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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の邂逅
542/783

高等学校 寮



   高等学校付属医局(ガルシア国首都ファーレン)


 マリアラが出てから四十三時間。到着予定時間まで、あと二十九時間。ガルシア国は夜の十時だ。カルムは自室にいた。シャワーを浴び終えて着替えていると、部屋の前に誰かが立った。身支度を続けながら待っていたが、なかなかノックをしないので、歯を磨き終えてから扉を開けた。ノックをするためにあげた手をそのままに、目を見開いて立っていたのはリデルだった。

 操獣法の時、リデルは『僕の菓子が食べたくないのか』と地団駄を踏んだ。あの時は、なんだそれ、と思ったが、リーダスタに指摘されてからは、その理由がわかるような気がしている。

 気の毒だと思う。

 ラセミスタは入学式の日、カイマン家嫡男であるポルトの申し出を断って、地区出身者たちの輪に入ることを選んだ。おまけにガルシア国民でさえないのだから、まだ貴族制にバリバリに縛られているフォルート家嫡男であるリデルには、カイマン家ご子息の顔に泥を塗った異国人なんて、絶対に婚姻対象に入れられない。見舞いに行くことすらできないだろう、カイマン家のポルトがまだ、操獣法から続く一連のクーデター事件の余波のために家に帰ったままだから。リデルとしては、寮で、ただじっと焦燥と不安に耐えるしかない。


「容体は変わらないよ」


 そういうとリデルは目を剥いた。

 そして、反射的に出かけた言葉を噛み殺した。がつん、と歯がなった音が聞こえた。

 薄暗い廊下で、リデルの顔色はよく見えない。

 ややして、絞り出すように彼は言った。


「……生きてるのか」

「うん」

「……魔女は」リデルの右手が彷徨うように揺れた。「ガルシアの、魔女は……」


 そこでリデルは残りの言葉を飲み込んだ。フォルート家は軍人の家柄だ。またガルシアは長らく、他国への配慮などしてこなかった国だ。リストガルド大陸は広いが、一番力を持っているのがガルシアで、他の小国はガルシアに歯向かうことができなかった。だからエスメラルダとアナカルシスという二つの大国と付き合わざるを得なくなった時、ガルシアの軍部は初めて、自分より強いかもしれない立場の国と向き合うことになった。

 今までは、何か要求を飲ませたければ、ただ命じるだけでよかった。貴族で、おまけに軍人ならば、その命を拒む人間などいなかったのだろう。

 しかし今回はそうはいかない。リデルがどんなに望んでも、魔女たちにラセミスタの治療を強要することはできないのだ。魔女たちが帰ったあとにどのような報復が待っているか、全くわからないのだから。


「ガルシアに派遣されてた魔女は帰るって言ってるらしいけど。別の魔女がこっちに飛んでるよ」

「……」


 間に合うのか、と、聞きたい言葉をリデルがなんとか飲み込んだのを知って。

 入学式とは別人のようだとカルムは思った。

 飲み込んだリデルの奮闘に敬意を表して、カルムはできるだけ穏やかな声で言った。


「ラスをすごく心配してた。きっと……必死で飛んできてくれてると思うよ。でも連絡してからまだ二日だから。フェイダを通ったら連絡来ることになってんだけど」


 リデルがどう考えたのかわからなかった。

 ややしてリデルは、低い声で言った。


「わかった。ジェムズがさ」

「ん。……ん?」


 いきなりの話題転換だった。少し戸惑ったが、これは、リデルなりの報酬のようなものかもしれないと思った。ラセミスタの情報を得た代わりに、カルムたちが知り得ない情報を出してきたのかもしれないと。

 カルムの戸惑いは、リデルの次の言葉で吹っ飛んだ。


「ジェムズ……学校、辞めて、実家の稼業、継ぐんだって」


 カルムは目を瞬かせた。

 なんだって?

