高等学校附属医局(2)
〈冷た、い、よぉ〉
ラセミスタが呻いて、ラルフが、ラセミスタの足を一生懸命こすりながら笑った。
〈よかった、もう大丈夫そうだね。もうさするのやめた方がいい?〉
〈もういいんじゃないかしら。それにしても、ミンスターの焼き菓子のジャムで溺れ死ぬってどういうこと?〉
アーミナ先生がそう言って笑い、ラルフが色めきたった。
〈なにそれ! 溺れ死にたいほど美味いジャムってどんな!?〉
〈私はここにきてもう長いのだけれど、ミンスターの産物はまだ食べられていないの。まだまだ知らない美味しいものがあるだなんて驚きだわ。ベネットはねえ、お休みの日には、首都ファーレン中に出かけて美味しいものを探し歩いているらしいわよ。ラルフ、落ち着いたら連れて行ってもらったら?〉
〈ええ〜行くならマリアラと行きたいなあ、おっさんと一緒ってさあ……〉
二人が話しているうちに、マリアラも少し、落ち着いてきたようだった。のそのそと顔を上げた彼女に、看護師がタオルを差し出している。それを顔に押し当てて、マリアラは呻いた。
「ごめんなさい……」
〈あら! どうして謝るんです? あなたのおかげでラスが助かったというのに〉
「泣いたりして。治療、中、なのに。冷静さを保たなきゃいけないのに……恥ずかしい……」
〈親しい人の治療なんですもの、どんな偉人だって取り乱して当然よ〉
「……魔女の言ってることだけわかるんだけど、なんでだろ。あの魔女も、エスメラルダの言葉で話してるわけだろ」
チャスクが不思議そうに呟いた。ウェルチが、確かに、と受ける。
「確かにそうだよな」
「魔力を使ってるからな」とカルムは言った。「魔法使うのとおんなじでさ。魔法ってのは、風とか水とかに、魔力を介して、自分の意志を伝えて、その通りに動かすってことなんだよ。ガルシアに派遣されてる魔女も、翻訳機とか使ってなくても普通に意思疎通ができたろ。自分の意志を相手に伝える、相手の意志を受け取る、そういうのを無意識にできちまうのが魔女……というか魔法を使える存在はみんなそう。……らしい」
最後の言葉を付け加えるのを危うく忘れるところだった。
ウェルチもチャスクも納得したようだった。なんでそんなことを知っているのか、などと追求されなかったことにホッとする。どうしてこんな話題に反応してしまったのだろう。寝不足で頭が麻痺しているようだ。
「つーことはさ」とリーダスタが言った。「あの……操獣法でさ。あの子が話、通じてるみたいに思えたのって、ガルシア語を知ってたわけじゃなくて、……魔力使ってたってことなのかな」
「あー……確かに」
そんな話を聞きながら、カルムは、ジェムズのことを考えた。退学するとリデルは言った。校長先生がさっき印を押したのだと。
ジェムズは、アナカルシスの人間だったのだろうか。確か、実家が印刷会社だと聞いたような気がするけれど。
狩人が国王陛下と校長先生を襲撃することをジェムズは知っていたのだろうか。
そしてラセミスタを拉致しようとしているということを。
事前に警告されていたら、ミンツだって、ラセミスタを一人で屋上に向かわせたりしなかったはずだ。そんな考えても仕方のないことを考えてしまう。マリアラが一睡もせず、ほとんど休まずに飛んできたからなんとか間に合ったけれど、そうでなかったらラセミスタは死んでいた。
引き止めないでやれとリデルが言った理由がわかった。
確かに、新入生の中ではジェムズとかなり交流した方であるカルムでさえそう思うのだ。他の、特に首都出身の人間ならば、これ幸いと地区出身であるジェムズへの攻撃材料にしてもおかしくない。貴族のお偉方も黙ってはいまい。辞めさせられる前に身を引くことにしたジェムズの判断を、責めることはできなかった。
〈少し休まれてはどうですか〉
アーミナ先生の話し声で現実に引き戻された。マリアラはタオルを置いたらしい。掠れた声が答えている。
