高等学校附属医局 → 高等学校薬草園
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医局へ戻ると、廊下が騒がしかった。フェイダとか、カルムはどこだ、とか、言い交わしている声が聞こえる。足を速めると、リーダスタが気づいて駆け寄って来た。
「あのっ、……フェイダからまだ連絡ないのかな……!?」
「ない、と、思う……俺は聞いてない。なんか……?」
カルムの返事で、廊下に沈黙が降りた。
グスタフが、地図を開いていた。みんなはそれを覗き込んでいたらしかった。アーミナ先生の目が赤くなっていた。すすり泣きに近い音が聞こえて、ぞっとした。
「あの……?」
「エスメラルダからイェルディアまで十八時間」とグスタフが言った。「フェイダからファーレンまで、……似たような距離だ。直線距離は」
「じゃあ今通ったとしても……まだ十八時間……」
いやもともと、どんなに急いでもあと二十九時間かかる計算だったわけだけど。
言いかけた言葉は飲み込んだ。そんな場合ではないらしい。
リーダスタがアーミナ先生を見て、彼女は、額に手を当てた。
そして、ため息をついた。震える、涙まじりの、ため息だった。マスクを外して、手のひらの中に握り込んだ。
「病状が最終段階に入ったの。湿疹が出始めた。最悪のペースだわ。……送風機を止めてちょうだい」
病室の中に指示を出し、それから少しして。
ずっと続いていた騒音が、止んだ。
耳に痛いほどの沈黙が落ちて、カルムは、間抜けな声を上げた。
「……え?」
「湿疹が出たら……最終段階なの」アーミナ先生は繰り返した。「朝までは……もたないと思うわ」
「……でも……」
「脳症が少しずつ、進行しているはずよ。意識はないけれど、耳元で話せば、……今なら……少しは伝わるかも。ベネットを呼んで。それから、ラルフは? エルザと、校長先生もお呼びして。王立研究院からも……もしいればだけれど……親しい人を呼ぶわ。〈アスタ〉の端末って、動かせないのかしら……あちらにいる人たちにも……看取っていただいた方が……」
「看取るって」カルムは足を踏み出した。「だってまだ、丸二日も経ってない……!」
「体力が落ちていると、病状もそれだけ早く進むの」
「だからって……」
言いかけて、カルムは残りを飲み込んだ。アーミナ先生を責めても仕方のないことだ。
あの子が、と、さっき聞いたリデルの声が頭の中で響いた。あの子が――あの子が。
あの子が襲われるのを、知っていたのだとしたら。
その言葉を飲み下したのだとカルムは今になって悟った。
ジェムズは、ラセミスタが襲撃されることを、知っていたのだろうか。
知っていて、黙っていたのだとしたら――。
病室の中では、無菌の設備が取り払われている。白いひだひだを静かに片づけている向こうに、ラセミスタの小さな顔が見えた。白い頬に、確かに湿疹のようなものが見える。カルムは怒鳴った。
「何やってんだこのもやしっ子! 三日病なんかに負けてんじゃねえよ!」
「ホントだよ、バカ! 体力ないにも程があるよ!」
リーダスタが言い、ずかずかと病室に入っていった。怒鳴り声が続いた。
「無責任なんだよ……! このままじゃミンツが責任感じるだろ!? 今あっちで無理やり睡眠薬打って寝かせてるけどね、後追い自殺なんて迷惑なことされたらどうすんの!? 起きろよ、ほらあっ! 三日病くらい罹っとけよ子供の頃に!」
「そうだそうだ! お前なあ、今友達がこっちに来てんだぞ……!? それ待たねーでどーすんだよ……!」
口々にわめく声が、聞こえているはずだが、グスタフは地図を睨んだまま動かなかった。カルムは、地面をひとつ、蹴った。
――間に合わなかったら……
――そんなの見たくないよ……
