列車の中
ごっとん、と揺れて、目が覚めた。何か聞こえたような気がしたが、内容までは分からなかった。
目が覚めたとき、手を伸ばして十徳ナイフを触るのは、とっくに癖になっていた。
今もそうしてみて――マリアラは、手の触れる場所に十徳ナイフがないことに戦慄した。跳ね起きて、寝台に手をついた、つもりだった。でも寝台の柔らかな感触はどこにもなく、当たったのは籐細工のような隙間の空いた感触であり、おまけに、
手がなかった。
ばさっ、と音が鳴った。
「か――」
驚きの声を上げてから、両手で口を押さえた。いや、両の翼で嘴を押さえた、という表現が、客観的に見れば正しいらしかった。
マリアラは鴉になっていた。
「かあああああ――っ!」
あげた悲鳴もやはり、しわがれた鴉の声だった。飛び上がるとすぐに頭を籐細工にぶつけ、落ちたところもやはり籐細工であり、両手を広げるとすぐにばさっと音を立てて籐細工にぶつかった。周囲は何も見えなかった。今どうやら、自分は籐細工の鳥かごに入れられているようだ、と悟った時、マリアラは再び悲鳴を上げた。
「かあああああああっ!」
「うるせえよ」
と、誰か知らない声が言った。それに答えた声は、聞き覚えのある声だった。
「すみません。睡眠薬が切れたみたいで」
「変な奴だなあ。何で鴉なんか連れてるんだ。アナカルディアにも鴉くらいいるだろう」
「まあねえ、鴉なんてみんな同じだろって俺も思うんですけど。姪が言うには、この鴉じゃないとダメなんですって」
この声、誰だっけ。
混乱しながらもマリアラは暴れ続けていた。事態がさっぱりわからなくて、パニックを起こしかけていた。ラセミスタを助けに行ったのは夢だったのだろうか。ラセミスタを助けることが出来たと思ったのは、では、間違いだったのだろうか? ラセミスタは今もまだ死にかけていて、マリアラの到着を今か今かと待っているのでは? 一睡もしていなかったと思っているのは自分だけで、本当はどこかで眠っているのだろうか? 今すぐ起きなければ!!!
「かああああああああああっ!!!」
「……いやどうも、申し訳ないです」
聞き覚えのある声が周囲に断って、鳥かごが浮いた。ゆらり、ゆらりと動いた。どうやら歩いて運ばれているらしい。誰の声だったっけ、と思っていると、がたんと大きな音がして、さっとさわやかな空気が吹き込んだ。鳥籠の外側を覆う布が揺れて、外の景色がちらりと見えた。――緑。
「うるさいんだけど」
聞き覚えのある声がそう言った。
覆いは取られなかった。辺りは明るい。朝の匂いがしていた。朝露を含んだ草の匂い、さわやかな風の匂い。
その抑えた声を聞いて、マリアラは、ようやく、その声の持ち主に思い至った。ウィナロフ、と言ったつもりだったのに、やはりその声はかあああ、というしわがれた鴉の鳴き声だった。だが、ウィナロフには、通じたようだった。覆いの向こうで、彼はため息をついた。
「あーでも、目が覚めて良かった。まさか四日も寝るとは。さすがに心配になってきてたんだ。鴉の方は途中で勝手に水飲んだり食べたりしてたけど……ああ、でも、腹減ってるだろ」
そう言われて、マリアラは、パニックの原因のひとつに思い至った。飢え死にしそうなほどにお腹がすいている。覆いが少し開いて、籠の隙間から、いい匂いのする何かが差し込まれた。食べる気はなかった。もうすこし事情がわかるまで、のんきに食事なんかできるわけがない。だが、気がつくと身体が勝手に動いて、その食べ物をついばんでいた。
パンだった。とても美味しい。
ウィナロフの意図がどうあれ、少なくともマリアラを飢え死にさせる気はないようだった。パンに続いて、ソーセージが入れられた。身体が勝手に食べる間に練り粉も用意していた。そのねばねばした固まりを身体ががつがつと詰め込んでいると、水まで用意してくれているようだ。こぽこぽと水が入れ物に注がれた音がした。
「籠、開けるけど、逃げるなよ。言っとくけど」
逃げ――
マリアラはそれで、身体の制御を取り戻した。
逃げるに決まってるでしょう! と叫んだ。いったい何なんだ、なんで鳥かごに入れられなければならないのか、おまけになんでそもそもいったいぜんたい鴉なのだ! などとかあかあ喚いていたら、ウィナロフにはやはり全て通じた。
「ガルシアからあんたを連れ出すのに、人間のまま抱えて出るのは無理だったから、ヘスの麻薬飲ませて、精神だけ鴉に乗り移らせて、身体の方は縮めて運んできたんだ」
マリアラは絶句した。
そして叫んだ。
(何てことするの! 人の身体をもの扱いするなんて……!)
「悪いとは思った」
(じゃあなんでやるの!?)
