四日目 当番(3)
ラルフは森の中を北に向けて走って行く。
どこへ行くのか、その魔物をどうする気なのか、魔物を捕らえるためのあんな装置をどこで手に入れたのか、ルッツはどうしたのか、アルノルドという男はどこへ行ったのか――捕まえて色々と問いただしたいけれど、そうしても意味がないことだけは痛いほどわかる。
ラルフは明らかに、目的地に向かう気がない。ふたりがついてきているのを知っているからだ。数分も飛んだ後、フェルドがマリアラをちらりと振り返った。
それから声をかけた。
「ラルフ! どこ行くつもりだ、もう諦めろ!」
「ねえ待って、ラルフ!」マリアラも調子を合わせた。「心配してるだけなんだよ! ちょっと止まって、話をしようよ――」
「……るっせー!!」
我慢の限界に来ていたらしく、ラルフはすぐに足を止めた。くるりとこちらに向き直り、藍色の瞳を怒らせて怒鳴った。
「ついてくんな! 頼んでないだろ! しつっこいんだよ!」
「放っておけるわけないよ、そうでしょ? 困ってるんなら、力になるよ」
ラルフの瞳が更に剣呑な色を含んだ。嘲るような、軽蔑するような、そんな言葉が吐き捨てられた。
「エスメラルダの特権階級が、ルクルスに力を貸すって?」
マリアラは目を見張った。
――ルクルス?
「ラルフ、」
「俺はただあんたの治療の腕が欲しかっただけだ。患者だって? 経過を知りたいだって? うぬぼれんなよ、あんたはルッツの医師じゃない。ただの道具だ。
……魔女なんか大嫌いだ。あんたらのゴタイソーなお遊びには付き合ってらんないよ。これは俺の仕事なんだ。あんたらは俺の仕事を邪魔してる。これ以上邪魔をするなら、」
ちらりとフェルドを見て、ラルフは顔をしかめた。マリアラに視線を戻して、言った。
「俺はこの仕事に失敗したら死ぬ。役に立たない人間を生かしておく余裕はルクルスにはないから。だから――これ以上ついてきたらこの魔物から〈毒〉むしり取って飲み込んでやる」
「……」
瞳の藍色が、濃くなっていた。日を浴びた水面のようだった色が、今はとても深い。ラルフが本気だとマリアラは悟った。ルクルス呪われ者、という単語が、信じられない。
ルクルス――生まれつき魔力の素養を全く持たない、創世の女神マーセラの祝福を受けなかった、呪われた存在。そういう意味の単語だ。
「ついてこないで」
ラルフは踵を返した。がんじがらめに縛られた魔物を抱えて、走って行く。木々に紛れる前に、一度振り返った。ふたりが動かないのを確認して、彼は一瞬だけ表情を崩した。
泣き出しそうな、表情だった。
ラルフの姿が木立の陰に消えると、フェルドが言った。
「さー、どっちにする?」
「わたしで、いいかな。逐一話すから」
「いーよ」
『ありがとー! 行ってきまーす!』
ミフがぽん、と音を立てて縮み、ひゅうん、と飛んで行った。フィがマリアラの前に飛んできて、腰の高さに静止した。
『乗って。ミフの視界に気を取られると、危ないから』
「あ……ありがとう」
お言葉に甘えてフィの穂の上に腰を乗せ、マリアラは目を閉じた。ミフの視界に同調すると、ミフは既にラルフを再び見つけ出していた。彼は西に進路を変えていた。時折後ろを振り返るけれど、ミフは既にラルフの背中にぴったりくっついているから気づかれていない。
「西に向かってる。海を目指してるみたい」
マリアラはフィの柄をそっと動かしてラルフの進行方向に向けた。フィがゆっくり飛び始め、フェルドが隣に並んで歩き出した。ラルフは疲れると言うことを知らないらしい。全力疾走という程ではないが、重い荷物を抱えているのに結構な速さで走り続けている。
その身のこなしは既に、人間離れしているように思える。
つい二週間前に、同じような話を聞いた。
グールド=ヘンリヴェントと名乗ったあの恐ろしかった狩人について、リンもフェルドもダスティンも、同じことを話した。リンを抱えて山の斜面を駆け上ったあの体力は、人間離れしていた、と。
「ルクルスって……言ったね」
囁くとフェルドはすぐに頷いた。同じことを考えていたらしい。
「ラルフが魔物を捕らえたのを見たとき、あいつに似てるって思った」
「あの狩人、だよね。グールド=ヘンリヴェント」
「そう。役職が【炎の闇】とか言ったっけか。子供があんな動きすんなら、あの狩人が人ひとり抱えてあれだけ走るってのもわかる」
ラルフが走る速度を緩めた。目的地が近いらしい。
この森はとても広大で、似たような大きさの木が延々と続いているのに、どうしてラルフは全く迷わないのだろう。辺りを見回すそぶりすらない。そこもあの狩人と同じだ。そう考えてマリアラは身震いをした。
*
風が出ていた。
南大島の西側海岸は、基本的には砂浜だが、大きな岩がごろごろ転がっている。北に向かうにつれて岩が増え、岩礁が見え始めた辺りで視界が切れている。ラルフは足元に魔物を置き、岩に向かって呼びかけた。
「クレメンス! 約束のものだ!」
答えはない。ラルフは少し待った。それから息をつき、疲れたように座り込んだ。砂をすくって、汚れたぼろぼろのズボンにかける。もう一度すくって、指の隙間をすり抜ける砂の感触を楽しむように、細く長く砂をこぼす。その背が、とても小さく無防備に見える。年相応の子供に。
