王宮地下(3)
午後いっぱい、無言で歩いた。ウィナロフのもつ明かりの届く範囲ギリギリをついていきながら、マリアラはずっと、考え込んでいた。さらさらと水が流れている。足元はごろごろした岩が時折転がっているが、それほど歩きにくくはなかった。先へ行くウィナロフの背中が小さく見える。
少し、不思議に思った。
以前、フェルドと同じくらいの身長だと、思わなかっただろうか。
ウィナロフの持つ明かり以外には光が全くなく、何時なのかも見当がつかない。歩き疲れて、またお腹がすいて来ても、ウィナロフは歩みを止めなかった。一度も振り返らなかった。見捨てられたような、寄る辺ない気持ちになった。歩きながら少しずつ治したが、明かりが充分じゃないので、体はまだまだ痛かった。いつまで歩くのだろう。疲労もちゃんと癒えていないのに。泣き言を言いたくなって来たころ、ウィナロフはようやく足を止めた。
「今日はこの辺にしとくか」
その言い方が、いつもどおりに戻っていたので、ほっとした。
「うん」
そして。
わたしは怒っているはずなのに、と、理不尽さを感じた。
なんだか逆に怒られた気がする。こういうの、逆ギレ、というのではないだろうか。ラセミスタにケガをさせ、その上説明も何もせずに無理やり――別の生き物に乗り移らせるという手段を取ってまで――連れ出しておいて、ちゃんと説明もせずにこんな場所に引きずり込んでおいて、怒ろうとしたら逆に怒られるなんて、なんだか本当に理不尽だ。
でもウィナロフは、態度や口調や言葉はともあれ、やはり親切な人だった。
マリアラの分もちゃんと寝袋を用意していたし、食べ物もふんだんにあったし、甘いものも用意していた。飲み物もいろんな種類のものがあった(でも、アナカルディアの地下水は、そのまま、もしくは沸騰させて飲むのが一番美味しかった)。無理やり連れてきた以上は、できるだけ居心地のいい状態を保とうとしてくれているのは明らかだった。
食事が済み、温かいお湯を飲んだ。光珠を増やしてくれたので、身体の不調をだいたい整えることが出来た。出奔のために荷造りをした荷物があったから、身支度もできた。そのための、歯ブラシやタオルといった細々したものがあったのは本当に幸運だった。マリアラがガルシアへ持って行ったもののうち、ここにないのは箒と巾着袋だけだ。巾着袋があれば、ハウスもあるし、発熱毛布も寝袋も、何より薬もあったのに――と思ったが、ウィナロフはどうやら、わざと置いてきたようだった。
「箒もだけどね。巾着袋の中には、いろんな魔法道具が入ってるんだろ。――エスメラルダで、居場所を把握するための道具が入ってないとも限らないじゃないか」
「そんなのあったかなあ……? ああ、でも……そういえば」
【夜】に向けて【穴】が空いたとき、〈アスタ〉からの呼び出し音が巾着袋の中から響いていた。あれから半年以上経っている。あの装置に、今頃は居場所を示す回路が組み込まれていても不思議じゃない。
何しろ校長は、実は交替していなかったそうなのだし。
そう言いかけた、時だった。
ウィナロフが、顔を上げた。
一気に緊迫した空気になって、マリアラも腰を浮かせかけた。ウィナロフはひどく険しい顔をして、来た道を睨んでいた。マリアラもそちらを見て、驚いた。
ゆらゆらと、明かりが近づいてくる。
「誰だ? ここに入れるなんて……今代の【鍵】か、それとも……」
ウィナロフが呟いて、光珠を消した。相手の方からも、こちらの光が見えていたはずだ。でも気にする様子もなく、少しずつ少しずつ、近づいてくる。ウィナロフは手早く荷物をまとめた。マリアラも寝袋を一応丸めて、縮めてポケットに入れた。地面に置かれているものは、今では何もない。
そして、ウィナロフは立ち上がった。
マリアラも立った。明かりはだいぶ大きくなっていた。ゆらり、ゆらりと揺れているのは、足を一歩一歩踏みしめるようにして歩いているからのようだ。ゆっくりとした、しかし着実な歩き方だった。
姿が少し見えるようになってきた。不思議な形だと、マリアラは考えた。
大柄な人らしい。うつむき加減にしているが、背中が盛り上がっている、ように見える。何か荷物を背負っている。肩に黒い、布のようなものがかかっている――とそこまで見て取ったとき、ウィナロフが息を呑んだ。じゃり、と足下で音が鳴った。後ずさったような音だ、とマリアラは思った。
そして、ウィナロフが消えた。
「……え、」
マリアラは思わず間抜けな声を上げた。ウィナロフは、信じられないほど素早い動きで走り出した。逃げ出したのだと、それも、死にものぐるいで、全速力でそこから逃げ出したのだと思ってしまうような走り方だった。あっという間にその背は暗闇に紛れて消えた。マリアラは、呆気に取られてそれを見送った。
――はぐれるな、とか、言わなかったっけ?
