王宮地下(10)
大きな氷の中で、跪いた姿勢のままシェスカは動きを止めていた。その氷をちらりと見て、リエルダはこちらを振り返った。
圧倒的な存在だった。シェスカさえも氷漬けにした彼女は、この場所にまさしく君臨していた。その気になればマリアラと媛はもちろんのこと、アルガス=グウェリンという、千年後にまでその名が轟く若者のことさえ簡単に殺してしまえるだろう。
死を司る女神だと言われても信じられるほどに冷たい顔だった。目だけは少し優しいと思うのは、マリアラの願望だろうか。
「供物を持ちはるばる儂らが城へ来たというのに……あなた方の礼儀に報いる出迎えができず、すまなかった」
出た声はとても優しかった。
今の騒動で周囲に散らばったケーキに、さわさわと水が忍び寄っていた。
水はケーキを濡らすことをせず、ただ緩やかに持ち上げた。陶器の箱に元どおりしまっていく。せっせと働く水たちによって陶器の箱にしまわれていくケーキを見ながら、リエルダは悲しそうに言った。
「儂らには過ぎた贈り物じゃ。好意を無碍にしてすまぬが、どうか持ち帰っておくれ。儂が一族は既に衰退している。そなたらは儂らを尊重し、供物を用意し、礼儀を払ってくれるけれど、こちらにはもはやその礼儀を受け取る心構えさえ用意できぬ有様じゃ。伴侶を亡くし、温もりを知らぬままでは、人魚は人魚たり得ぬ。温もりを知る人魚は既に姐と儂しかおらぬ……出来損ないの、いじけた仔らは、一人で立つことを知らず、大きなもののために自らを賭して立ち向かうことも知らず、ただ甘えて、寄りかかって、誰かが何かを与えてくれるのを口を開けて待つばかり。シェスカでさえも――そんな仔らには、あなたがたの心尽くしは毒なのじゃ」
「しかし」ガスがゆっくりと言った。「……俺は無骨者で、人魚に対する礼儀を知らず、失礼があっては申し訳ないが。受け取っていただかねば困る。彼女の体を治すには、〈人魚の骨〉が必要だと聞いた」
「そうじゃな。じゃが、人魚の掟に沿うならば、渡すわけにはいかぬ……」
リエルダは円筒の中に閉じ込められた媛を見た。
「完全体か――。こちらで過ごして長いな。よく今まで無事だったものじゃ。じゃが……そなた先ほど『体を治す』と申したが、実のところあの娘の体には悪いところはどこにもない。儂やそなたよりずっと『正しい』。悪いのは、このいびつな世の方なのじゃ。じゃから正しい世界へ帰してやらねばならぬ。完全体はこちらでは生きられぬ。人魚の掟に従うならば、一度この世に生まれ出た完全体をわざわざ不完全にすることはできぬ。その体から弾き出された負はどうなろう。フランチェスカというあの魔物を見たじゃろう。あの気の毒な生き物を、楽園へ帰してやれるのに、わざわざこの地獄の中にもう一体。のう、そなた、愛するのはその娘の正の側面だけなのか。弾き出された負は、……そなたの愛は得られぬのか」
「……」
「考え直すことはできぬか。娘は今は眠っておる。そなたさえ考え直せば、儂が、責任を持ってあちらへ送る。どうじゃ」
「俺は共に行けるか」
「無理じゃな」ふうっとリエルダは息をついた。「入り口まではともに行けても、そなたのいびつな体では、あちらの正しさに耐えられぬ。じゃがな……初めから、生きる世界が違ったのじゃ。ここで体を二つに分けたとすれば、正の側面は寿命が尽きるまでそなたと共に生きよう。幸せに……他の人間たちと同じように、子孫を残し、慈しみ、育んでいくこともできような。じゃが負はそなたらの団欒の輪から一人ぼっちで弾き出され、自らの失った半身を追い求めながら……生の寿命が尽きて死んだ後も……長い、長い時間を、飢えと渇きと呪いと共に、彷徨うように生きねばならぬ。毛皮を人間に狙われ、毒を与えられて魔物にさせられ、兵器として使われるやもしれぬ。愛する娘の半身をそのような目に遭わせる……そなたの望みはそういうことじゃ。本当にわかっておるのか」
リエルダはそう言って、口を噤んだ。
アルガスの表情を見て、悲しそうに微笑む。
「そうじゃろうな。そなたもまた右に渦を巻く者。この議論は銀狼と、もはやし尽くしたと聞いている。……儂が平気でその〈骨〉を、そなたに渡すと思わないでおくれ。人魚にとってはこの世にもう一つの悲しい命を生み出すことは、身を切られるほどに辛いことなのじゃ。じゃが……そなたが完全体の世界に行くこともできず、その娘が完全体のままこの世界で生き続けることもできぬ、ならばその方法しかないこともわかっている」
「では」
「……そなたは人魚に請われて加勢をくれた。見事な働きじゃった。そなたのおかげで儂は長いこと城を乱した元凶を抑えることができ、人魚の名を汚し続ける魔物に釘を刺すこともできた。ならば相応の礼を受けるべきじゃ。
