに頼んだって……?」
「そう。ラルフが一番適任だ。でも差し入れのために副業までさせるのは気の毒だし、この金も使えてちょうどいい。はやいとこリファスに行かないと」
ウィナロフは箱を更に縮めてポケットにしまい、ゆっくり歩いて、壁にしか見えない出入り口の前に行った。この向こうは王子の部屋、とウィナロフが以前言っていた場所だ。しばらくの間そこで思案したが、ややしてこちらを見た。
「ちょっと調べてくる。ここで待っててくれ」
「……うん」
マリアラはうなずいて、壁が開いても見えない場所に移動して、光珠を消した。ウィナロフが壁に手をかけた。慎重に力を込めると、ごく軽い音がして、光が細く差し込んだ。向こうからは何の音も聞こえてこない。
しばらくして、その光がもう少し太くなった。人が通れるくらいの透き間を開くと、ウィナロフはそこから滑り出て行った。
マリアラはドキドキしながら待っていたが、彼は割りとすぐに戻ってきた。壁の透き間をしっかりと閉め、背をもたれさせて、長々とため息をついた。手に新聞を持っていた。マリアラが光珠を点けると、長椅子と机のところへいって、机の上に新聞を広げた。
マリアラはのぞき込んだ。当然だが、アナカルシスの新聞だ。一面は、ウルクディアの魔女、三日病の患者二千三百人を救う、となっている。三日病、と興味をそそられて記事を読もうとした時、ウィナロフが呻いた。
「……半年か。くそ。思ったより長かった」
マリアラは顔を上げた。
「半年……?」
「悪い」ウィナロフは端的に謝罪した。「あの地下に潜ると時間の流れが狂うんだ。人魚の骨取りにいったあいつらは、六日しかいなかったはずなのに、十カ月経ってやっと出てきた。媛の寿命があと二カ月って言われてたから、みんなすっかり死んだもんだと思って、そろそろ葬式出すかなんて話になってたんだ」
「そんな……!」
新聞をのぞき込んで、ぞっとした。
日付が、十月になっている。
十月二日――慌てて年を確かめたら、一応今年だったので、何年も経ったわけではない。でも慰めにはならなかった。
「王宮はもはや狩人の本拠地じゃない」静かな口調でウィナロフは続けた。「国会事務局が使ってる……半年で本拠地まで追い出された。予想より脆かったな。ガルシアの宰相襲撃の罪を全部着せられたんだろう」
あまりに淡々とした、ひとごとのような言い方だ。マリアラはまだ衝撃から立ち直っていなかった。半年だなんて。もう半年も過ぎてしまっただなんて。フェルドはどうしているだろう。半年――少なくともラセミスタは、マリアラがつれ去られたことを知っているはずだ、それが、半年も音沙汰がないなんて、どんなに心配しているだろう。マリアラはいても立ってもいられない気持ちになり、そわそわとその辺を歩き回った。
「とにかくリファスに行こう。現状を把握しないと」
「そ、……だね」
さっきウィナロフは、〈アスタ〉に連絡するのはやめてほしいと言ったけれど。
確かにそうなのかもしれない。出張医療の時にマリアラの居場所が狩人にばれていたということを思い出せば、安易に〈アスタ〉に連絡を取るのはためらわれる。
でも何もしないわけにはいかない。半年も行方不明になっていたなんて、みんなどんなに心配しているだろう。リファスについたらなんとかして、ミランダとラセミスタと、何よりフェルドに、連絡を取る方法を考えなければならない。そわそわしながら、先を急いだ。




