四日目 当番(1)
目の前が真っ赤だ。
熱い。
火の海だ。熱風が吹き付ける。痛みが背に食い込んでいる。よろめく。喘ぐ。飢餓よりも渇きがひどい。喉が灼かれる。痛みが食い込む。堪らずよろめいて、倒れた。建物が崩れ落ち、ぎゃあっ、悲鳴が上がった。
建物の中にいた生き物が潰れた音。
わたしが殺した、生き物の声。
――走れ。
痛みが背に突き刺さり、頭をもたげて叫ぶ。この激痛から逃げたかった。何も考えられなかった。刺さる。刺さる。刺さる。踏み抜いた瓦礫が足に食い込む。絶叫。喉が破れ体液が吹き出ても、渇きが消えない。痛みも。
――走れ。崩して、壊して、踏み越えて、走れ!
もうやめて。もう。
もうこれ以上、痛みを、苦痛を、血を。
赦して。助けて。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい……
――止めて。わたしを止めて。
――お願い。誰か、止めて。
――お願い。殺して。
――殺して。
目の前に見覚えのある女性が立った。漆黒の制服が熱風に揺らいでいる。彼女の背後にいる金髪の男が彼女の周りの熱を抑えた。背に痛みを突き刺し続けていた何かが急に消え、わたしは倒れた。がらがらと建物が崩れ、また悲鳴が上がった。
金髪の男が痛ましそうにこちらを見ている。いたわりの眼差し。女性は厳しい顔のまま右手をこちらに向ける。めらめらと上がる炎の中に若草色の粒子が浮かび上がる。なんて綺麗な色。なんて荘厳で無慈悲で冷たくて、優しい優しい光。
ああこれで死ねる。
やっと苦しみが終わる。
やっと。
――ありが「あのっ!」
揺すられて目を開けた。視界がぼやけていた。瞬きをすると滲んでいた視界が輪郭を取り戻し、淡い色の柔らかそうな髪をした、小柄な少女の像を結ぶ。
「だ、い、じょうぶ……?」
声がとても小さくて、掠れていて、マリアラはそこで初めて、その子がルームメイトであることを思い出した。夢だ。夢だった。あの痛みも苦痛も喉の渇きも絶望も、全部、夢だった。
――本当に? 本当に? 本当にこれが現実?
目を閉じると赤い炎が見える。若草色の粒子と苦痛。喉の渇きと背中の痛み。痛くて、苦しくて。周囲全てを破壊し尽くしながらよろめき斃れた生き物わたし。
激痛に苛まれて家を崩し人を踏みつぶした。殺したくなんてなかったのに、体が大きすぎて、力が強すぎて。
蹲ることも、赦してもらえなかった。
「うなされて……たよ」
囁きが、こっちが現実だと伝えてくる。苦痛と後悔と哀しみと絶望のない静寂。赤い炎と苦痛は恐ろしいほどリアルだったが、寝汗で貼り付いたパジャマの不快さと肌寒さと、ラセミスタの小さな指先の感触が、マリアラをしっかりつなぎ止めてくれた。
ラセミスタは小柄だ。今はもっと小さく見えた。マリアラは時計を見、まだ夜明け前だと言うことを知った。心臓が跳ね回っていて、寝汗をびっしょりかいていた。はあ、はあ、耳障りなのは、自分の呼吸の音だ。
鳶色の瞳が、心配そうに覗き込んできている。
「お水、飲む?」
「こ……わ、かった……」
「夢だよ、大丈夫だよ」
「うん……うん」
マリアラはやっと体を起こした。ラセミスタが水を持ってきてくれた。冷たい水が、乾いた喉に染みた。
「ごめんね……起こしちゃって」
「ううん」
ラセミスタは首を振る。小さな体から、いたわりの気持ちが漂ってくるような気がする。悪い奴じゃないんだ、と言ったフェルドの声を思い出す。
同室になって数日。まともに顔を見たのは、チョコレートをもらった初日、以来だ。
「シャワー……浴びてくる」
「うん」
「ありがとう」
「ううん」
短い会話だけで、夢の残滓が遠のき、現実が戻ってくる。本当にありがたい、と、マリアラは思った。
*
今日の仕事も森の浄化だ。いつもご苦労様、とステラからねぎらいの言葉をいただく。
ファイルを覗き込んで、マリアラは目を見張った。昨日の担当だった二組のラクエルが広げた浄化済みのエリアは驚くほど広大だった。三日月湖を中心にしていびつな円ができている。その半径は二百メートルに届きそうだ。
「司令部は今日のうちに休憩所付近に動くからね」
ステラはてきぱきと、殆ど色を塗られた白地図をめくり、次の白地図を示して見せた。休憩所が描かれているのが分かる。
「この辺り。今日はここから休憩所に向かう範囲をお願いします。――こおんな感じでー」白地図を指でたどって見せ、「休憩所から市街地の方に向かってください。必要な水は三日月湖から持って行ける? 明後日の日勤までには雪解け水の利用を申請しておくから、今日のところは我慢してね」
マリアラはステラの顔を盗み見た。別にあてこすっているわけではないらしい。
フェルドは涼しい顔で説明を聞いている。
「休憩所付近の浄化が進めば他の魔女たちも利用できるようになるからね。よろしくお願いします」
ステラはそう締めくくったが、二人が指示された地点に向かおうとすると、小さな声が呼び止めた。
「そーだ、あのさー、ガストンさんなんだけど」
声が柔らかい。マリアラが振り返るとステラは頬を赤くして囁いた。