ラルフは今はどこにいるのだろう。ひとつ、大きくため息をついて、カルムは、アーミナに言った。
「ラルフ、捜してきます」
「……お願い」
アーミナ先生は、頷いて、ビニール製の帽子を取り払った。長い髪が解けて肩に流れた。上着もとると、中に着ている白衣が剥き出しになった。そして病室の中へ戻っていった。カルムはグスタフを見、何も言えずに、踵を返した。また逃げる、と、考えた。近くへ行って、ラセミスタの顔を見たら、その事実を受け入れなければならないような気がして――それから自分だけ逃げているような気がしてたまらない。
朝までは保たない、と、アーミナ先生は言った。
もう真夜中だ。今から十八時間も経ったら、朝どころか昼もとっくに過ぎて、もう夕方だ。彼女は今どこまで来ているのだろう、そう思ったが、もう、そんなことを考える段階は過ぎた、ということなのだろうか。
ラルフは外にいた。グレゴリーがわざわざあの通信の時に訊ねていたから、マリアラが来るとしたらここだろうと、予想を立てていた場所だった。
高等学校の敷地内に広がる、静謐な、池だ。
いや、池、というにはちょっと広い。だが、湖、というにはちょっと狭い、そんな大きさだ。薬草園の一部だった。池の中やほとりに生える薬草も多いから、昼間は医局や王立研究院の人たちがよく採集に来ているのだが、真夜中である今はもちろん静まり返っていた。
月が出ている。初めて気づいた。
どちらもほどよく膨らんで、辺りは結構明るい。池は、青と銀の二色の光の中に沈んでいる。周囲にも月の光が満ちて、まるで見慣れた風景が水の中に沈んでいるように見える。ラルフはその光の中、池の畔にしゃがみ込んでいた。カルムが近づくと、相手を確かめもせずに、にーちゃん、と言った。
〈……眠れないんだ〉とラルフは言った。〈胸がざわざわして……〉
〈鋭い勘をお持ちですね〉
〈なんか……〉ラルフはこちらを見た。〈なんか、あった……?〉
〈アーミナ先生がお前を呼んでいます。ラスが……少しでも……話がわかる内に……親しい人の声を聞かせて欲しいからです〉
ラルフは顔を背けた。体勢を元に戻して、水面を見つめた。そのかたくなな背中に、カルムは言った。
〈……朝までもたないそうです〉
〈……そっか……〉
〈……〉
〈……〉
〈……〉
〈……マリアラ、さあ……〉
「ん」
〈俺……人を治すってことで……マリアラに……出来ないことなんかないって……思ってた〉
「……ん」
〈俺の家族が六人もね……血まみれで倒れてたのも……あっという間に治してくれたんだ〉
〈……そうですか〉
〈遠すぎだよ……〉ラルフは膝を抱えた。〈俺……マリアラが来たら……なんて言えばいい……?〉
〈……わかりません〉
そんなことがわかったら、聖職者にだって高僧にだって、新しい宗教の教祖にだってなれる。
カルムはため息をつき、ラルフの隣にしゃがみ込んだ。水面に月の光が溜まっているように見えた。池が月の光を蓄えて、その力で薬草を育てているような、そんな錯覚を抱いた。
この水を、月の光ごと持って行って、それをラセミスタに飲ませたら、病も怪我も全部治って、目を覚まして笑って、甘いものを食べたがる、なんて、そんなことが起こればいいのに。
ふたりはしばらく、黙って水面を見ていた。
それに気づいたのは、ラルフの方が先だった。
ラルフが顔を上げ、空を見つめた。
〈なんか……なんだ、これ〉
〈どうかしましたか〉
〈肌が……ぴりぴりする〉
ラルフは、手の甲をそっとこすった。
そして、立ち上がった。
〈これって……〉
〈どうしました〉
〈……〉ラルフは、カルムに向き直った。〈……フェルドだ〉
〈どういう意味ですか〉
〈フェルドが怒ったときの感じだ。どこ――〉
その時、カルムにも聞こえた。き――と、ガラス板を金属でそっとこするような音だった。音を頼りに、顔を仰向けた。銀色の月が見える。三日後あたりが満月だ。と、そこに、黒いしみが見えた。ラルフが、飛び上がった。
