南大島
空気孔付近(エスメラルダ大学校国、南の大島)
――イーレンタールをあまり憎まないでやってくれ。
静まり返った闇の中、先ほど聞いたグレゴリーの声が、もう一度聞こえていた。
――あの子は恐れているのだ。その恐怖は理由のないことではない。幼少期の、少年期の記憶は、悪夢そのものだろうから。
夢物語のような話だった。ラセミスタに、イーレンタールは、『二百年前に戻るくれえなら死んだ方がずっとマシだ』と言ったのだという。つまりイーレンタールは、二百年前に戻されることを恐れているということになる。荒唐無稽、としかいいようがない。そんなバカバカしいことを恐れて、妹のような存在を、見捨てようとするだろうか、と、思うのが普通だ。
でもマリアラは、人が過去に行くことがあるということを身をもって知っている。だから信じざるを得ない。イーレンタールは二百年前に生まれ育ち、何らかの理由があってこの時代に来て、今は幸せな生活を満喫している、ということを。一度この平穏を知った後で、またかつての地獄に戻らなければらないとしたら、確かにすごく、恐ろしいことだろう。
――二百年前は、とてもひどい時代だった。
二百年前には近代が始まっている。無血の革命と言われる偉大な改革を行ったのは、レジナルド=マクレーンという人だ。レジナルドが校長になってから、エスメラルダは発展の一途を辿った。イーレンタールは、レジナルドの前の、ドンフェルという悪名高い校長が支配していたときに生まれたのだろう。教科書で読むだけでも気が滅入るような最悪の時代だ。マヌエルの地位が一番低く、ドンフェルの血縁だけが栄華を極め、他の人間は、ただドンフェルたちを贅沢に暮らさせるためだけに、奴隷のように働かされていた。【壁】が牢獄の役割を果たしていた。税率は百パーセントだった。働いて得られたものはすべてドンフェルに差し出さなければならなかった。ドンフェルはそれを集めて、人々がぎりぎり死なない程度の食べ物を分配していたと習った。マヌエルの数も少なく、苛酷な雪害への対処も限られた場所しかできず、当然のように、そこに住んでいたのはドンフェルたちだった。雪崩で毎年何百人も死んだ。想像するだけしかできないけれど、――ひどく理不尽で、重苦しくて、つらく悲しい生活だったに違いない。
あの地獄に戻りたくないと、思わざるを得ないほど。
――それでも、今ラスが死にかけてるのはイーレンタールのせいだ。
――今フェルドが窮屈な場に戻って行かざるを得なくなったのも。
悲しさと焦燥に苛まれて、イーレンタールを恨まないではいられない。そうしないとラセミスタが心配で、足がすくんでしまいそうだ。
ようやく、ようやく、動きがあった。【壁】に空気孔を開く装置の周りにいる人たちの中で、無線を耳に当てていた保護局員が、大声で怒鳴った。
「解除! ――捕獲されたそうだ! 開けていいってさ!」
――捕獲。
胸の痛む単語だった。フェルドは今、どうしているのだろう。
マリアラが息をひそめている茂みの前で、集まっていた保護局員たちが武器を下ろし、片づけを始めた。マリアラはじりじりする気持ちを抑えて、黙ってじっと待っていた。グレゴリーの言った『協力者』はこの中の誰なのだろうと考えた。グレゴリーは、保護局員の、それも事務方の偉い人の中に、ガストンやグレゴリーと言った反校長派の人たちの『協力者』がいるのだと教えてくれた。その人が向かわされたのが南の大島の空気孔だから、出るならそこからにするといい、ということだった。
集まっている人たちはみんな若い。武器を持っているから、無理やり通るのはまずい――狙撃される怖れがある――だから保護局員の前に出て行って、出してくれるよう誠心誠意頼むしかないのだが、本当にこの中に、『協力者』なんているのだろうか。
保護局員が鍵を開けたのだろう。【壁】に空気孔が開いた。冷たい空気がふわりと緩んだ気がした――もちろん錯覚だろうけれど。もう夕暮れだ。あちら側から赤い光が射している。こちら側には雪がたくさん積もっているのに、あちら側には全然ない。何度見ても不思議な光景だ。
マリアラは念のため、保護局員たちが解散するまで待った。お疲れー、とか、またなー、とか言い合いながら、三々五々散らばっていく。でも三人は残るらしい。これ以上は待てない。ラセミスタのところへ行きたくて破裂しそうな気持ちをなんとか飲み下し、立ち上がった。
この人たちが校長側の人間でないことを祈るばかりだ。
わざと音を立てて立ち上がったので、三人がびくりとした。「誰だ!」鋭い誰何を受けて、マリアラは両手をあげた。高速飛行を解除するスイッチは押したままでなければならないから、箒の柄を握りしめる手は放せなかった。ゆっくり出て行くと、三人はホッとした顔をした。たぶん、『犯罪者』は男性だという説明を受けていたのだろう。
「誰だ――?」
「あ、俺、知ってる。医局の……確か……」
「マリアラ=ラクエル・マヌエルです」マリアラは両手をあげたまま言った。「わたしは魔女です。コインもあります。逃亡する気もありません。でも、……どうしても、ガルシア国へ行きたいんです。ここを通してもらえませんか」
「ええ……?」
三人は顔を見合わせた。どうするよ、とか、お前が言えよ、とか小声で言い交わして、その内ひとりが言った。
「あの……ここを通れるって、知ってるんだ……? でも、通しちゃいけないんだよ。そう決まってるんだ。【国境】が開くのを待ってくれないか。正式に出ないと……」
