高等学校附属医局(4)
部屋を出ると、ベネットがちょうどやってくるところだった。必死で顔を洗ったらしく、なんだかぴかぴかしていた。エスメラルダの国家公務員や〈アスタ〉はいろいろと問題がありそうだったが、でも、このベネットという男は信頼できそうだとカルムは思う。ベネットはラルフを見ると、慌てて駆け寄って来た。
「ちょっと待っててくれ。〈アスタ〉設置したら寝かせに行くから」
ラルフは、ベネットにはラルフを保護する義務も義理もない、と言っていたが、ベネットにとってはそうではないらしい。ベネットは〈アスタ〉の常駐している小さな折りたたみ式の端末を起動させたまま、ラセミスタの病室に持って入った。ラセミスタと校長に何か言いながら設置している。その間、カルムは黙って待っていた。グスタフは付き合う気らしく立ち止まって、長々とあくびをした。こいつも気が抜けたらしい、とカルムは思った。
自分もだ。なんだか、ありえないほど眠い。
「悪い悪い。ありがとう」
ベネットはすぐに出てきた。〈アスタ〉を通じて、向こうの家族とラセミスタが会話をする、穏やかな声が聞こえてきていた。フェルドとも、今、話しているのだろうか。挨拶したかったが、あんまり眠くて、まあ今夜じゃなくてもいいだろう、と思った。まともに話もできそうもない。ベネットがラルフを受け取って、来た道を戻っていく。何となく一緒に歩きながら、ベネットは、ラセミスタがここに来ることになったきっかけや、ラルフとマリアラとフェルドの関係などについて、どれくらい知っているのだろうかと考えた。聞いたら、話してくれるのだろうか。
でも今は聞く時間も余裕も体力もなかった。ベネットはお休みと挨拶をして、ラルフを抱えて階段を上っていった。グスタフとカルムはそのまま外へ出た。カルムは自分が裸足だということをそこで思い出した。靴はあの池のほとりにおいて来てしまったが、取りに行くことは今夜は無理だ。先程見た銀月はもうすっかり傾いて、夜明けが近いことを知らせている。寝台が恋しかったが、まっすぐ戻るのもなんだか名残惜しい、そんな夜の匂いがする。
でも急いで帰らないと、途中で行き倒れそうだ。それほど眠い。どうしてだろうと、不思議に思った。グスタフやミンツならともかく、カルムは昨夜も徹夜というわけではないのに。
と。
周囲の闇にひそむ、いくつかの気配に遅れて気づいた。
一気に目が覚めた。足を止めると、グスタフが、数歩歩いてから怪訝そうに立ち止まった。一睡もしてなかったに違いないと、改めて確信した。今はもう気が抜けて、ほとんど眠っている状態に違いない。
「グスタフ。……誰かいる」
「何――」
「心配ない。近衛だ」
言った声は、父親の声だった。
父は医局の中にいたらしい。今ふたりが出たばかりの戸口から、ふたりを追うように顔を出したところだった。父はグスタフに、済まないね、と言った。
「疲れているところ申し訳ないが、君の意見を聞きたいのだ。カルム、おまえは寮に戻れ。おまえには用はない」
と言いつつ、指先がおまえも来いと言っているので、グスタフが医局の中に戻る後をぶらぶらとついて行った。父が向かったのは医局の、患者のいない病室だった。入りかけたグスタフがぎょっとしたように立ち止まった。中を覗くと、そこに国王陛下もいた。簡素な椅子に座ってくつろいだ様子で、ふたりに向けてひらひらと手を振った。全くこの人は、と、いつもながらカルムは思った。王様らしさということに全然重きを置かない人だ。
カーテンも閉まっている。ごく普通の病室だから、何か盗聴するための魔法道具も仕掛けられていないと判断したのか、父は屈託ない様子で振り返ると穏やかな声で言った。
「疲れているところ申し訳ないね。座ってくれないか。すぐ済ませるから」
「ラセミスタ君の命が救われて、本当によかった」
国王が言って、にっこり笑った。ふたりの視線を受けて、父が言った。
「危篤だと知らせを受けて、駆けつけたんだが……ここへ来てから、魔女が間に合ったと聞いたのでね。治療の邪魔をしてはいけないし、魔女もラセミスタ君も疲れているだろうから、挨拶はあしたにしようと思って、ここに隠れていたのだ。まったくフェイダの馬鹿者共ときたら使えないにもほどがある」
「カイルは近衛を増やした方がいいと主張するのだ。俺が通常つれて歩く程度の数では到底足りぬと」
国王が少し、からかうような声で言った。