「のっぴきならない理由があって」
(そりゃそうでしょ!? そうじゃなかったら殴ってやる! そもそもなんであなたと一緒にいるの!? ラスは!? ラセミスタは!? わたし行かなきゃ、ラスが……!)
ウィナロフは、素早い動作で扉を開け、水の入った器をいれてすぐに閉めた。それから穏やかな口調で言った。
「無理もないけど、ちょっと落ち着いて。まず、ラセミスタを治療したのは夢じゃないよ。あんたはちゃんと間に合って、あの子はすっかり元気になった。まさか三日病にまで罹るとは思わなくて焦ったけど、あの短時間で脳症もちゃんと完治させてたみたいだよな。さすが」
褒められたようだ。
「左腕の方は……申し訳なかったけど……まさかあんなことするとは思わなかったんだ」
(申しわけないで済むかあああああ……っ)
「仕方なかった。ああするしかなかったんだ。ああでもしなきゃ……」
ウィナロフが言いかけたときだ。ぴりりりりりりりり、と明るい音が鳴った。続いて、ぷしゅー、がたん、と鳴った。列車の扉が、閉まる音だ。
『発車します』
ごっとん、と地面が揺れた。
『次の停車駅は、リファスです。八時五十分の到着予定です。どうぞごゆっくりおくつろぎください』
(……リファス?)
信じられない地名を聞いた。リファスって、アナカルシスの、リファス、だろうか?
そのうえ、ウィナロフは、話を切り上げようとした。
「とにかく……もう少しだからおとなしくしててくれ」
(まっ、待って!? なんでリファス!? ガルシアにいたはずなのに、なんで!?)
「列車に乗って帰ってきてるんだよ」
(いやだって、でもっ! あれ、あれえ!? 箒なしだと十日かかるとか……わたし十日も寝てたの!?)
「いや、だから四日だって。ああ、そっか。いやこれはケガの功名だったんだ。……ガルシアの宰相が怖すぎて……」
ウィナロフは覆いの向こうで、身を震わせたようだった。
「どうなってんだあの国……国王と宰相と校長の団結力がすごすぎて……逃げても逃げても追い詰められて」ウィナロフはもう一度身震いをしたようだ。「しばらく行けない……夢に見そうだ……」
(……どういうこと)
「ほら、俺、あんたをさらって逃げた極悪人ってことになってるからさ」
(……さっ!?)マリアラは両翼を頭に当てた。(さらわれたのわたし!?)
「んーまあ、客観的にみればそういうことに」
(なんでええ!?)
「まあしょうがない。病室に忍び込んでかつぎ出して来たからなあ」
(や、聞いてるのはそこじゃなくて!)
「あの捜査力はほんとに怖いよ……兵の目の前で消えて見せれば普通諦めるじゃないか……なのになんでか見つかるし。逃げても逃げても見つかるし。ついに捕まりそうになったんで、仕方なく裏道使ったんだよ。で、出てみたらラク・ルダだったんだ。かなり時間の節約になった。ほんとにケガの功名だった。あー怖かった」
どんどん頭が混乱していく。自分が何を疑問に思っているのかさえ分からなくなりそうだ。頭を整理しなければ、と思っていると、ウィナロフが言った。
「とにかく、中に戻るよ。あんたは今は、鴉なんだ。あんたの声は他の人には鴉の鳴き声にしか聞こえないから、あんまりわめくと絞め殺せって話になりかねないから気をつけた方がいいよ」
(え、待ってよ! ちょっと! ここなら話ができるんでしょう!? 説明してよー!)
「寒いんだよここ。吹きっさらしだから。あんたは羽毛があるからいいけどさ」
(上着着ればいいでしょう!? ねえちょっと! わたしの体、どうなってるの!? 返して! 四日って……水くらい飲まなきゃ死んじゃう!)
「大丈夫。小さく縮めておくと、どうやら時間の流れが遅くなるらしいんだ。そりゃ何年も放っておいたら危険だと思うけど、四日くらいなら心配ない。体にとっては半日過ぎたかどうかってくらいだ。大昔の貴族のご婦人の話、聞いたことないか? 普段は猫に乗り移って生活して、体を縮めておいて、老化を遅らせようとした、頭の空っぽなご婦人の話。晩餐会でだけ自分の体に戻って、何年何年も若いまま、社交界の話題を独占したんだけど、さすがに体調崩して」
(崩すんじゃない! やっぱり体調崩すんじゃない!)
「そんな無茶をすればって話だよ。うーん、そうか、例が適切じゃなかったな」
(心配なの! 返して!)
「今はそうはいかないんだよ。アナカルディアで降りるんだ。狩人の本拠地に行くんだから、魔女つれていったら面倒だろ。あんたのことはエスメラルダでも血眼になって捜してるだろうし」
(アナカルディア!? アナカルディアに行くの!? ラクエルだから本拠地で魔力奪うつもりなの!? でもなんでいまさら!?)