「……いいえ、大丈夫です。まだ治療の途中ですから」
〈ご無理をなさいませんように〉
「ありがとうございます」
廊下から病室の中を覗くと、ラセミスタの裸足が見えた。さっきまでと変わらず、ひどく小さい。
しかしその足の色がピンク色になっていた。どす黒いほどに赤かった先ほどとは違い、熱が引いてきているらしい。マリアラはラセミスタの隣に座り、右手でラセミスタの右手をもう一度握った。左手をラセミスタの額に翳して、落ち着いた声で言った。
「ラス、ね、少し楽になった? 少し熱が引いてきたね。ねえラス、ガルシアって広いんでしょう? いいところとか、楽しいところとか、もう行った? わたしも行ってみたいな。きっといいところ、たくさんあるでしょう? 連れて行ってくれたら嬉しいけど、でも、ラスはもう、授業が始まったりするんだろうね。あんまり遊んでる暇はない、よね。わたし、ラスが授業を受けてる間、ここの医局においてもらえないかなあ。そうしたら、フェルドを待ってる間、ラスと一緒にいられるもの」
――なんだそれ。
カルムは少し疑問に思った。
もちろんマリアラがここに滞在することに、文句を言うガルシア国民はいないはずだ。
しかし今の言い方は、それとは少しニュアンスが違うような気がした。
マリアラは二度とエスメラルダに戻らず、フェルドという名の相棒がこちらに来るまで、ずっとここにいる。そういう意味のように聞こえた。
もしかして、マリアラはもう、エスメラルダには帰れないのだろうか。
――ガルシアに派遣されている魔女はラセミスタの治療を拒否した。〈アスタ〉はアーミナ先生にも治療を禁じようとした。グスタフが法に触れるかもしれないイレギュラーな方法で連絡をしなかったら、エスメラルダにいるラセミスタの友人たちは誰もラセミスタの負傷を知らず、ラセミスタの命が尽きるまで、放っておかれるところだった。
――ラセミスタを助けにくるというのは、そういうことなのだろうか。
〈……マリ、ア、ラ……?〉
か細い声がした。マリアラが身を乗り出した。
「ラス。……おはよう。調子はどう」
〈……どうし、て〉
「ラスがケガしたって聞いたから、飛んで来たんだよ。ね、ラス? ここ、どこだかわかる? この人誰? 言ってみて」
〈……アーミナ先生〉
「と?」
〈……ラルフ。あれえ……頭、いたい……夢かなあ……マリアラとアーミナが一緒にいる……〉
か細くて消え入りそうな声だったが、それは確かにラセミスタの声だった。
ミンツが椅子にしがみついている、その手が白くなっているのが見えた。力を込めすぎている。ふた晩眠れていないのだとカルムは思う。これでようやく眠れるだろうか。
「ラス、ちょっとごめんね」
〈なに、して……くすぐったい〉
「感じる? 神経、ちゃんと通ってるかどうか診るから、どこ触ってるか言って」
〈右足の親ゆび〉
「ここは?」
〈……左のふくらはぎ〉
「じゃあここ」
〈おなか。ね、マリアラ〉少し声がはっきりしてきた。〈ここってガルシア? 夢じゃ……え! フェルドは!?〉
「フェルドは……」
声が途切れた。看護師がラセミスタの病衣を脱がせ、タオルで汗をふいているようだ。新しい病衣に着替えさせ、暖かなガウンを羽織らせた。それを見届けて、アーミナ先生がいいわよ、と言ったので、カルムたちは寝台の回りに戻った。ラセミスタの顔からは、早くも赤みが引き始めていた。髪が濡れるほど汗をかいている。
もはや彼女は病人ではない、と、はっきりわかった。
病み上がり、の段階まで来ていた。
マリアラが来てから、たったの二時間足らずのことだった。
看護師が寝台に手をかけて、ラセミスタの上半身を斜めに起こせるように角度を調節した。ラセミスタの顔色は相変わらず白いが、病的な白さではない。眠たげな腫れぼったい顔をしている様子は、なんだか病み上がりというより睡眠不足に見える。夢を見ていたようだとカルムは思った。ラセミスタが死にかけるという悪夢から、今覚めたばかりみたいだ。
