王宮地下(8)
時間は、そろそろ丑三つ時という頃だろうか。
マリアラが空島に住んでいる七匹の猫の話をしているとき、いまだにガスという愛称 (たぶん)しか知らない彼が、呟くように言った。
「近いようだ」
言われてマリアラは、周囲を見回した。今までと、それほど変わっていないような気がするけれど。
「水音が変わった。湧き水の音がしてる」
そう言われてもさっぱり分からなかった。少女の方も同じくわからないようだったが、彼女にとっては、自分よりガスの方が感覚が鋭いというのは既に当然のことになっているようで、疑いもせずに荷車の上を片付け始める。
そこからさらに5分ほど進んだ時、マリアラにもようやく、こぽこぽという音が聞こえ始めた。ハイデンのことを思い出した。夜の森の中で、ラルフがやって来る音にマリアラよりずっと早く気づいた。ラルフは、そのハイデンよりもずっと感覚が鋭敏のようだった。
もしここにラルフがいたら、ガスと同じ段階で、この水音の変化に気づいたのだろうか。
音は次第に増えていった。
それに応じて、周囲が少しずつ見え始めた。
「わ、綺麗……」
マリアラも少女も荷車の上で腰を浮かせた。岩の中に、青く光る部分が混じり始めていた。進むうちにその青い部分は少しずつ増え、それに応じて辺りは明るくなっていく。
緩やかに進む荷車は、程なく、川の終点にたどり着いた。そこは淡い光に照らし出された池だった。池のそこここから水が湧き出していた。噴水の出力がごく弱まった時のように、水面が盛り上がっている。池の中央に一際青く光る岩の塊が頭を出している。
そこは音に溢れていた。さらさらちょろちょろこぽこぽしゅわしゅわ、水が湧き、戯れ合い、歌い、踊っていた。時折泉から水が跳ね、しゃらしゃらと水面に散った。幼年組の小さな子供達が、はしゃいでお互いにじゃれあっている姿を思い出す。湧き出した水の子供たちは泉でしばらく戯れてから、手を取り合うように喜び勇んで川となって流れ出ていく。それを照らし出すのは、地面や頭上の壁、天井の放つ淡光だ。
夢のような光景だった。
「この……光ってるのが、〈人魚の骨〉でいいのかな」
そういって彼女はぽんと荷車から飛び降りた。もはやへとへとのマリアラよりずっと、元気で快活な動きだった。ガスがゆっくりと訊ねた。
「なにか、光っているか?」
彼にはどうやらこの青く淡い光が見えないらしいとマリアラはぼんやり思う。
彼の持つ光珠がなかったら、もしかして彼には何も見えないのかもしれない。ということは、もしかしてこの光は、魔力を持たない人には見えないのだろうか。ハイデンやラルフは、ここへ来たらどう見えるのだろう。
「うん」
彼女には別に不思議なことではないらしい。彼はやはりルクルスなのだ――そして彼女も彼も、それを知っていて、特に不思議に思ったり気を遣ったりする様子もない。
彼女たちの住んでいる場所では、ルクルスが隔離されたり差別されたりしていないのだ。
マリアラはゆっくりと荷車から降りた。少し離れた場所にある、ひと抱えほどもある大きな石に歩み寄った。大きいけれど、思っていたより重くない。目の奥に染みるような柔らかな光を放っていた。まるで誘うかのよう。マリアラは目を細めてそれを抱え上げた。
「これ、どうですか」
言いながら彼らの方に向き直ったとき――
今まではしゃぎ回っていた水たちが、いっせいに歓喜の声をあげた。
しゃわしゃわしゃらしゃら――と水音が周囲にあふれた。マリアラは目を見張った。水ばかりでなく石も輝いた。泉の水面が沸騰したかのように沸き返って、その人影を迎えた。
彼女とガスの奥にある泉の中央、青く光る岩の上に、いつの間にか人魚が姿を見せていた。
女王のような気品と威厳を湛え、彼女は今、濡れた髪を体に絡み付かせながら裸の上半身を岩の上に出したところだった。水たちは歓喜の声をあげて彼女を迎えていたが、彼女が左手をあげると一瞬で鎮まった。女王にかしずく小姓たちのようだった。押さえ切れない喜びに時折ぱしゃんぽしょんと飛沫が上がるが、それを除いては、今までずっと聞いてきた、湧き水と川のせせらぎの音だけになった。
「――人か。我らが城にぶしつけに上がり込んで、いったい何をしに来やった」
冷たい声だった。人魚だ、とマリアラは考えた。