「心配性は学生の頃からちっとも変わらぬ。増やすのは全く構わんのだが、近衛の責任者が逮捕されたばかりでもあるし、真夜中でもあるものだからね、お偉方を刺激しないためにも具体的な理由がほしいのだ。あと三時間もすれば夜明けだ。六時間もすれば増やすのに何の支障もなくなるのに、それを待てぬと言い張る」
「そこでグスタフ君、きみの意見を聞きたい」
父はグスタフの座っている目の前へ、自分の椅子を持って行った。
「あの陰謀を予見し阻止した慧眼のね」
「……いや、予見したわけじゃないんです」
グスタフは居心地悪そうに身じろぎをした。
「ただ……最悪の場合に備えようと……」
「それだ。エド」父は国王を振り返った。「今回も最悪の場合に備えるべきだと言っているのだ。狩人の動きはどうも解せん」
「グールドとかいう赤髪の男はとっくに逮捕されている。もうひとりはラセミスタ君を諦めて逃げたのだ。左腕がなければ、狩人にとっては……義手が作られればまた警戒せねばならんだろうが」
「しかしそれにしても解せん。あまりにも無計画だ。奴らはどうやってラセミスタ君を連れ出すつもりだったのだろう。どんなに捜しても、逃走用のマティスすら出て来ない。高等学校の真っ只中から、小柄な少女とは言え人ひとりを担いで逃げられると、本気で思っていたのだろうか? なにか不可思議な、ガルシアにはない技術を用いるつもりだったとしたらどうする。左手は残念だった、だが、ラセミスタ君の頭脳だけでもさらう価値は充分にあると思うが」
「……という話で、先程からにっちもさっちもいかんのだ」
国王は苦笑して、グスタフをのぞき込んだ。
「疲れているところ申し訳ないと思っている。だが意見を聞かせてくれぬか。今、起こり得る、我々の備えるべき最悪の場合というのはどういうものだろうか」
「どちらにせよ近衛は今増員しているのだ」と父が言った。「尻の軽い国王は真夜中の外出に十二人しか連れて来ないのだから呆れるよ。自分の立場をいったいどう思っているのだか、無鉄砲なところは昔からちっとも変わらない。とりあえず百人に増やした。もうじき到着する。この建物を目立たぬように、しかし厳重に警備するためにな。ラセミスタ君の病室を特に重点的に……まあ、部屋の中まで入れるのはやり過ぎだろう、護衛の対象が少女ふたりということでもあるし。こういうときのために女性の近衛兵を養成すべきだと以前から――いや、それは今言っても仕方がない。とにかく、廊下と窓の外へ水も漏らさぬ警備を敷けば大丈夫だと思うのだが。だがエドは、やってきた近衛のやる気を高める言い訳が必要だというのでね」
「……俺が今、一番最悪だと思うのは……」
グスタフが言った。少し目が覚めたようだった。
父と国王がグスタフを見て、グスタフは言いにくそうに言った。
「……ラスが囮だったという場合です」
「……囮……?」
「ラスがケガをしたら……」グスタフは目をこすった。「エスメラルダから魔女が来る……少なくとも俺はそう思ってた。実際、ケガを知ったらすぐに来た。狩人は魔女を殺すのが仕事だと聞いた。ふたりで飛んで来たとしたら……普通なら護衛役の魔女が体力と魔力を使って飛ぶはずだ……から、今頃は疲れきってる。治療役の魔女も治療を終えたらへとへとだ。今ならふたりとも、殺すのは簡単だ」
「ああ」父がうなずいた。「なるほど。それならわかる。狩人はもともとラセミスタ君をつれ去る気はなかった。命に関わるほどのケガをさせればそれで充分だった」
「いや、しかし……ガルシアの魔女が治療を拒否することまで、狩人に分かるだろうか?」
「推測はできるんじゃないか。ラセミスタ君がエスメラルダから『追い出された』という話は有名だ」
「しかし……そこまで手の込んだことをするだろうか」
戸口に誰かが立った。カルムが扉を開けると、そこにいたのは校長だった。校長は、懐から手紙を一通取り出して、中に入って来た。
「近衛が続々つめかけてきているようだが」
校長はそう言い、国王を見た。
「エドの指示とは思えん。カイルだね? 相変わらず、どちらが王だかわからんな」
「カイルは狩人の動きが不気味だと言う。それでグスタフ君の意見を聞いているところだ。グスタフ君は、ラセミスタ君が囮だったという可能性を指摘した。あのような技術を持った存在を単なる囮に使うとは、かなり大胆な発想だね。ラセミスタ君にケガを負わせ、エスメラルダから魔女を呼び寄せれば、その魔女を狩るのは簡単だとね……だがそうまでして魔女を狩りたいものだろうかね。その方法なら確かに魔女を狩れるだろうが、引き換えに仲間をひとり捕らえられている。代償が大きすぎはしないだろうか」