でも、その左手は、やはり厳重に包帯を巻かれていた。夢ではないのだ。
初めて、その利き手が永遠に失われてしまったということに、考えが思い至った。あの、まるで楽器でも奏でるかのような華麗な動きを見せた左手は、もう――
「……」
ラセミスタが身を縮めた。たぶん思いがけない人数に驚いたのだろう。生きのびたのだとカルムは考え、ほっとした。左手は失われてしまったが、でも、ラセミスタは生きている。
「おはよー、ラス」リーダスタが言った。「目、覚めて、よかったねえ」
「三日病なんかで死にかけるって、もやしっ子にもほどがあるだろ」
「全くだよ、心配かけやがって」
「ラス、ラス」ミンツが泣き出した。「ごめんよ……俺のせいでえ……」
〈……え? なんで泣いてるの? どうしたの?〉
さらに縮こまったラセミスタの額を、アーミナ先生がそっと拭った。看護師が持ってきた何かをラセミスタに渡した。いつもラセミスタが首から下げていたネックレスのようなもの。
翻訳機だとカルムは直感した。
なるほどラセミスタは魔女ではない。彼女が今まで流暢にガルシア語を操っていたのは、翻訳機の機能の賜物だったのだろう。それでカルムはなんだか少しホッとした。全く知らない言語を一から学び、半年で高等学校の試験に合格した化け物、という認識でいたが、さすがにガルシア語を流暢に操るというところまではいかなかったのだ。ラセミスタも人の子だったようだ。
マリアラの左手はまだ、ラセミスタの額からはなれなかった。彼女はそのまま、もうひとつ、薬を作った。水桶にいっぱい分の、水みたいな、無色で透明な液体だ。
「う、う、うう」ミンツが呻いた。「……ホントにごめん……でも……良かった」
ラセミスタはしばらく考えていた。
それから、苦笑した。
「あああ……そっか……」
そして、ちらりと、自分の左手を見た。みんなが身構えた。
でも彼女は、それほど動揺した様子を見せなかった。ただ事実を確認しただけのようだった。もう一度苦笑して、ラセミスタはミンツを見た。翻訳機の賜物か、いつもどおりの流暢な話し方で彼女は言った。
「ミンツのせいじゃないよ。あたしがバカだったんだもの。ちょっと考えればわかったはずなのに」
「……」
「……だから気にしないで? だいじょうぶ。字はねえ、右手でも書けるし、義手もすぐ作るよ。簡単だよ」
「グレゴリーという人が、作ってくれるそうだ」
グスタフが言った。ラセミスタは、瞬きをした。
「グレゴリーが……? グスタフ、グレゴリーといつ話したの?」
「ラスの容態を知らせたときに」
「今頃はイェルディアに着いてる頃かも知れないよ」
マリアラはそう言って、にっこり笑った。
「腕によりをかけて最高の義手を作るって張り切ってたよ。列車を使うとね、ここまで、急いでも十日くらいかかるそうなの。だからえーと……あと一週間くらいしたら来てくれる。それまでの辛抱だよ、ラス。さ、汗かいたから、これ、飲んで。全部飲み終わったら、お粥をもらおうね」
「……これ全部? おなかたぷたぷになるよ……」
ラセミスタはそう言ったが、マリアラはきっぱりと、水桶から薬を汲んでラセミスタに差し出した。観念したようにラセミスタは飲んだ。ひと口飲んで、おいしかったのだろう、一気に飲み干した。あまつさえ、飲み干した後、うっとりと呟きさえした。
「うあぁ……沁みるぅ……」
〈じゅわじゅわって沁みるよねー〉言ったのはラルフだった。〈わかるわかる。すげー沁みるよね〉
「ラルフもこれ飲んだの?」
〈さー、同じかどうかはわかんないけど、こないだ俺熱出して、すげー水分足りなかったときに、ミランダが作ってくれたんだー。ちっちゃいボールみたいな……こんな大きさの……口にいれるとじゅわじゅわ出て来てさあ……〉