まろやかな体つき、美しい顔。その人魚は少し、ミランダに似ている。柔和で優しげな顔立ちだった。
「海の女王。お邪魔をして申し訳ありません。〈人魚の骨〉を分けていただきに参りました」
彼女はそういって、左手を閃かせた。
ひらひらと、何か、舞の動きのようだった。人魚はその動きをじっと見た後、すっと目をそらして、ガスに目を留めた。
しばらく見つめて、ややして、微笑んだ。
「〈人魚の骨〉を取りに来たと言いやったか。ずいぶん不躾な物言いじゃこと。こないだ逃した男の代わりを連れてきたのではないのかえ」
「逃した男――の、代わり?」
「カルロスの失態じゃ」人魚は冷たく言う。「海に落ちた男を逃したのは、そなたらの世に属する二本足じゃろう。代わりの男が見つかるまで散々待たせておきながら、言うにこと欠いて〈人魚の骨〉をよこせじゃと?」
「カルロス――とは?」
彼女が訊ねる。マリアラは身じろぎをした。カルロス――と言うのは、半年以上前に背任行為で国外追放となった、前代の校長の名前ではなかったか。
ゾッと背筋が凍る。海に落ちた男、それを逃した二本足。それは、シグルドと、それを助けたミランダのことではないのだろうか。
マリアラは一歩前に出ようとした。
「あの。この人たちは関係」
「うるさい」
冷たい声と共にマリアラは目を丸くした。声が、出ない。
人魚はささやいた。
「そなたのような歪な二本足が口を挟むでない。先ほど魔物もでたようじゃし」ちらりと視線が動いた。「まあ――しかし、まあ、代わりがその男ならば否やはない。〈人魚の骨〉もひとつくれてやろう、その男をおいて、とっとと消えるが良い」
「お待ちください」ひらひらとまた彼女の左手が閃いた。「誤解があるようです。この人は私の伴侶です。罪人ではない。あなた方の供物に差し上げるわけには参りません」
「ならば〈人魚の骨〉もいらぬと言うわけじゃな」
ふ、と。
マリアラの持っていた、人の頭ほどの大きさの石が、その光を失った。
マリアラは声を上げようとして、やはり声はでなかった。今まで周囲で光り輝いていた岩や石が、すべてその光を消していた。今では彼の持っている光珠と、人魚のいる泉だけが光っている。
ガスはともかく、少女には、事態がわかったはずだ。しかし彼女は何も言わない。その表情は、薄闇におおわれて見えなかった。
人魚は緩やかな動きで、岩の上に体を持ち上げた。下半身も現れると、その肢体はまるで芸術作品のようだった。マリアラは憤りを感じる。どうしてこんな理不尽で意地悪なふるまいをする存在が、ここまで美しいのだろう。
あまりの美しさに眩暈がしそうだった。マリアラは、人魚を見たのは初めてだ。半人半魚と言われていたが、その表現は適切ではない。彼女たちが人間に似ているのではなく、人間の方が彼女たちを模倣したのだ。そして人魚が魚の尾鰭を持っているのではなく、魚の方が、人魚の尾鰭を模したに違いない。
そのあまりに美しい存在は、あまりに冷たい声で言った。
「そなたたちは儂らに謝罪をするべきじゃろう。儀式の最中にその贄を奪って逃げた――儂らを愚弄する行為じゃった。儂らに礼儀を示すつもりがあるならば、盗んだ二本足を罰し、その男を連れ戻すべきじゃった。そうできぬなら別の男をよこすべきじゃった。なのに今日まで音沙汰がなく、ようやく男を連れてきたと思うたら、言うにこと欠いて〈人魚の骨〉をよこせじゃと。その上その男は贄にできぬじゃと。伴侶じゃと? 儂らの前でよくぞ申した、ならばなぜその男を儂らが前に連れてきた。見せびらかしにきたのか!」
マリアラは呆気に取られていた。
相変わらず声は出ない、が、それにしてもこの人魚の発言はおかしくないだろうか。外見の美しさと裏腹に、あまりに理不尽で傍若無人な言い草だ。
少女はじっと人魚を見ていた。彼女の様子からは、人魚への怒りも嫌悪も感じられなかった。彼女はあくまで丁寧で、冷静で。人魚への礼儀を忘れなかった。
「まず、カルロスという人を私たちは知りません。あなた方の大切な儀式のさなかに贄を逃がした『二本足』という存在についても、心当たりがありません。ですが確かに、あなたのお言葉にも一理あります。対価もなしにあなた方の大切な宝を分けていただくのは不躾なふるまい、そうおっしゃるのは当然のこと。説明をさせてください。私たちはあなた方へ供物を持ってまいりました」