 その時初めてカルムは、最近、ジェムズの顔を全然見ていないことに気づいた。


「なんで? 入学式、終えたばっかなのに」


 地区出身者にとって、高等学校に入ると言うことは、かなり重い出来事であるはずだ。全く寝耳に水の話で、信ぴょう性がまるでない。

 しかしリデルがこんなことで嘘をつくとも思えない。

 リデルは沈鬱な顔で、首を振った。


「……僕も知らない。ポルトも多分知らないと思う。でも操獣法で何かあったらしい。退学届を出して……校長先生が、さっき、受領の印を押したようだ」

「なんで」


 高等学校に入ったら、将来を約束されたも同然だ。

 なのになぜ、どうして、今このタイミングで、高等学校を自ら辞めなければならないのだ。しかも相談の一つもなかったことが不思議でたまらない。リーリエンクローンの知り合いができたと言うのに。


「……あいつ、どこに」

「引き止めないでやれ」


 リデルの声はとても静かで、カルムは、本当にこいつは入学式とは別人のようだと思った。

 それとも、もともとこうだったのだろうか。カイマン家のポルトと一緒にいる時には外に出てこなかっただけで、もともとこういう人間だったのだろうか。

 リデルは囁くように言った。


「入学式を終えたばかりで、こんな事件が起こって……あんたは、グスタフも、リーダスタもさ、多分誤解なんかしないんだろうけど。でもあいつをよく知らない他の奴らは、きっとするよ」

「何を? 誤解を?」

「そうだよ。ベルナも今、取り調べを受けてる。ライティグが寮の廊下に監視カメラを仕掛けた時、ベルナを利用しただろう。留学生があのカメラを見つけた時、仕掛けた犯人が映る直前でカメラが壊れたのは、ベルナがライティグから渡されてたスイッチを押したからだ。それで……アナカルシスのスパイはライティグとベルナだったんだろうってことになって。祭りの日の襲撃事件への関与がなかったか、調べられてるんだ」

「ベルナが……」


 そうなんだ。それがジェムズとどうつながるのだ。ジリジリしながら待つカルムに、リデルは続けた。


「でもアナカルシスのスパイはベルナじゃないんだ。軍がどう言おうと、僕は、ベルナじゃないって知ってる。入学式から操獣法までの、たったの数日の間に、夜中に、高等学校の敷地内から発信された謎の電波の存在については、ベルナとライティグだけじゃ説明がつかないんだよ」

「まさか。それが、ジェムズだっていうのか」

「わからない」とても沈鬱な声だった。「でもあいつの様子がおかしかったのは確かだ。あんたもグスタフも入院してたから知らなかったんだろうけど、リーダスタは知ってるはずだ。退院してから、ジェムズの姿を見たか? 留学生の派手な講演会に姿を見せたか? 操獣法で同じ班だったのに、あんたたちの見舞いに行ってないだろ。おかしいと思わなかったのか」


 確かに、と、カルムは思う。

 じわじわと理解がしみてくる。

 リデルが言った。


「……今んとこ一番疑わしいのはあいつだ。退学届を出した、校長先生が印を押した、その事実もそれを裏付けてる。でも、だからと言って、……あいつが祭りの日にさ、国王陛下と校長先生を殺すために、狩人を引き入れた。そんなことする奴だと思うか?」


「それはないだろ」


 口をついて出たカルムの反射的な言葉に、リデルは引き締めた唇を少し緩めた。


「だろ。だけど、ジェムズをよく知らない奴らはきっとそう思わない。首都出身の奴らは特に。僕だって、操獣法で一緒じゃなかったらきっと、疑わしいってだけで排除を願い出ていただろう。ことがことだ。国王陛下と校長先生が襲撃され、リーリエンクローンに罪を着せるなんて、アナカルシスの人間には利しかない。状況証拠が揃いすぎた。ベルナならまだ実家の後ろ盾がある、でも……地区出身の人間が、このままここで高等学校生を続けていくのは酷すぎる。そう思ったからあいつは退学届を出して、校長先生も、それをお認めになったんだ」

「……そうか」

「あの子が……」


 リデルは言いかけ、唇を引き結んだ。

 そして、呻くように言った。


「……なんでもない。用はそれだけだよ」


 言い捨てて、リデルは踵を返した。あの子というのがラセミスタのことだろうと察しはついても、一体どういう意味でその名前を出そうとしたのか、カルムにはわからなかった。


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