〈来た……!〉
「え――でも、」
〈来た、来た、来たよ! 来た! 来たんだ! ほら、見ろよ、見えるだろ!? マリアラが来たんだ!〉
「嘘だろ……?」カルムは呻いた。「だって、どう頑張っても三日かかるって……」
思わずガルシア語になっていたが、ラルフにはわかったらしかった。甲高い声が興奮して叫んでいる。
〈寝なかったら!? 【穴】通るときだけしか止まらなかったとしたら!? マリアラならそれくらいやるよ! ほらほら、見て! マリアラだ……!〉
確かに。
今は黒いしみが、人に見え始めていた。長い棒のようなものに身を伏せているからか、厚みのある棒のように見えるが、よく見ると何かがはためいている。マントのようなものをすっぽり被っている。ラルフが叫んだ。
〈マリアラ! マリアラ、ここだよ! 止まって! その速度じゃ死んじゃうよ……!〉
なるほど、だから、水の場所を聞いたのだ、あのグレゴリーという人は。
カルムは立ち上がった。箒は速度を落とさずにつっこんでくる。耳障りな音がどんどん近づいて来る。と、きゅん、と音が止んだ。がくん、とその速度が緩んだ。どうやら自動的に止まるように設計されていたらしい。少なくとも加速はやめたらしいが、でも速度はそれほど落ちなかった。カルムは叫んだ。
〈柄を引き上げてください!〉
その声が、どうやら届いたらしかった。マントの中から伸びた白い細い手が、柄を掴んだ。柄が引き上げられて、すぐに身体が水に触れた。しゃあっと水しぶきが上がった。
人影は、マントから顔を出して、両手で柄を掴んだ。既に池の端まで来ていたが、寸前で身体を傾けたので岸に乗り上げることなくカーブを描いた。水しぶきを巻き上げながら、少しずつ速度を落として池を旋回した。ラルフはぴょんぴょん跳びはねて、声の限りに叫んでいた。
〈来た、来た、来たあー! 間に合った! 間に合ったよマリアラ……!〉
水しぶきが緩やかになり、池をほとんど一周した箒がこちらにむけて水面を滑ってくる。マントの隙間から白い顔が覗いている。カルムは靴を脱ぎ、水に駆け込んだ。止まりかけ、沈みかけていた箒の柄を掴んで引くと、マリアラの身体が、どうやら誰かの手によって、柄に縛り付けられているらしいのに気づく。
頬が白い。真っ青だ。ぼんやりしている。カルムが陸に引き上げて、ナイフでロープを切る間に、ラルフがマリアラの手を握って振った。
〈マリアラ! マリアラ、大丈夫!?〉
〈ラルフ……〉
マリアラが、初めて言った。
その声で、目が覚めたらしかった。
〈ラスは……ラスは!〉マントを振りほどいて、カルムの腕にすがりついた。〈ラスは! あの、ラスは……ラセミスタは!?〉
〈生きています。あなたは間に合いました〉
カルムはそう言って、マントでくるみなおし、マリアラを抱え上げた。ラルフがぽんと飛んで、走り出した。
〈俺先に知らせてくる……! わあああああー! 間に合ったー! 間に合ったあー!〉
あっという間に見えなくなった。カルムはマリアラを抱えて、走り出しながら、頭の中で計算していた。
フェイダから十八時間――
ということは、朝、交換台へカルムとラルフが行ったときには、既にフェイダを通っていたということになる。ここへ来るまで四十三時間で、イェルディアまで十八時間で、と計算すると、イェルディア―レイキア間の【穴】から、フェイダまで七時間だ。
〈一度も休んでいないのですか?〉
思わず聞いたが、マリアラは答えなかった。反応が薄いのは、極限まで疲労しているからなのだろうか。間に合ったが、でも、治療など出来るのだろうか。そう考えたが、今は構っている場合ではなかった。カルムはマリアラを落とさないで済むギリギリの速度で走った。