校長はしばらく考えていた。それから、手にした手紙を開いて、国王に渡した。
「エスメラルダの友人から、マリアラ嬢とフェルディナントという右巻きのマヌエルの保護を頼む手紙が来ている。どうやら彼女に連絡が取れたのは危ういところだったらしい。フェルディナントという彼女の相棒と、彼女は、この手紙を持って、もともとガルシアへ逃げて来ることになっていたようだね」
「なんだそれは。駆け落ちかね」
「そうじゃない。半年前の政変で、マリアラ嬢は、カルロスに命を狙われていたらしい。カルロスが極秘裏に支配者の地位に戻って来たら、再び彼女は狙われるだろう、だから、逃がすからガルシアで保護してやってくれという内容だ。危ないところだった。彼女たちがこの手紙のとおりに出奔していたら、ラセミスタの命がある間には、連絡が取れなかっただろうからね……」
ひとつうなずいて、校長は言った。
「もし狩人がこういった事情に少しでも通じていたら、ラセミスタを囮にしてマリアラ嬢とフェルディナント君をおびき寄せるということはありえそうだ。ラセミスタとマリアラ嬢が親友だということを知っていれば、ラセミスタがケガをしたら飛んで来るのは彼女だろうと予測もできる。どうやらフェルディナント君は普通の魔女ではないらしい。マリアラ嬢が命を狙われたのも、フェルディナント君の相棒だったから、という事情がありそうなのだ。狩人はフェルディナント君をおびき寄せたかったのかもしれない。それは失敗したわけだが」
校長は言って、もうひとつ頷いた。
「近衛に護衛をさせる価値はありそうだ。なにより彼女は私の学生の恩人だ。今後毎晩とはいかぬだろうが、疲労困憊で休んでいる間くらいは」
「わかった。そうしよう。だが相棒の方が狙いなら、一緒にこなかったのだし、彼女を狙って来そうもないとは思うがね」
国王はそう言って、立ち上がり、グスタフとカルムに微笑みかけた。
「出来る限りのことをしよう。マリアラ嬢はエスメラルダに急いで帰る必要はないわけだ。居場所が必要なら、ちょうどいい、ここの医局に迎えればいい話だ――こちらには願ってもない話だし、治療を拒否するような魔女を寄越していたという点で、あちらには負い目がある。既にたどりついていることでもあるし、拒むことはできまい。魔物が出たばかりでもあるし、ついでに相棒を寄越せと圧力もかけられる。エスメラルダで孤軍奮闘しているヴィディの友人も、少しは動きやすくなるだろう」
「ありがとう。助かった」
父が率直にグスタフに言い、グスタフは首を振った。国王は、自分で近衛に指示を出すつもりか、挨拶をすると急いで出て行った。まったく、誰が国王だか分からないとカルムも思った。
校長が言った。
「その様子では、カルム、グスタフにばらしたね」
「あー」カルムはあくびをした。「こいつだけじゃないです。ラスにもばらしました」
「だからリーリエンクローンとしての自覚が足りぬというのだ。私はいつも嘘八百を並べて叱責しているわけじゃないのだよ。あの機会に性根をたたき直したいと思っているのは本当のことだ」
父親がぶつくさ言って、グスタフが訊ねた。
「校長もご存じだったんですか」
校長は笑ってうなずいた。
「それはそうだとも。親しい人間はみな知っている。エドも、エルザもだ。まったく、カイルも気の毒な男でね」
「申し訳ありませんでした。知らないで、暴言を」
父は笑って手を振った。
「気にするな。またぜひ遊びに来てくれ。ラセミスタ君も、今度はマリアラ嬢も一緒に。リーダスタ君もだ。家の者みんな喜ぶだろう。料理長が悔やんでいた。いきなりのことでろくなもてなしもできなかったとね――ルクレツィアも悔しがっている。本当に地団駄を踏んで悔しがったよ。私だけが顔をみてずるいと言われた。いや、冗談ではなく、近々遊びに来てくれぬと噴火する。わが家の安寧のためにもぜひ頼みたい。全く二十歳になろうとする息子に対して、子煩悩なことだ」
それではと、挨拶をして父は出て行き、校長は笑いだした。
「やれやれ、自分を棚に上げてよく言うものだね。申し訳ない、疲れただろう。休んでくれ」
近衛がどやどやと廊下を走って行く。部屋を出ると、国王の指示によって、驚くほどの量の兵が、ラセミスタの病室前に集結するところだった。もし狩人が再びラセミスタを狙うとしても、彼女を囮にしておびき寄せたマリアラだけでもと殺しにくるとしても、今夜はふたりに近づくことさえできないだろう。そう思った。