「そりゃほんとにいまさらだな……あのなあ、狩人として魔力を奪うつもりなら、ガルシアで寝てる時にやってるだろ。だいたい俺、銃は身分証代わりにもってただけで撃ったことない。元の大きさに戻すだけで頭痛がするんだ、撃ったりしたらこっちが匂いでやられる。で……王宮に行くんじゃない。その地下に用がある」
(それってわたしもいかなきゃだめなの!?)
ウィナロフは呆れたようだった。
「そりゃそうだろ……じゃなきゃわざわざ鴉に乗り移らせて、あの怖い宰相に追い回されてまで、連れてきたりしないだろ」
(どうして……)
呟いたが、ウィナロフはもうさっさと列車の中に戻ってしまった。暖かな空気に包まれて、ウィナロフは息をついて、マリアラに言った。
「静かにしてるように。自分の体に戻れない状態で意識が入った体を絞め殺されたら死ぬからね」
(……どうして……?)
答えはなかった。ゆっくり歩いて、座席へ戻ったようだった。マリアラはため息をついた。何がなんだか分からない。
事態を整理する必要がある、と考えた。
とにかく、ラセミスタが治ったのは夢ではないらしい。寝る前のことは、あんまり疲れていてよく覚えていないのだが、マリアラが寝かせてもらったのは、ラセミスタの向かいにある寝台だったはずだ。ふたりの間に置かれたサイドテーブルの上に〈アスタ〉が設置されていて、その向こうに、フェルドとララがいたのは覚えている。
――待っててくれるか? 時間はかかっても、なんとかして……
ガルシアで、待っていようと思っていたのに。
あそこにいたのは、暖かな人たちだった。ラセミスタの同級生もみんな親切そうだったし、アーミナも、校長先生も、ラルフもいたし、エルザという人は本当に、母親のような暖かさだった。あそこで、医局に置いてもらえればと思っていた。あそこなら危険なことなど何もなく、待っていられると思っていた。
回復したラセミスタは、もちろんちゃんとしたラセミスタだったけれど、半年前とはやはり、少しだけ違っていた。記憶より、なんだか綺麗になっていた気がする。髪を切って、外見は少年じみていたが、でも、なんだか。
とても大人びた、柔らかな表情をしていた。
その話も、起きたらできると思っていたのに。
左手を失って、どんな気持ちでいるだろうと思っていたが、少なくともうわべは、あまり気にしていないように見えた。マリアラとフェルドが気にするだろうと思ってそうふるまっていてくれたのかもしれないけれど……なんだかまぶしいほど、強くて綺麗に見えた。きっといろいろな経験をしたのだろう。それも全部、聞きたいと思っていたのに。
四日経った、とウィナロフは言った。箒を使わずにガルシアから離れようとしたら、四日間でどこまで行くのだろう。宰相という人が捜してくれているようだが、まさかもうリファスの近くまで来ているとは思わないだろう。
――そりゃそうだろ……じゃなきゃわざわざ鴉に乗り移らせて、あの怖い宰相に追い回されてまで、連れてきたりしないだろ。
それってどういうことだろう。王宮の地下へ、マリアラを連れて行くために、鴉に乗り移らせてまで連れ出したのだと、そういう意味にならないだろうか。いや、と、思い至ってマリアラは身を震わせた。
――ラセミスタを襲ってケガをさせたのは、まさか。
マリアラをおびき寄せるため、だったの、だろうか。
だっておかしい。病室に忍び込めたのなら、ラセミスタのことだってその気になれば連れ出せたはずだ。なのにわざわざマリアラだけを連れて出た。それは、そういうことにならないだろうか。
吐き気を感じた。わけがわからなさ過ぎて気分が悪い。いったい王宮地下へ何の用だろう。そこに何があるのだろう。どうしてわざわざ、こんな危険を冒して、魔力の弱い、出来損ないの、ただフェルドの足枷のためだけに相棒にあてがわれたマリアラなんかを、連れ出さなければならなかったのだろう。
フェルドはどうしているだろう。
マリアラが連れ出されたことを、犯人がウィナロフだということを、フェルドは知っているのだろうか。〈アスタ〉ならそれをフェルドに知らせないだろうという気がする。目撃していたら別だけれど。トールのこともある。フェルドは、あの男の命令でトールがマリアラを殺そうとしたことを知っている。その体がもとはヴィレスタのものであったらしいということも。危険ではないだろうか。大丈夫だろうか。グレゴリーはラセミスタの義手を作りにガルシアへ向かっているはずだ。フェルドの味方をして、〈アスタ〉の目を欺いてくれる人は誰もいない。
――でも、味方がいないわけじゃない。
――ヘイトス室長が味方だった。
それにガストンさんも。何よりリンがいる。
マリアラは翼を合わせて祈った。
どうか、フェルドが無事でいますようにと。
どうか、またすぐに、フェルドに会えますようにと。




