治療院近くの路上(3)
「昨日退院したんだ」フェルドは怒ったような口調で言った。「最近めちゃくちゃ忙しくて、シフトにシフトを重ねるような状況だったんだ。顔色悪くなるし、どんどん痩せてくし。最後の一週間はほとんど顔見ることもできなくて。心配してたんだけどついに過労で」
「え……っ」
「倒れたのが医局の左巻きの目の前だったから、その場で即入院措置が取られて。二日入院して、昨日退院。二ヶ月間の休養を命じられたところ。……だから治療院の助っ人もなくなったんだよ。入院中もずっと寝てて、ほとんど起きないくらい疲れ切ってた。もっと早く動くべきだった」
悔やんでいるようだった。リンは頷く。
「マリアラ、ほんと真面目だから……限界まで頑張っちゃうんだよねえ」
「リンは、今初めて、マリアラが入院してたのを知った?」
「えっ?」
少し不穏な言い方だった。リンは驚いて、頷いた。
「うん……今」
「おかしいな。入院中に、お見舞いにって、菓子の詰め合わせが届いてた気がするんだけど」
「知らなかった。あのね、あたしずっと、マリアラに連絡を取りたかったの。それから、……ラスも」
リンはポケットを探り、ラセミスタから届いた手紙を引っ張り出した。
届いたのは今朝だ。消印は、五日前。
「ラスも……マリアラを心配してる。マリアラから手紙が届かないんだって。三週間……もう、四週間になるかな。それまで毎週届いていたのが急に途絶えたから、具合でも悪いのか、仕事が大変すぎるんじゃないかって、心配してる」
「……」
フェルドはリンの手の中の、ラセミスタからの手紙をじっと見た。
次に出てきた声はすごく低かった。まるで地響きみたいな声でフェルドは言った。
「……ラスには、マリアラは毎週手紙書いてる。どんなに忙しくてもそれだけは欠かしてないよ」
「そう、……そうよね。だって、マリアラだもん……」
「ディアナさんの……選民的なところがほんと鳥肌立つくらいやなんだけど」言いながらフェルドは無意識のように腕をこすった。「イェイラと同じだ。でも問題はそこじゃない。ディアナさんはまだ囚われてる。まだ終わってない……校長が交替してからもまだ、って、ことはわかった。悪い、あんま猶予がない気がする。要件は?」
「ガストンさんからこれ、預かってきたの」
フェルドは【魔女ビル】の中にいるから、〈アスタ〉の情報統制の影響をもろに受けている。前校長カルロスが失脚し、『こちら』のナイジェル副校長が就任した。こないだの事件で全てが終わったと思っているなら、説得に時間がかかると思っていた。長い冬の間ずっと忙しくて、マリアラは過労で倒れるという事態にまでなった。ようやくのびのびと休暇を楽しめるという段になって、急に逃げろと言われたって、飲み込むには時間がかかるだろうと。
でもフェルドなりに状況を把握しようとしていたのなら話が早くて助かる。アタッシュケースを差し出すとフェルドはすぐに元の大きさに戻して開け、中を一瞥してすぐに閉じた。
「……ミランダももしかしてこうやって出て行ったのか」
言われてリンは身震いをした。
「そ……そうなの。でもフェルド、充分気を付けてね。本当はミランダが出るときに、フェルドとマリアラも一緒に行くはずだったのよ。グムヌス議員が抜け駆けして、先に、ミランダだけ逃がしちゃったの、だから」
ずしん、と。
地響きのようなものを感じてリンは思わず後ずさった。
急に寒くなったのだ。頬にぴしぴしと霜が走る。
「フェルド、さむ、寒いよ……!」
「え、あ。悪い、ごめん」
外気に影響を及ぼしていることに初めて思い至ったらしい。冷気がふわりと緩み、リンはホッと息をついた。怒るのは当然だ、と思うのに、怒り方も加減しなければならないなんて気の毒だ。