「昨日なんの話だったの? お姉さんにちょっと教えて♥」
「えっと――」マリアラは苦笑した。「大した話じゃないですよ。わたしの一般学生のころからの友達の、志望進路を聞かれただけです」
「どうしてガストンさんがあなたの友達のこと気にするの? 女の子?」
「え、ええ、そうですけど、」
「ガストンさんってすっごい女ったらしなのよ」ひそひそ、声を潜めて、ステラはまるでその悪評がむしろ好ましい、というような口調で言った。「気をつけてあげなさいよ、その子が毒牙にかからないように」
「ええー? 十六歳ですよ?」
「もう立派な女性じゃないの! 誰誰? なんていう子?」
「ステラ、まただった!」
森の奥から、鋭い声が投げられた。ステラがぱっと立ち上がり、無線機とファイルを掴んで駆けだした。切り替えの速さにマリアラは感嘆した。さすがプロ、と思ってしまう。フェルドが駆けだし、マリアラも続いた。森の中から出てきた男性は清掃隊の制服を着ている。
「ステラ、計測器――あ、ラクエルが来てるな。君たちも、ちょっと来てくれ」
清掃隊の男性はくるりと踵を返し、森の奥に戻っていった。
ついていくと、程なく、焼却隊の一班が固まっているところに来た。今日の焼却隊担当マヌエルはジェイドで、マリアラはホッとした。ジェイドはいつもどおりの気弱そうな様子だったが、今日は更に困っているように見える。
「おはようジェイド。何か……」
あったの? と訊ねると、ジェイドは少し身を屈めて言った。
「この辺り、昨日浄化が済んだエリアなんだけど、やっぱり点々と〈毒〉が散ってるんだよ」
ぞっとした。
「昨日の帰りにあのダスティンがチェックしたってのに、なんで……」
ジェイドはフェルドを見上げた。そして後退った。
「何? 怖いんだけど」
「ジェイド、〈アスタ〉から、何も聞いてないのか?」
「聞いて……何を?」
「一昨日か、少なくとも昨日から、警備体制が変更されてるはずだ」
「そうなの?」
ジェイドは初めて聞いたようで、マリアラは身じろぎをした。昨日、もう一体の魔物の可能性を〈アスタ〉に連絡したのに、〈アスタ〉はなんの対策も取らなかったのだろうか。どうして。
と、焼却隊の班長らしき男の人が宥めるように言った。
「魔物がもう一体いるかも知れない、と言う話は聞いているよ。ただ、上の人たちは危険性が薄いと判断したらしい」
「そ――」
「まずここはあくまで島だ。森の広大さにも限りがある。狩人が魔物を持ち込んだのは少なくとも二週間前――こんな長い間潜んでいたのに、一度も、誰にも、その魔物が目撃されていない。あれほどの破壊を撒き散らす生き物が、こうも長い期間大人しく潜んでいられるものだろうか」
マリアラは思わず反論しようとし、班長が宥めるように手を上げた。
「最後まで聞いてくれ。調査はもちろんすると聞いている。浄化済みのエリアに〈毒〉が残っているという現状の、有力な説明になることは事実だからね。専門家を呼んで、詳しく調べるはずだ」
「あの、魔物は自分から進んで人を襲ったりしないんです。雪山でも、」
「マリアラ=ラクエル・マヌエル」
班長は鋭い声でマリアラの反論を遮った。
「言葉に気をつけなさい。魔物を庇うつもりか」
「え――」
「南大島の魔物がもたらした惨状を見たのに、魔物を庇うような発言をするのは感心しない。魔物が無害だと言いたいのか? あれほどの惨状を見たのに!」
「そんな、」
ステラが一歩前に出た。
「雪山の魔物がそうだった。ここにいる魔物もそうかもしれない。だから三週間近くも人目に触れず、隠れていられるのかも知れない。――この発言の主旨は、魔物を庇うと言うところにはないと思いますよ」
「ステラ!」
班長が色めき立ち、ステラはまあまあと両手を挙げた。
「まあでも、〈アスタ〉の配慮も理解できるわ。ただでさえ、森の浄化は過酷な作業ですもの。いたずらに騒ぎ立てて、皆の士気を下げないように、ということなんでしょう。――やることをやりましょ、皆で。計測器をお配りします。それから、司令部をここに移しますね。手分けして浄化漏れの箇所を探して、見つけたら座標を報告してください」
ステラはてきぱきと指示を出した。マリアラはまだもやもやした気持ちのまま一歩、後ろに下がった。“魔物を庇う”意味に取れる発言に対して、班長が見せた激しい反応が気になった。曲解というよりは、脊髄反射のように思えた。魔物に僅かでも同情を見せたら反射的に叩く、モグラ叩きじみた反応だった。
「当番のラクエル二人は、浄化漏れの範囲がある程度把握できるまで休憩所で待機してください。浄化の範囲を広げるより原因究明を優先します」
「……はい」
どうしてだろう、体のいい厄介払いに思えてしまう。魔物に同情を向ける“異端者”を、皆の士気を下げないように、隔離しておこう。そう思われているのではないかと、勘ぐってしまう。
それはきっと、自分の心がささくれ立っているからだ。マリアラはそう自分に言い聞かせた。
そうするより他に、どうしようもなかった。