高等学校附属医局 → 【魔女ビル】アスタの部屋
高等学校付属医局(ガルシア国首都ファーレン)
まだ夜も明けない。
カルムとグスタフとラルフは、また、病室前の廊下に戻ってきていた。学生たちとアーミナ先生の手によって無菌の設備が運び込まれていて、部屋に入ることは許されなかった。中を覗くとラセミスタのいる寝台は、白いカーテンのようなものに幾重にも厳重に守られていて、彼女の華奢な身体はほとんど色合いくらいしか見えなかった。
ビニール製のがさがさした動きにくそうな服に全身を包んだアーミナ先生が動き回っている。
髪もビニール製の布できっちりと覆われ、手袋もはめ、大きなマスクまでしているので、後ろを向いていると、本当に彼女かどうかわからないほどだった。グレゴリーからの伝言を先ほど伝えたので、今は傷口の保存の処置をしているらしい。カーテンの中に空気を送る大きな装置がごうごうと音を立てていて、耳障りだ。
これもエスメラルダから贈られた装置なのだそうだ。無菌の空気を送り続けることで、細菌の侵入をかなり減らすことができるのだという。
「……無理もないよ」
後ろで誰かが小さな声で言った。ひそひそと囁きかわしている。
「今何時だ? ……明け方か」
「勝手に借りてもいいもんかな」
見るとラルフが眠っていた。リーダスタにもたれ掛かってすうすうと寝息を立てていた。確かに無理もない、と考えた。ラルフはまだ十歳やそこらだ。それがずっと長旅をしてきて、昨日一日走り回って、おまけに徹夜。周囲の学生たちの顔も疲労が濃い。明日――いや、もうとっくに今日だ。今日か明日には学務に課題が張り出されるはずだ。理不尽だという気がした。まだラセミスタが、当然受けるべき治療を受けられていないのに、どうして朝などが来るのだろう。
――どんなに急いでも三日はかかる……
リーダスタとウェルチが、ラルフを運んでいった。あいている病室の寝台を借りるつもりらしかった。ベネットは今は【魔女ビル】へ戻っていた。マリアラとフェルドが無事にエスメラルダを出られたのかどうか、探りに行くといっていた。
「遅くなりました……」
小さな、遠慮がちな声がした。見ると、大きな救急箱を抱えた新米医師がひょろひょろと歩いてくるところだった。
「狩人を捕らえたときにケガをした人が、こちらにもいると聞いたので」
「あー……」
みんな気の抜けた声を上げた。カルムはなんだか、笑いたくなった。ちっとも面白くないのに。悪い冗談みたいだ。確かに、廊下に今も残っている学生たちはケガをしているものが多かった。カルムもそう言えば、左腕がずきずきするような気がする。けれど一刻を争うようなケガではないし、命に関わるような症状でももちろんなかった。ラセミスタが今治療者を待っている状態なのに、軽傷の自分たちが治療されるなんて、とてもおかしい。
と。
病室の中で、アーミナ先生が引きつった声を上げた。
送風機のごうごうという音に紛れたが、カルムの耳には聞こえた。覗き込むと、アーミナ先生は白いひだひだの間からよろよろと出てくるところだった。手に何か持っている――
「アーミナ先生?」
そういうとアーミナ先生がびくりとした。
振り返った彼女の、マスクから覗く肌が、あまりにも白いような気がして、カルムは言った。
「……どうしたんですか」
「いえ……」
アーミナ先生は首を振り、時計を見た。
それから、こちらへやってきた。送風機の管の間をすり抜けて、出口の前に立ち止まった。マスクを外して、目を伏せた。手にしているのは、体温計だった。
「感染したみたいだわ。熱が顕著に上がってる。……もっと早く……」
言いかけて、唇を噛みしめた。もっと早くにこの設備を整えられていたなら、少しは違ったのだろうか。彼女の噛みしめた唇はひどく青い。指先も小刻みに震えている。自分を責める言葉を、なんとか飲み込んだらしかった。確かに、とカルムは思った。今は、感染を避けられなかったことを悔やんでいるときではなかった。