「そのケースの中に、お金も入ってるわ。多くはないけど、当面必要な分だけはあるはずよ。とにかく列車に乗って、イェルディアまで行く。そこまで不便かもしれないけど、今までのお給料を下ろしたりしないで、何はともあれそこまで行って。そこまで行けばギュンター隊長が配属されてるからもう大丈夫よ。目的地は、最終的にはガルシアなの。あっちはあったかいって言うから、こっちの服装が合わないかも。イェルディアで少し時間をとって、買い物して行った方がいいわよ。その先、フェイダって言う国? 都市? とにかくガルシア行きの〈扉〉がある場所は、あんまり治安がよくないし、エスメラルダの校長の手が回るかもしれない。あんまり長居をしないでなるべく早くリストガルドに渡ってしまって。で、その先は箒に乗って、何日かゆっくり飛んだらガルシアに着くわ」
「……ガルシアに」
「ガルシアに着いたら、ガストンさんからの手紙を校長先生に見せて。その手紙も入ってるわ。あちらの校長先生は、以前一度エスメラルダに視察に来られたことがあって、その時にガストン指導官と意気投合したそうなんだけど、ものすごくたいした人らしくて、そこまでたどり着ければ絶対匿ってくれるって。【穴】が空き始めてるから【毒の世界】へ備える必要があるってことくらいでっちあげてくれる。ラスもいるし、もう安全よ、だから」
だから大丈夫だと、リンは、自分にも言い聞かさなければならなかった。うまくいくかどうかは賭けだと、ガストン指導官も言っていた。フェイダにあの男の手が回ったら危険だし、当然回るだろう。でもフェルドは前代未聞の魔力の持ち主だし、マリアラは治療ができる。ガルシアへたどり着くのがだいぶ先になるにしても、このままエスメラルダに止まり続けるよりははるかに安全なはずだ。
「フェルド、マリアラをお願いね」
ディアナは言った。一人で逃げろと。
そっちの方がはるかに安全だと。
ミランダを逃がしたグムヌス議員もそう考えた。確実に逃がすなら——安全のことを考えるなら、今すぐ、ひとりで、出た方がずっと安全で確実。それは、そのとおりなのだ。もしかしたら、アタッシュケースを持って今すぐ〈国境〉を出ろと言うべきなのかもしれない。
マリアラは魔力が弱い。ミランダやフェルドに比べたら、もしかしたら、誰にとっても逃がす価値のない、取るに足らない存在なのかもしれない。そんなのってひどいと思うけれど、でも、それが現実なのかもしれない。
だからリンは祈るしかない。
「あの子は……あたしの大事な友達なの」
フェルドにとってもそうであってほしいと、祈るしかない。
「わかってる」
フェルドは箒にまたがった。ちらりと時計を見た。長針が三十分近くをさしているのがリンにも見えた。
マリアラとの待ち合わせは四時だと、さっき言っていた。
少し上から、ためらいがちな声が聞こえた。
「リンとかガストンさんが、疑われることはないのか」
「あたしは今、雪山で研修中なの。ミランダの出奔も知らされてなかった上に、マリアラにさえ、事前に相談もしてもらえなかった、かわいそうなみそっかすなの。きっとイクスがみんなの前でおおげさにバカにしてくれると思うわ。ガストン指導官は、疑われるのに慣れてるんだって。いまさら一つくらい増えたって、疑われリストが一行増えるだけなんだって」
「……そうなんだ」
「ガストン指導官は金魚も飼ってるし、腕っ節強いし、味方が大勢いるし、何よりすごく有名でしょう? 手出しをするにはあまりにも波紋が大きすぎる人なんだそうなの。奴は頭がいいから、手出しをして波紋を広げるよりは、泳がせてその波紋を最小限に抑える方を選ぶんだ、って。だから大丈夫。ほら、早く行って行って。無事に着いたら手紙を書いてねって、マリアラに伝えてね。何も言わずに飛び出してごめんねって」
フェルドは笑った。
「わかった」
「ごめん、最後にもうひとつ。――あたし絶対、保護局員になるから。会えない間にもちゃんと頑張ってるから。マリアラとフェルドと、ラスと、……ミランダと……ラルフもシグルドもみんな、絶対絶対、帰って来て自由に出入りできるような国にするから! 期待しててね!」
「ああ」フェルドはニッと笑った。「頼りにしてるよ、リン」
そして手を振って、飛んで行った。リンはほっとした。長々と息をついた。
できることはやった。――後は、祈るしかなかった。