そなたの唯一の望み、傍若無人で独善的で利己的なその望みを、かなえる権利を授けよう。娘の体に必要な〈骨〉は花に見つけてもらえ」
ふわり、と。
シェスカが消したままだった周囲全ての〈人魚の石〉が、再び光を取り戻した。
さっきマリアラが見つけたあのひと抱えもある石も、誘うような優しい光を再び放っていた。マリアラは目を細め、リエルダは水に飛び込もうとする。その前にガスが声を上げた。
「ありがたい。だが、待ってくれ。〈人魚の骨〉を、どう使えば」
「案ずるな。銀狼が知っておる。近くにおるじゃろう。花よ」リエルダはマリアラを見た。「――息災でな。あなたにあげられるものは何もないが、儂の妹が奪った声と引き換えに、あなたの疲労はもらっていくぞ」
ちゃぷん。
水音がして、そちらに気を取られた。その一瞬で、リエルダの姿は消えていた。
沈黙が落ちた。
マリアラは悲しかった。リエルダがいなくなってしまったのが。
人魚とはああいう存在だったのか。初めて知ったような気がする。
授業で習った人魚は、どちらかと言えば人間の世に害をなす存在である。英傑王の誕生の前、アナカルシスに数代続いた暴君たちは、人魚に呪いをかけられていたという話すらある。繁殖に必要な儀式のために人間の男を要求する。人魚との友好的な関係を維持するために、各国の責任者たちは多大な労力を払ってきた。だからマリアラは、どちらかというと人魚に対し否定的な気持ちを持っていた。シグルドが海に落ちた時の儀式の歌を聞いたときにはゾッとしたし、半年前の大騒動ではイェイラが【水の世界】をひょうたん湖に呼んだ。人魚はいわば敵側の存在だった。
けれど人間の黎明期には、人魚は養育者の役割を担った。清潔の概念を教え、魔力の使い方を教え、建物の建て方を教え、水洗トイレも導入させた。真水の浄化の方法も、寄生虫や雑菌から身を守る方法も、全て人魚からもたらされたという。
かつて優しく人間を教え導いた人魚は、リエルダのような心根の人だっただろうか。
なぜリエルダは、マリアラをあれほどに優しい目で見てくれたのだろうか。
先ほどまでマリアラの四肢をむしばんでいた疲労も貧血の症状も綺麗さっぱり消えていて、本当にありがたかった。けれど、あの疲労が今はリエルダを苦しめているのかもしれないと思うと、なんだか悲しくてたまらない。
悲しい気持ちのまま、リエルダの消えた場所から目をもぎ放した。アルガスはすぐそばにやってきていて、水の円筒に手のひらを当ててみていた。円筒の中で媛はぐっすり眠っているようだった。
マリアラが彼に意識を向けると、彼はこちらに向き直ってため息をひとつ付いた。
「……ありがとう。彼女の命を保たせてくれて」
「はい。わたしも、ありがとう。あの魔物から守ってくださって」
すんなりと声が出た。アルガスは微笑んだ。
「地下街の元締めのところへ連れて行きたいが、……あなたにとっては無意味だろうな。俺に何か、渡せるものがあればいいんだが」
「ひとつ、聞いてもいいですか」マリアラは咳ばらいをした。「わたしの相棒が、カーディス王子のことをすごく心配しているの。ムーサという恐ろしいおじいさんに、ひどいことをされていないかって。何とか助けてあげたかったけれど、できなくて……世界一周にも、連れて行ってあげられなかった、って」
「大丈夫」藍色の瞳がとてもやさしく光っていた。「カーディス王弟はもうずいぶん大きい。あなた方より年上だと思う。世界一周は三年後を予定している」
マリアラは微笑んだ。「そうなんですか」
「あの人は奥方を連れていくと言って聞かない」彼は苦笑した。「大所帯になるし、国の守護者が留守にするためのいろいろな問題を片付けるまで、三年待ってほしいと言われて。こちらもマイの体を治し、国を立て直すのに時間が必要だし。だがすべて調ったら、みんなで一緒に行くことになっている。フェルドのお陰で、あの人は、世界の見方を知ることができた。ムーサに従わねばならない人生以外の扉を開いてくれた。とても感謝していると、以前話したことがある」
「ニーナはっ」喘ぎそうになった。「ニーナは元気ですか。エルギンは、立派な王様になりましたか?」
「エルギン王の戴冠とその直後はなかなか大変だった」アルガスは楽しそうに笑った。「だがもう落ち付いた、はずだ。有能な副官もついているし、あの人たちならきっと混乱をすぐにおさめるだろう。ニーナはとても元気だ。マイの親友だ。本当に……何というか、大した姫君だな、あの人は」
マリアラは唇をかみしめた。
マリアラの中では、ニーナもエルギンも、カーディスも、ほんの小さな子供のままだった。ニーナの懇願を振り払ってきたことが、心のどこかに刺さっていた。