アーミナ先生は、カルムを見上げた。
「……魔女は……マリアラという左巻きの魔女は……もう、出たのかしら。あちらからここまで……どんなに急いでも、例え箒でも、三日はかかると……ギリギリだわ」
「ベネットって保護局員が調べてくると……俺、聞いてきます」
「カルム」
行きかけたカルムを、アーミナ先生が呼び止めた。
「フェイダの【扉】のね」
「はい」
「管理官に……彼女たちが通るときに……ラスが三日病に罹患したと、伝言を頼みたいの。出来るだけ急いでくれるようにって……エスメラルダでは三日病は本当に恐ろしい病だと認知されているはずよ。エスメラルダの左巻きなのだからその恐ろしさを知らないわけがないの。フェイダには〈アスタ〉はないのよ、まだ、交渉中だそうで……それに……だから……交換台へ通信をお願いしたいの。それも、今、すぐ。かなりの費用がかかるそうだけれど……お父様に、お願いできないかしら」
「わかりました。校長に伝えてきます」
学生たちの前なので、自分で父に頼めることを公言するわけにもいかない。こんな時にも、そんなバカバカしい気遣いを忘れないなんて、本当に滑稽な話だった。カルムは踵を返した。
ここから離れられることに、自分が心底ホッとしていることに気づいた。
致死率が八十パーセントを超す病が、ラセミスタの身体に取り憑いた。血を大量に失い、大ケガを負った身で、八十パーセントの壁を越えられるわけがない。死が、刻々と彼女に迫りつつある、その圧力から自分だけ逃げだそうとしている……そんなことを考えて、カルムは頭を振った。どうかしている。少し眠った方が良さそうだ。
アスタの部屋(エスメラルダ大学校国、【魔女ビル】)
朝がきて、昼が近くなった。マリアラが出てから十八時間が過ぎた。
その時にはだいぶ事情が分かっていた。
フェルドは今も戻ってこない。もはやあの男は、フェルドを閉じ込めることを、隠す気さえかなぐり捨てたらしかった。
「……間に合うかしら」
ララは自分の組み合わせた指先が小刻みに震えているのを見ていた。血の気を失って、ひどく白い。フェルドが箒もコインもマリアラに渡し、自分はエスメラルダの中に残ることに決めたから、〈アスタ〉ももはやラセミスタの容体を隠すことはしなかった。ララが要請するたびにあちらの保護局員につないだ。ベネットという保護局員は顔付きの割に気のいい男であるらしく、何度聞いても面倒がらずに答えてくれる。〈アスタ〉の端末はラセミスタの病室と同じ建物にあるようで、頻繁に病室と端末の前を行き来しては、最新の容体を伝えてくれた。
今、ララとダニエルは待機時間だ。ダニエルはマリアラの代わりに医局に詰めている。今出動することになったらどうしよう、と考えた。仕事など手につきそうもない。
――三十九度を超す発熱が九時間続いてる……
――手首の傷は適切な処置を受けた……化膿してないからそちらは大丈夫……
――友人たちが廊下に詰め掛けてる……部屋に戻れって何度言われても動かない……いなくなったと思っても気づくと戻ってきてる……
ララはため息をついて、両手のひらに顔をうずめた。
あの子が、と、考えた。
新天地に行って、人に交わり、真夜中に友人たちが廊下に詰め掛けるような人間関係を築き上げているなんて。ちょっと前までのあの子では信じられないことだ。マリアラがきてからあの子は変わった。まるで雪が解けて、蕾が花を開かせたかのように。同世代の同性の友人のもつ力には、本当に驚かされる。
――あたしにとっては、イェイラがそうだった。