もしかして、危険なのだろうか? そんな逃げ方だった。恐ろしい強大な敵に遭遇して、恥も外聞もなく命からがら逃げ出したかのような、そんな走り方だった。
でも、と、思わずにはいられなかった。
――置いて行かれてしまった。
――エルカテルミナだから死なれちゃ困るとか、言ってなかった……?
追いかけるべきだろうか。
でも、今さら追いつけるとも思えなかった。それに、正直なところなぜ逃げなければならないのかもわからなかった。当の『恐ろしい敵』は、実際それほど恐ろしい相手には見えなかった。また少し近づいているので、その姿がだいぶよく見えるようになっていた。その人は、確かに背は高いが、太っているわけではなく、大きなリュックを自分の身体の前に回して運んでいる。背中に人をひとり、背負っている。肩からリュックの上に垂れ下がっている、黒い布のようなものは、背負われている人の髪の毛だ。ゆらりゆらりと揺れているのは、網に入れて、リュックの前面に結わえ付けられた光珠だ。暗闇の中にゆらん、ゆらんと光が揺れて、なんだか酔いそうになる。
もう少し近づいた。後ろ腰に、棒のようなものを結わえているのが見えた。
――あれってもしかして、剣、ではないだろうか。
そう、『過去』で、マスタードラやヴェガスタやフィガスタが持っていたのと同じような。
マリアラはウィナロフの消えた方をもう一度見たが、諦めて、見知らぬ人の方に向き直った。
マリアラのいる方は暗い。ウィナロフが、光珠を持って行ってしまった。
その人が足を止めた。光珠の揺らめきも止まった。マリアラは少し待ち、相手が何も言わないので、こちらから声をかけた。
「あの。……こんにちは。あ、ええと、こんばんは? あなたは、どなたですか?」
その人は少し考えた。
それから近づいてきた。マリアラは害意がないことを示すために両手を少し上げた。
「お訊ねします。……ここはどこでしょうか。わたし、道に迷ってしまって、て……」
近づいてくると、その人は、本当に背が高かった。フェルドよりもう少し高い。ダニエルよりは少し低い、という程度。
光に照らし出されたその人は、肌が浅黒く、背が高く、整った外見ではあったが目が鋭く、近寄りがたい風貌だった。瞳が藍色で、キラキラ光っていた。
しかし外見だけで闇雲に恐れるべきではないことはもうわかっている。この人の厳しい雰囲気は、シグルドや、南大島で会ったハイデンを思わせる。二人とも、話してみたらとても親切だった。
背負われている人は、どうやら女性、というか、少女だ。マリアラと同い年くらいではないだろうか。小柄で華奢で、意識がないらしい。とても痩せて、手の甲の血管がくっきりと見えている。痩せすぎだ。とても具合が悪そうで、魔女としての本能がむずむずする。
マリアラはもう一度咳払いをした。
「あの。その方、どうなさったんですか」
言った瞬間、出張医療の時のことが頭をよぎった。帰すな、引きずり降ろせと叫んでいたのは、狩人じゃない普通の人たちだった。何よりここはアナカルディアで、狩人の本拠地である。こんな場所で出会った人に自らの素性を明かして良いのかと、一瞬迷った。
でも意識をなくすほどに具合が悪い人を前にして、黙っているなんてできない。マリアラは左手を胸にあて、軽く身をかがめた。
「わたし、マリアラ=ラクエル・マヌエルと言います。良かったら、その人を診せてください」
男の人が目を見開いた。
その時だった。
「!」
いきなり空気が変わった。何も聞こえなかったが、心をざわつかせる不穏な風が吹いた。
男性の背中で意識を失っているようだった少女が、はっと顔を上げた。




