高等学校附属医局 → 王宮へ
高等学校付属医局(ガルシア国首都ファーレン)
カルムは朝日を左頬に感じて目を覚ました。椅子に座ったまま眠っていたらしかった。身体がすっかり強ばっている。
廊下には他にも何人かの学生が眠っていた。リーダスタは周囲の病室から使われていない椅子を集めてきて、のびのびと足を伸ばして眠っていた。ウェルチも同じようなことをしていたが、かなり窮屈そうで、体が半分ずり落ちかけている。
カルムは時計を見た。これも近くの病室の壁から外してきたもので、よく見えるように廊下の壁に立てかけられていた。一瞥しただけで知りたい情報をすぐに読み取ることが出来た。マリアラが出てから、二十七時間。
――どんなに急いでも三日。
あと……少なくとも四十五時間。
まだそんなにあるのか。カルムは立ち上がり、そして座った。フェイダの【穴】に連絡は取れたのだろうか。交換台の不便なところは、あちらが応答しなければ連絡が出来ないという点――そして何より、動作が安定しないという点だった。昨日一日かけて連絡したそうだが、相手が出なかったり(何しろ滅多に使われない)、相手が操作法を把握していなかったり(本当に滅多に使われないのだ)、やっとつながったと思っても、話している間に通信が途切れたりして、話がちゃんと伝わったかどうか定かではない。
もう一度立ち上がって、病室を覗いた。アーミナ先生は向かいの寝台で休んでいて、代わりの医師がいた。ごうごうという送風機の騒音は絶え間なく続いている。医師がこちらを見た。カルムに、頷いて見せた。どういう意味だろうと考えた。変わりないから心配するな、だろうか。それとも、まだ死んでない、だろうか。カルムは頷きを返して、廊下に戻った。
扉の一番近い場所にミンツとグスタフがいる。グスタフがこちらを見ていた。その視線に、カルムは言った。
「フェイダにちゃんと連絡とれたのかどうか、聞いてくる」
「そうか」
「……少しは寝ろよ」
「寝てる」
嘘つけ、と思う。でもこんなことで言い争っても意味がない。交換台まで行くから、帰り道には店も開き始めているだろう。食料を山ほど買い込んでやろうと考えた。甘いものも買おう。そして廊下で、大勢で、騒々しく平らげてやろう。甘いものの匂いを嗅げば、病を追い出す気になるかも知れない。
エスメラルダの技術を導入することはこれから不可欠だ。
歩きながらそんなことを思う。
いざというときに頼りにならない交換台では意味がない。もしフェイダに〈アスタ〉があれば、きっと、とっくの昔にちゃんと伝言を頼めているだろう。マリアラがイェルディア―レイキア間の【穴】を通ったのは九時間前だ。それをカルムたちが知ったのは、それから五分後だった。ベネットが息せき切って知らせに来てくれたからだ――エスメラルダでも驚くほどの速度だったそうだから、ベネットは若干興奮気味だったが、それでも、箒の動力についての話も同時に聞いたカルムたちは、全く楽観ができなかった。一本でも、ひとりの魔女が連続して飛び続けられる時間はそれほど長くないと聞いた。魔女だって人間なのだ。休まなければ動けない。それに、箒は魔女が眠っていても飛べるらしいが、やはり動力の消費がかなりあるのだという。マリアラは二本の箒を組み合わせて速度を増したものに乗っているそうだが、その場合、動力はさらに必要になる。休まなければ墜落する。どんなに急いでも三日、というのはそういうことだ。
通信機越しに見たマリアラは、ラセミスタほどひ弱そうではなかったが、それでも、どう見ても筋骨隆々という感じではなかった。ごく普通の少女だった。細いし華奢だし、鍛えてい無さそうだ。どうしてフェルドは一緒にこなかったのだろうと考えた。魔力はどうだか知らないが、少なくとも体力はマリアラよりはあるはずだ。ふたり乗りでは速度が落ちるのかもしれないが、その代わり、マリアラが眠っている間にも飛べるんじゃないだろうか。右巻きには治療の腕がないというなら、フェルドは、ここに到着したら後は寝ているだけでいいのだから、少々無茶して飛んでも大丈夫だったんじゃないだろうか。
――エスメラルダからイェルディアまで十八時間。
驚くほどの速度だ、と、言ったって。その速度で飛んだのは、彼女の体力も魔力も一番多かった時のことなのだ。
――ここには体力の有り余ってる人間が山ほどいるのになあ……
あくびをして、ため息をついて、カルムは足を速めた。