「〈アスタ〉はわたしが出ることを知っています」知ってるはずだ。そう思った。「行方をくらます気もないんです。ただ、……一刻を争うんです。【国境】は今夜はもう開かないと聞きました。お願いです。通してください……」
「何事です」
冷たい声がして、マリアラは凍り付いた。
ここに集まっていたのはみんな若い人ばかりで、責任者らしき人が誰もいなかった。でもそれは、少し離れた場所で指揮を執っていたと言うだけのことらしかった。きびきびした足取りで歩いてくるのは、針のように痩せた、刺々しい雰囲気の、暖かさなど一片もなさそうな顔つきの――
リスナ=ヘイトス事務官補佐室室長だ。マリアラは絶望した。
この人が責任者だったなら、絶対に通してもらえないだろう。
「いや……マリアラ=ラクエル・マヌエル? 最近医局のシフトにも入ってる左巻きのラクエル、だよね。この子が……どうしてもここを通りたいと」
若い保護局員がしどろもどろに説明した。彼らも、よほどにヘイトス室長を恐れているらしい。近くに来られるだけで冷や汗が流れて身動きが取れないといった雰囲気だ。そしてマリアラもそうだった。この人の目に睨まれると身体が竦んでしまいそうになる。
けれど、負けるわけにはいかない。マリアラはヘイトス室長に向き直った。
「ご無沙汰しています。マリアラ=ラクエル・マヌエルです。……ここを通してください。お願いします!」
深々と頭を下げたので、ヘイトス室長がどんな顔をしているのかはわからなかった。ヘイトス室長はふん、と鼻を鳴らした。
「理由は」
「友人が……親友が、大ケガをしたそうです。本当にひどいケガだそうです。でも、近くにいる魔女が、治療を拒んだと……連絡があって」
治療を拒否、と聞いて、保護局員たちが息を呑んだようだ。その気持ちはわかる、とマリアラは考えた。本当に、どうしてそんなことが出来るのだろう。信じられない。
「ひとりで行く気ですか」
「仕方がないんです! 急ぐから!」
マリアラは気後れも恐ろしさも忘れて顔を上げてヘイトス室長を睨んだ。涙目になるのを止められなかった。
「ひとりで行きます! ……置いていくんです! そうするしかないんです……!」
「でしょうね」ヘイトス室長はもう一度鼻を鳴らした。「コインは?」
「……持っています。身分証として必要かと思って」
あいている方の左手で、首元を探った。引っ張り出した鎖に、コインがふたつついている。ヘイトス室長はそれを見て、一瞬、笑った。
マリアラは虚をつかれた。氷のような冷たい顔が、その一瞬だけ、ひどく暖かに見えた。
その暖かさが消えたのは本当にあっという間だった。ヘイトス室長は再び元の氷の女王に戻ると、まさに女王のような威厳のある声で、言った。
「悪知恵が働きますね。それならば逮捕する必要はありません」
そして、一歩身を引いた。保護局員たちを視線だけで、空気孔の前から追い払った。その凍てつくような視線に後ずさりながら、保護局員のひとりが言った。
「で……え、と、通すんですか」
「私たちの受けている命令は、相棒同士の魔女ふたりが通ろうとした場合、もしくはコインをひとつもった魔女が通ろうとした場合、においては、阻止すること。魔女を装った犯罪者が箒を無理やり起動させて突破しようとしたときには、狙撃などの手段を用いてでも阻止すること。これだけです。このケースはそのどれにも当てはまりません」
「……通して……もらえるんですか……?」
信じられない気持ちで訊ねると、ヘイトス室長は呆れたように腰に手を当てた。
「誰が通すと言ったんです。阻止はしないと言ったまでです。いくら魔女とはいえ、空気孔を通ることは褒められることではありません。見過ごせば私たちが罰を受けます――見過ごせば、の、話です」
ヘイトス室長はくるりと、空気孔に背を向けた。
「知らなければ止めようもありません。解散した隙をついて頭上を通り抜けられてしまったのですから。―― 一刻を争うと言ったのは嘘ですか」
三人の保護局員たちも、倣って空気孔に背を向けた。マリアラはコインを胸元にしまい、箒に跨った。この人だったんだ、と思った。
――ミランダを逃がすために辞令を発行して……グレゴリーがラスを逃がすためにも、辞令を発行した、事務方の『協力者』って……この人だったんだ。
【炎の闇】が【魔女ビル】に侵入したとき、フェルドを閉じこめようとしたのは……フェルドが守るべきエルカテルミナだと、知っていたから……だろうか……?
「……ありがとうございます」
それだけ言って、体勢を整え、スイッチから指を放した。きゅうううう、と体の下で二本の箒が震えた。そして、飛び出した。しがみついているのがやっとの速度だった。だからヘイトス室長の返事は聞こえなかった。たぶん返事などしなかっただろう。
飛んで行ける、と、考えた。あの人が『協力者』なら、あの男に絶対ばれない。だからガストンもリンも、きっと大丈夫だ。そして――フェルドも。
だから飛んで行ける、どんなに遠くても。〈アスタ〉はラセミスタの負傷を伝えてさえくれなかったけれど、保護局員たちは、『犯罪者』という口実を信じて、空気孔を閉鎖してしまったけれど……でも、見逃してくれる人もいる。ラセミスタのところへ駆けつけることを、邪魔しないでくれる人が、ちゃんといる。だから大丈夫、ちゃんと飛んで行ける。そう、考えた。滲みそうになった涙は必死で堪えた。上空は凍てつくほどに寒くて、凍りついてしまうだろうから。