「供物など。男をよこせ。その男が良い、それ以外はいらぬ」
「そうおっしゃらず。私が今日まで命をつないでこられたのは、人魚のみ手のお陰ですから」
そう言って彼女は荷車から小さなリュックを下ろした。今までも、たくさんの美味しい食べ物やふかふかの毛布などが次々に飛び出したそれは、本当に良く使い込まれていた。革でできている。本物の革だ。縫製も、熟練の職人がすべて手で施したに違いない、精密なものだ。小さいけれど頑丈で、防水処理なども施されているのがわかる。先ほど手の甲に触れた時、その手触りに驚いた。使い込まれた革とはこんな風に、とろけるような手触りになるのかと。
その上質なリュックから、彼女は次々に様々なものを取り出した。まず出てきたのは、小さな折り畳み式のテーブルだ。ぱちんぱちんと足を組み立ててから、元の大きさに戻すと、かなり広々とした天板を持っていた。赤い豪奢なビロードの布を敷き、その上に、まず一つ目の包みを置いた。
人魚は『それ以外はいらぬ』と言ったのに、吸い寄せられるようにこちらに近づいてきていた。さすがに池から上がってくることはなかったが、池の岸までやってきた。
少女はまず、一つ目の包みを開いて見せた。包まれていたのは小ぶりの、つやつやした陶器の入れ物。元の大きさに戻され、中から出てきたのは、素晴らしい焼き菓子の数々だ。
美しい白磁の皿を置き、その上に、まず黄金色のケーキを載せた。
「牛の乳を発酵させて作った酪をたっぷり使い、練って、こんがり焼いたものです」
チーズケーキだ。一口大に切り分けられたそれは、まるで宝石みたいにキラキラ光っていた。とてもいい匂いがして、マリアラは思わずそちらに数歩、近寄った。人魚も興を引かれたようで、身を乗り出している。
彼女は一つを半分に切り分けて、一つをパクリと食べて見せた。人魚が、身震いをした。
「焼いた……と申したか?」
「ええ、石窯で。この下の生地をサクサクの食感にするために、時間を計って、適切な温度と時間、慎重に熱を入れるんですって。私の知る限り最高の料理人が腕を振るいました。マリアラ、良かったら味見して?」
人魚が半信半疑のようだから、マリアラにも食べさせた方が良いと判断したのだろう。マリアラは彼女の横へ行って、一口もらった。そして、目を見開いた。美味しい!
今までの人生で食べてきたチーズケーキを、もっと素朴にし、もっと濃厚にし、もっともっと味を際立たせたなら、こうなるだろうか。あんまりびっくりして、目の前に火花が散った。コオミ屋のチーズケーキの記憶が塗り替えられ、思わずしりもちをつく。声はやはり出せなかったが、もし出せていたら悲鳴が出ただろう。
使われている玉子と牛乳の格が違うのではないだろうか。
マリアラの反応を見て人魚は、さらに身を乗り出した。少女が並べたチーズケーキは三切れ。その隣に今度は真っ赤なジャムがふんだんに練り込まれた焼き菓子が四つ出てきた。そのうちの一つをまた彼女は半分に切って、一つをガスにあげ、もう一つをまたマリアラにくれた。食べた瞬間に涙がにじんだ。酸っぱいジャムはおそらくラズベリーだろう。甘い生地と酸っぱいジャムが口の中で魅惑的に融合し、マリアラは両手で顔を覆った。なんてものを食べさせるのだ。冗談じゃない。
「これは木の実を砂糖と一緒にぐつぐつ煮たものを入れて焼き固めてあるんです」彼女は言いながら芸術的にそのケーキを盛りつけた。「人魚の皆さまにはきっとつまらないものでしょうが、私の知る限り、人間が用意できるものの中で最も素晴らしいものの一つです。まだあります、今度は新鮮な柑橘の実を載せた甘い菓子なんですが、」
次に出てきたのは、親指と人差し指で作った輪くらいの大きさの、ごく可愛らしいタルトだった。見るからにサクサクのタルトの中に、甘いクリーム、それから甘皮をむいて透明なジュレ? のようなもので周囲を覆った、オレンジとグレープフルーツを刻んだものが宝石みたいにちりばめられていた。彼女がそれを当然のように割ろうとしたので、人魚はついに叫んだ。
「やめぬか! えい、どれ、そなたは礼儀を知っておるようじゃしの、毒見はもはや不要じゃ」
お寄こし、と人魚がいい、見事な肢体をくねらせて上がってきた。岸辺に横ざまに腰かけた人魚のもとへ、少女はしずしずとその台を運んで行った。