王立研究院の敷地へ入るころには、幼い影が追いかけてくることに気づいていた。どうしてこっそりついてくるのだろう。放っておこうかとも思ったが、話し相手がほしい気分でもあったし、今し方の疑問にも答えてくれそうだったから、植え込みを抜けた先で待ち伏せした。ラルフがそっと穴から鼻を覗かせたところで首根っこをつかんでやろうと思ったら、ラルフは寸前で気づいた。目があって、ラルフはニッと笑った。
〈へえー、気づいてたんだ。やるじゃん、にーちゃん〉
〈あなたはよく生意気だといわれるはずです〉
〈あー、言われる言われる。すげー言われる。で、どこ行くの〉
〈面白いところには行かないです。ベネットに伝言を頼むべきでは? 彼は心配するはずだ〉
〈しないよ。俺ルクルスだし、あのおっさんには俺のこと保護する義務も義理もないんだ〉
〈そうでしょうか? 彼はあなたをすごく心配していたように思いました。少し聞こえました、リン、という名前とか……〉
〈……〉ラルフは顔をしかめた。〈言葉が通じる人がいてありがたいけどさあ……あんときおっさん翻訳機外してくれてたのに……。いーんだ。おっさん、ひと晩中〈アスタ〉通じてあっちと連絡取ってたから、今寝てるし。俺あそこにいても、おっさんかにーちゃんがいないと、事情わかんないしね。容体はどう〉
〈変わらない〉
〈マリアラは〉
〈それを今から聞きに行きます〉
〈ふーん〉ラルフは周囲を見回した。〈でっかい街だよね。世界って広いんだな〉
〈そうですね〉
〈広すぎだよな〉ラルフはつぶやいた。〈移動が大変過ぎだよ〉
〈フェルドはマリアラの相棒ですね。なぜ一緒にこないのですか。彼女をひとりでこさせるなんて、心配するはずだ。あの時は、一緒に来ると言っていた〉
そう言うと、ラルフが一気にしょげた。
生意気で、叩いても踏んでも蹴ってもへこまない感じだった少年が、人が変わったかのような落ち込みぶりだったので、驚いた。どうやら思っていた以上に親しい間柄のようだ。カルムは先に斜面を滑り降りた。振り返ると、ラルフは斜面の上でしゃがみこんで、しばらく黙っていた。
それから鮮やかな身のこなしで滑り降りると、うつむいたまま言った。
〈フェルドはね。……すげー、すげー、一緒に来たかったと思うよ〉
〈そうですか〉
そうだろうなとカルムも思う。マリアラを待っているこの無益な長い時間を過ごしているのはあちらも同じだ。その思いは、フェルド自身が一番痛切に感じているはずだ。
〈でも……フェルドが一緒に来たら……たぶん……だけど。たぶん、エスメラルダから出られなかったんだ。そうじゃなきゃ一緒に来ないわけがないんだ。なんかね……なんか……フェルドは普通じゃないんだってさ。本当に気の毒だよ。フェルドのせいじゃないのに。なんにも悪くないのに。マリアラもかわいそうだよ、フェルドが大好きなのに、ちょっと変わった相棒がいるってだけで……。いや、その……。心配、してるよ、そりゃあ。でも、ラセミスタはフェルドの妹だし、マリアラの親友だし、……だから、最善の方法を、取ったんだと思うんだ〉
〈そうですか〉カルムはつぶやいた。〈エスメラルダもいろいろ、大変なんですね〉
〈そうなんだ。ほんとに変な国なんだ。……そうじゃなきゃ、フェルドは一緒に来てただろうし……いや、魔女が治療を拒否したりしなかったんだろうしさ。そもそも、ラセミスタがここに来ることもなかったと思うよ〉
〈それはそうですね〉
重苦しい沈黙が落ちた。カルムは少し考えた。ただでさえ幼い少年、しかも異国で、カルムしか話が通じる人間がいない。そんな子供には、もう少し、気を遣ってやるべきだったのかもしれない。
少ししてカルムは訊ねた。
〈お腹がすきませんか〉
ラルフは顔をあげ、
〈にーちゃんの喋り方、変〉
そう言ってニヤリと笑った。普段の悪童ぶりを彷彿とさせるような笑みだった。
〈昨日から思ってたんだ。ちょっと丁寧すぎんだよな。フェルドならそんな話し方絶対しねーもん、ガルシアってみんなそんなにかしこまってお話しすんの?〉
〈そんなことはありません〉
〈だからそれ! そんなことねーよって言うの、言ってみ?〉
〈ソンナコトネーヨ〉
そういうとラルフはケラケラ笑った。カルムは構わずに話を続ける。
〈それで、お腹は空いていないのですか〉
〈今はそんなでもない〉
〈そうですか。それでは、お聞きしても良いですか〉
そういうとラルフはもっと笑った。〈よろしいでございますよ〉