けれどもうすっかり立派に成長している。彼らはマリアラたちの年齢を飛び越して、養育者に虐げられることもなく、元気で、自由に、カーディスに至っては奥方までいて……準備を全部整えて、世界一周にまで出かけていける境遇になっている。
フェルドとラセミスタに話したい。今ここに、二人も一緒にいてくれたらよかったのに。
涙が溢れそうになり、慌てて振り払う。今は、感傷に浸っている時ではなかった。
「ありがとう」彼は優しい声で言った。「ぜひフェルドとラセミスタにも伝えてほしい。あなた方の来訪と手助けに、みな本当に感謝している。……そして今も。マリアラ、あなたにとっては、目の前にいて死にかけている人間を救うのは当然のことなのかもしれない。だが忘れないでくれ。その治療の手とその心根が同居している存在は稀だ。自らを誇れ。大したことじゃないなどと言って自らを貶めるな。そうでなくば俺もマイも、ニーナもエルギン王もみな、あなたにとっては取るに足らぬ存在だということになる。全員が激怒するぞ」
せっかく振り払った涙がまたにじんでしまった。はい、頷くと、アルガスは困ったような顔をする。
「……この上さらにあなたを巻き込むのは気が引けるが。だが最後にまた、あなたのその腕と心根を利用させてもらいたい。この世にもう一つ、報われぬ悲しい命を生み出す……人魚の理に反する、俺の願いは独善的で利己的だ。確かにそうだ。だが人魚はその願いをかなえる権利をくれた。その権利を放棄することは俺にはできない」
「ええ、もちろん……」
媛とミラ=アルテナは同じ人なのだと、マリアラはモーガン先生との会話の過程で悟った。現代のエスメラルダにおけるミラ=アルテナの、不自然なまでに固定されたイメージは、きっとその事実を隠すためなのだろう。
ミラ=アルテナは国中を歩き回って協力者を募り、同盟を作り上げた。国王派の人間は彼女の暗殺を謀っただろう。フランチェスカは先ほど彼女を『流れ星』と呼びその命を狙った。魔物からも兵からもその命を狙われる状況で、彼女がその責を全うできたのは、きっとこの人の功績でもある。
ならばその見返りくらい受け取ってもいいはずだ。人魚もそれを許した。独善的で身勝手だという、それは確かにそうなのかもしれないけれど。
「でもわたし、やり方がわかるかな。さっき、銀、の? 狼が、近くにいるとあの方は言っていたけれど」
「そうだな。近くにいる。マイが眠って、俺がここを離れれば、きっと出てくるはずだ。あの人にも礼と謝罪を伝えてほしい。俺の利己的な望みに巻き込んで済まないと」
「あの人は」
マリアラは周囲を見回した。
ウィナロフの姿は、相変わらずどこにも見えない。
「銀の狼……なの?」
「いや、違う。銀狼を知らないか。銀色の雄大な獣だ。人魚と対になる生き物だと聞いているが……あの人は銀狼と同じ能力を持っている。寿命が長い。果てしないほどに。だがもともとは、人間だ。心根も、人と変わらない」
「そっか……」
マリアラは、自分が、勘違いをしていたことを知った。
カルロスと名乗っていた校長は、自分が〈彼〉だと、いろいろな人に思い込ませようと画策している。その方がきっと都合が良いからだ。フェルドにもそうしたし、モーガン先生もその噂を聞いたと言っていた。たぶん、媛がルクルスを排斥するよう主張していた、ということにされていたのと同じく、箔をつけるために。
でも違った。〈彼〉は。
ひとりで——友人たちがみんな死んでしまった後も。狩人という身分を得て、エスメラルダのルクルスに密かに差し入れを続けて、モーガン先生のような、真実を手繰ろうとしている人たちの、支援をして。
雨の森に落ちた魔女を助けてみたり、吹雪に閉ざされた雪山で、リンに防水布を貸してみたり、モーガン先生を国外に逃がして、ラルフたちを育てて、懐かれて。
何とかエスメラルダの校長の力を削ごうと、密かに働き続けていたのだ。
――あの人は、今は……元気、なのかな。
「彼を頼む」
アルガスが言った。切実な言い方だった。千年、と、マリアラは考えた。この人たちは、自分たちが彼を置き去りに死んだあと、彼がどのように生きるのか、何年、ひとりで頑張っているのか、元気でやっているのか、幸せなのかどうか。本当に胸を痛めるほどに、案じているのだ。
「何とか……あの人がへそを曲げないで済むように、歩み寄ろうと思います」
そう言うとアルガスは笑った。そうしてやってくれ、と言いながら、離れていこうとする。
マリアラはその背に囁いた。
「でも、出てくるかな」
「来る」当然だというようにアルガスは笑った。「底抜けのお人よしだと言っただろう」




