高等学校附属医局(2)
ベネットは顔付きの割に気のいい男のようだった。魔女を説得できなかったことで責任を感じている。なによりラセミスタに対し、兄のような感情を抱いているようで、心配のあまり歩き回りそうになるのを必死で堪えているらしい。座り込んでいるが、どことなくそわそわしている。
ラルフの藍色の瞳が思い詰めたようにキラキラ光っている。この子にももっと詳しく話を聞かなければ、と思った時、グスタフがベネットに言った。
「エスメラルダは今何時ですか」
ベネットは時計を見た。
〈今こっちが夜中の一時半……今……おやつ時ってところかな〉
「〈アスタ〉にこちらで伝言を伝えたとして……それがエスメラルダに伝わるのにどれくらいかかるんですか」
変なことを聞くな、とカルムは思った。今そんなこと、どうでもいいじゃないか。
ベネットもそう思ったらしい。でもやはり気のいい男のようで、律義に答えた。
〈二秒。電波が届くのにそれだけかかるそうだ〉
「二秒」グスタフはうなずいた。「……マリアラという魔女を、知っていますか」
〈ああ、知ってるよ〉
〈マリアラ?〉ラルフが反応した。〈今このにーちゃん、マリアラって言ったね?〉
〈言ったよ〉
カルムがうなずくと、ラルフはぽんと立ち上がった。
〈マリアラのこと、なんで知ってんの? ラセミスタから聞いてたの? おっさんより俺のが詳しいよ、にーちゃん!〉
〈だから誰がおっさんだっつの〉
「ラスは、左巻きの魔女はケガや病気を見過ごせるようにできてないと言ってた」とグスタフが言った。「ガルシアに来ていた魔女は、そうじゃなかったようだけど……マリアラはそうなのか」
ベネットがうなずいた。ラルフに通訳してやると、ラルフもうなずいた。そして怒涛のごとくしゃべり始めた。
〈てか治療を拒否できる魔女なんか存在してると思わなかったよ! 俺が知ってる魔女はマリアラとフェルドとミランダくらいだけど、マリアラもミランダもすげーお人よしっつーか世話好きっつーか、俺がすっころんで擦り傷作ったくらいでもきっと大慌てで治療してくれるくらいの人たちなんだよふたりとも! ここの魔女ってどんな奴なの? 同じ魔女だなんて信じらんないよ!〉
〈そりゃ魔女だっていろいろいるさ……〉
「わかった。ありがとう」
グスタフは通訳を待たなかった。やはりアナカルシス語を、少なくとも聞くくらいはできるらしかった。カルムに合図をして足早に歩き始めた。ベネットが言った。
〈どこ行くんだ? 手助けがいるか?〉
「いや……もしかしたら法に触れるかもしれないので、エスメラルダの国家公務員は知らないでいてくれる方がありがたい」
〈何する気だ〉
ベネットは言ったが、説明までは求めなかった。ラルフはベネットから小声で通訳を受けてから、走ってついて来た。ミンツはこなかった。カルムはグスタフに追いついて、たずねた。
「んで、何するって?」
「手を借りたい。――ラルフ、アナカルシス語の文字はどれくらい読める?」
カルムが通訳してやると、ラルフは急に落ち込んだ顔になった。
〈いやその……あ、アルファベットは読めるんだけどさ……〉
「そうか。いや、いいんだ。何とかなると思う。……ラスはマリアラとフェルドという魔女をとても大切に思っているらしい。家族とか親友とか、恩人とか、そんなことを言ってた。普通、はるか遠くに、たった一人で出掛けた友人が大ケガをしたと聞いたら……真夜中じゃないならすぐにでも、〈アスタ〉を通じて、容体を聞いてくると思わないか。俺なら〈アスタ〉に聞くだけじゃ満足できない。ラスの様子を見たいし、容体に詳しい医師や、周囲の人間に話を聞きたくなる……少しでもたくさんの説明を求めると思うんだ。心配で、いても立ってもいられないはずだ。飛んでくると言っても不思議じゃない」
「……そりゃそうだな」
「でもいまだに、ベネットはそんなことをひとことも言わない。擦り傷ひとつで大騒ぎする魔女が、利き腕を失った友人の容体を頻繁に聞かないなんて信じられない。だから……マリアラもフェルドも、まだ、ラスのケガを知らないんじゃないか」
「でも、〈アスタ〉は連絡したって言ったはずだぜ」
「俺もそう聞いた。みんな心配してるとも言ってたな。でも〈アスタ〉の口から聞いただけだ。〈アスタ〉はアーミナ先生にも嘘をついたんだ。俺達に言ったことも嘘だったら?」
「……かもな」
カルムは足を速めた。〈アスタ〉は四階にある。ここの三階上だ。階段を上がろうとしたら、グスタフは階段のわきを擦り抜けて外へ向かった。
「どこ行くんだよ」
「もし〈アスタ〉が嘘をついているなら、〈アスタ〉に連絡を頼んでもむだだと思う。同じことの繰り返しだ。……だから〈アスタ〉に知られないように連絡する」
「どう……あ!」
「まだ残っているはずだ。校長先生には言わない方がいいと思うんだ。あまり褒められたことじゃないとラスも何度も言ってた。校長先生の立場が悪くなりかねない。だから……カルムの立場も悪くなりかねないが、」
「なるわけねえだろ」アーミナの言葉を思い出した。「なってたまるかってんだよ」
外へ駆け出すと、グスタフも走りだした。ラルフもついて来ながら、黙って、辛抱強く、通訳を待っている。ルクルスでも使える翻訳機があればなあ、と思う。
「でも、使えるか? あれ」
「さあ、見てみないことには……ただ、あれ、つまりは文字を書いていたってことだろう。だったら、ラスの書いた文字の履歴が残っているんじゃないかと思うんだ。これは賭けだが」
「履歴」カルムは額に手を当てた。「俺、会話はできるけど読むのはちょっと……辞書とって、」
「いや、いらないと思う。俺は読む方は何とかできる。聞くのも大体分かる。だが話すのが心もとないから、連絡をカルムに頼みたいんだ」
「おまえやっぱ、アナカルシス語わかるんだな?」
「違う」
真夜中の構内を少し走って、静まり返った校舎に入った。階段を上がりながら、グスタフは言った。
「……秘密にしておいてくれ。ミンスター語を子供に伝えるのは五十年前から禁じられていたそうだ。だがミンスターの人間は全員こっそり習って来た」
「……ミンスター語?」
「ミンスター語はアナカルシス語によく似ている。あのノートも、大体読めそうだった。だからあの装置の履歴も何とか読める……と思いたい」
「なんで似てるんだ」
「祖先が同じだからだ。媛とアルガス=グウェリン、エスメラルダの偉人だが、彼らは俺たちの祖先でもあるんだ。媛のひ孫に当たる、エスティエルティナ=ラ・マイラ=エスメラルダと、隣国アナカルシスの王子、フェルディナント=ミンスター・アナカルシスが駆け落ちして作った国、それがミンスター国だ」
「……駆け落ち?」
「ガルシア国とは曾祖父母の時代からの親交があった。そのつてでこの大陸に来たらしい。祖国に居づらくなる出来事があったんだ」
詳しい話をする気は無さそうだった。それにそんな時間もなかった。もう、魔法道具作成の教室に着いていた。
装置も残っており、グスタフが、あのときラセミスタがやったとおりに、キーボードの隅をとんとん、とたたくと、画面がふわりと光った。グスタフが難しい顔をしていすに座り、画面をのぞき込んだ。だいぶ時間がかかりそうだ。カルムはその間に、ラルフに、これからやることを説明してやった。