魔物は静かだった。ゆっくりと体が上下しているのが見えなければ、死んでしまったのかと思うところだ。どうして魔物が縮んだのだろう。ミフの視界越しにそれを見ながらマリアラは考える。あの白いロープは何でできているのだろう。稲光は何だったのだろう、それからラルフがロープに取り付けたあの魔法道具、蓋を開いてはめ込んだ何かの結晶……
「……ルクルス。そうか。ラルフは、魔法道具が使えないんだ」
フェルドがこちらを見た。それで、声に出ていたことに気づいた。
「あー……なんか結晶嵌めてたよな。あれ、魔力の結晶か。そっか」
「今、砂浜で、誰かを待ってるみたい。クレメンス、約束のものだ、って言った。クレメンスって」
言いかけたその時。
ミフの視界の中で、ラルフがぴくりと顔を上げた。
岩の向こうから、男が顔を出した。
まだ若そうな男だった。グールドと同じくらい、あるいはもう少し年上だろうか。見るからに、柄の悪そうな雰囲気だ。きちんとした服を着ている。ラルフやルッツとは一線を画する存在らしい。
「しばらく見てたが、誰も連れて来てねえようだな。……連れてきても良かったんだぜ、ええ? どっちもラクエルだったんだろ」
ラルフはきょとんとした。「らくえる?」
「知らねえのか、そりゃそうだな。魔女には三種類いるんだ、風を媒介に魔力を使うイリエルっつーのが大多数。次に多いのが水を媒介にするレイエル、これは結構値段が高いが、左巻きは殺さねえ方が高く売れる。お前もいつか狩人になるんなら覚えておきな。で、一番高価なのがラクエルだ。数が稀少で、滅多にお目にかかれねえ上玉だ。――お前がここにその左巻き連れてきてたら大儲けだったのになあ」
狩人だ。マリアラはフェルドを見た。
伝えるとフェルドは無言でフィの柄を掴んだ。マリアラは少し後ろに下がり、乗ってきたフェルドの背にしっかりと掴まった。
速度が増す。耳元で風が髪を吹き散らす音を聞きながら、マリアラは、ラルフがマリアラとフェルドを撒こうとしたのは、保身のためではなかったのだと悟った。
「無駄話はいいよ」ラルフは不快そうに言った。「とにかく約束を果たしてもらう。魔物を捕まえてきた。ルッツを返せ」
「そーだったな。まちょっと下がれや」
クレメンスはそう言いながら岩陰から出てきた。マリアラはフェルドに状況を伝え続けながら、誰かの背中にしっかりしがみつける体勢であることがありがたいと思った。何かにしがみついていないと、途方に暮れてしまう。事態が大きすぎて。
ルッツを楯に、クレメンスはラルフに魔物を捕らえてくるよう強要したのだ。
狩人は魔物を手に入れて、いったい何をしようというのだろう。
瞼の裏に真っ赤に燃えさかる雪山の森と、それから夢で見た住宅街の火災が映る。いったい何を――決まってるじゃないか。
一度目と二度目は別の場所で同時に起こり、多大な被害をもたらした。
でも今度のはきっと比にならない衝撃をエスメラルダにもたらすだろう。もう終わったものと思って復旧に勤しむ人たちのただ中に、もう一度災厄が撒き散らされたら。
ラルフはクレメンスを睨み殺しそうな顔をしながら、そろそろと後退った。少年が魔物から数メートル距離を取ったところで、クレメンスが魔物に歩み寄った。蹴飛ばして、魔物の向きを変えた。魔物が苦痛の呻き声を漏らした。
魔物の瞳が開いていた。様々な色が大理石のように渦を巻く、美しい瞳から、ぽろぽろと黒いしずくが垂れている。
「手こずらせやがって」
クレメンスは乱暴に魔物を蹴り、ラルフから更に遠ざけた。ラルフが身じろぎをする。
「約束だろ。ルッツはどこだ」
「ああルッツ。そうだった。ルッツなあ、もう、お前が来る前にあの島に帰ったわ」
「嘘つけ!」
ラルフが怒鳴る。クレメンスはくつくつ笑った。
「びーびー泣いて、帰る帰るってうるせえの何の。ラルフが助けに来てくれるって言ってんのに信じやしねえ。根負けして舟用意してやったら飛んで帰った。嘘じゃねえよ? お前気の毒だな、友達助けるために頑張ったのに信じてもらえねえで」
「……クレメンス……!」
「動くな」
鋭い口調で言われ、ラルフがびくりとした。藍色の瞳は更に濃さを増し、今はまるで夜空のように見えた。クレメンスはニヤニヤ笑って、指を指した。西の海の方を。
「お前も帰れ。……ハイデンによろしくな、ええ?」
「約束、したじゃないか……!」
「ああしたな。だがルッツの野郎が勝手に逃げたんだ、しょうがねえだろ。俺に責任はねえ。ぎゃんぎゃん騒ぐな、二歳やそこらのガキじゃあるめえし。早く帰りな、ハイデンが心配してるぜ」
クレメンスは魔物を抱え上げ、砂を踏んで歩き出した。ざくざくと砂が音を立てる。ラルフはぶるぶる震えていた。その背中が、あまりに小さくて。
ミフが飛んだ。クレメンスの背中にぴたりとくっついた。クレメンスは時折吹く風に寒そうに身を縮めて、足早に歩いていた。振り返りもしない。もうラルフのことなど、忘れてしまったかのように。
と。
狩人は魔物を見下ろして、声を立てて嗤った。
醜悪な笑い方だと、マリアラは思った。