【魔女ビル】に属することを決めた時、一番初めに話しかけてくれたのがイェイラだった。あの子が笑う時に頬に浮かぶえくぼが好きだった。【魔女ビル】での過ごし方はもちろん、エスメラルダで、十代の少女がどういうふうに過ごすのか。どういう楽しみがこの世にあって、どういうふうに享受すれば良いのか、教えてくれたのは、イェイラとスーザンだった。
なのにあたしは――。
そう考えて、首を振った。何度思い返しても、何度考え直しても、やはり自分には、ああするしかなかった。ならば、後悔にも反省にも、自責の念にも、何の意味もない。後悔も懺悔も自己満足でしかない。イェイラに負わせた心の傷が癒えることはないし、スーザンは二度と戻ってこない。
……マリアラは間に合うだろうか。どんなに急いでもギリギリだ。そして、ラセミスタの容体は深刻だった。大ケガをして弱った体では、三日病の病状が普通より速く進むことは、充分考えられることらしい。
どうか神様、と、祈らずにはいられない。
あたしが友人を失うのは自業自得だった。
でもマリアラは。あの子は何にも悪いことをしていない。だからお願い、どうか、どうか、あの子から無二の親友を奪わないで。
そう祈ることくらい、許されたっていいはずだ。
しばらくしてヒルデとランドがきた。出動の帰りに様子を見にきたと言った。医局の魔女たちもちらほらきた。ジェイドもいたし、ミシェルも(珍しく普通の髪型で)来たし、フェルドと最近よく一緒に雑用――ツィスの処理だとか、高所のメンテナンスだとか、雪下ろしだとか、雪崩への警戒だとか――をしていたらしいイリエルの若者数人もきた。
でも、イーレンタールは姿を見せなかった。
やり過ぎだ、と、思わずにはいられなかった。
あちらの学生ふたりが〈アスタ〉を介さずに連絡してこなかったら、フェルドとマリアラはもちろん、【魔女ビル】の大多数の人間が、ラセミスタの負傷を知らされないままだった。魔女が治療を拒否したということも。死にかけているということも。でもイーレンタールは知っていたはずだ。それを知ればフェルドとマリアラがぜがひでもガルシア国へ向かうだろうと分かった上で、校長の命令に従ってそれを隠蔽し、更に、不法なアクセスを校長へ知らせた。
やり過ぎだ。
すぐにグレゴリーがその痕跡を隠したのだから、気づかないふりをしても、不審に思われなかっただろうに――
『……すごいわ』とアスタが言った。『マリアラがイェルディアへついた』
みんながざわめき、ヒルデが驚きの声を上げた。
「もう? 鉄道でふた晩かかるというのに……二本の箒を組み合わせるって、すごいのね」
『イェルディアの管理官が通行の是非をイェルディアの【魔女ビル】へ問い合わせているそうよ。こちらからとっくに許可を連絡してあるから、ギュンター警備隊長の指示のようね、その間に少しでも休めと……ああ、やっぱり。ツィスを出してくれているわ』
通行の許可はほどなく下りた。フェルドが一緒に行っていたならこうやすやすとはいかなかっただろう、そう、考えずにはいられなかった。
「少しは休めたのかしら……」
『……今、出たそうよ』アスタが言った。『もう少し休めといったのに、聞かなかったのですって。出されたツィスは、ありがたく、全部持って行ったそうだけれど』
「すげえ速度だな……」とランドが言った。「時速何キロだ……? でも……動力もかなり……」
そのまま沈黙した。マリアラの魔力は弱い、とララも考えた。どこまでこのままの速度で行けるのだろう。
それに上空を高速で飛んでいては、体力の消耗も深刻だろう。
フェルドはどういう気持ちでいるだろう。エスメラルダさえ出られていれば、途中の【穴】で足止めされる恐れさえなければ、フェルドが一緒に行っていたなら――動力も、マリアラの体力も、それほど心配することはなかったはずだ。
フェルドがエルカテルミナでさえなかったら。
ララは、そう考えて、ため息をついた。
今まで、何度も、何度も、何度も、思い続けたことだった。




