診療院近くの路上
*
その頃フェルドは、本当はちっとも昼寝などしていなかった。フェルドに言われるままにミフに嘘をついてしまったことに、フィは後ろめたさを覚えている。
「フィ、ミフの居場所に気を配っといて」
フェルドはフィの後ろめたさなどちっとも気にせずに勝手なことを言う。フィは文句を言った。
『なんかちょっとそれってプライバシーの侵害とかに当たらない?』
「非常時だから」
『非常時だから嘘ついてもいいってわけ、相棒なのに』
「……」ちょっと響いたようだった。「心配かけたくないんだよ。昨日退院したばかりだし、来週までなんて待てないし」
『ウソだ。ついてこられたら断る口実がないからだろ。てーかこんな昼日中にフェルドが昼寝するなんて非常事態なんだから、マリアラもミフも今頃心配してるに決まってるよ』
だいたいこの人は勝手なのだと、フィはいつも思っている。今回も思った。ちょっと殊勝な態度を見せ、他人を気遣う様子を見せるから、周りはころっと騙されてしまうけれど、フェルドの本質は『やんちゃ坊主』であり『自分勝手』である。自分がしたいと思ったことは万難を排してやり遂げようとするところがある。そのたびに周りとぶつからないように、交渉を覚え懐柔を覚え、取引のやり方を覚えただけだ。本当はひどい奴なのだ。
そのひどい奴であるところのフェルドはこちらの憤りになどちっとも注意を払わない。
「ミフ、部屋にいる?」
『……出かけるみたいだよ。空飛んでる。けっこうなスピードで飛んでるから、マリアラは一緒じゃないのかもね』
「どこ行ってる?」
『あのね、だからそれプライバシーの侵害でしょ。ミフがその気になったら俺の居場所もすぐにわかるんだよ。マリアラは節度をわきまえてるからそんなことしないだけだよ』
マリアラがもしその気になったら、フェルドが本当は昼寝などしておらず、ディアナを待ち伏せしているということなど、すぐにわかるはずなのだ。
フィが腹立たしくそう思ったとき、ディアナとフューリーが治療院から出てきた。今日は木曜日、ディアナの仕事が半日で終わる日だ。まだ患者が多い時期だからずいぶん外で待つ羽目になったが、フェルドは当然ちっとも冷えてなどおらず元気満々である。腹立たしい。
マリアラだって『エルカテルミナ』が何なのか、知りたいはずだ。ディアナと知り合ったのはフェルドの方が早かったけれど、マリアラは左巻きの研修だの冬期の助っ人だのでよくディアナの診療院に行っていたのだから、あの事件が起こったときにはマリアラの方がディアナと親しいくらいだっただろう。親しい人間が秘密を知りながら隠していたことの衝撃も、フェルドに劣らず強かったはずだ。なのにフェルドはマリアラに黙ってディアナに会おうとしている。だってマリアラがいたら舌鋒を緩めざるを得ないからだ。
フェルドは今日はどんなことをしてでもディアナから情報を得ようと決意を固めている。左巻きを魔力や風で脅すというのは世間的に褒められた行為ではないが、正攻法ではもうどうにもならない。
イーレンタールはあれからずっと逃げ回っていて全然会えなかったが、ディアナならば話は別だ。
だからマリアラに来てほしくないのだ。自分がひどいことをするところを、見られたくないから。
『行っちゃうよ。どうすんの?』
フェルドがいるのは少し引っ込んだ路地裏で、いかにも捜査中の保護局員が潜んでいそうな場所だ。少し離れた通りをディアナが通っていく。フューリーは別方向へ行ったようだ。時間は三時が近い。四月のエスメラルダはまだ陰鬱で、患者がなかなか減らないのだ。こんな時間まで治療を続けていたのだ、空腹だろうなとフィは思う。ディアナは足早に歩いて行く。しばらくその姿を見ていたフェルドは、少し離れて、ゆっくりと歩き出した。
「小さく縮んだまま、あの人の耳のところに行って」
なるほど尾行や護衛がついていないか探っていたようだ。保護局員のまねごとをしてみているのだろう。この人は変なところで勤勉で変なところでまじめだ、とフィは思う。スリの技術を大真面目に研究してあまつさえ習得してしまうあたり、変人と言って差し支えない。
マリアラとの待ち合わせまであまり時間がない。フィは素直に従ってやることにし、言われたとおりに飛んで行った。フィだってディアナのことを怒っている。マリアラが【炎の闇】と一緒にあの水の奔流にさらわれてしまった、よりによってあの時に、フェルドの初動を止めたのがディアナだ。あまりひどいことはしたくないが、仕方がない。
*
ところで、ディアナの診療が終わるのを待っていたのは、フェルドとフィだけではなかった。
リン=アリエノールは治療院の向かいのビルにいた。二階にある喫茶店の窓際で、エスメラルダの社会を支える重要な法律の名称と概要を頭に叩き込もうと奮闘している。
『最近の傾向では歴史の比重が高まっている。法律が成立した背景として歴史認識の下支えがあるかを問われている』
受験対策コースのOBから聞いた言葉を思い出す。重要な法律がなぜ成立したのかを足掛かりに当時の社会情勢を覚えていけというのである。まさかこの自分が歴史に立ち向かう日が来るとは思わなかった。マリアラに個人授業を頼むことができたら、きっと、暗記の手がかりを一緒に考えてくれるような気がするのだが、そんな余裕はないだろう。
木曜日の昼下がり、喫茶店にはちらほらと人が入っているだけで、静かで、どこか長閑な光景だ。真下の通りは雪かきされたばかりで、薄日がさしてきらきら光っている。ノートに首を突っ込んで必要事項を覚え、顔を上げて、口の中で唱えながら治療院の入り口を見る——それを、正午から延々繰り返している。そろそろ二時間になる。もう四月なのに、患者は一向に減らないらしい。
と、そこに。
治療院の扉が開いて、最後に入った患者がやっと出てきた。正午ギリギリに受付をした、五十がらみのおじさんだ。あの人が出たということは、やっと治療が済んだということだ。リンはコーヒーを飲み干し、ノートと筆記用具やこまごましたものを片付けた。今日、マリアラはあの治療院の助っ人に来ているはずだ。マリアラが出てきたら、偶然を装ってばったり出会わなければならない。ガストンから託されたアタッシュケースがポケットにちゃんと入っていることを確かめて、リンは支払いを済ませて喫茶店を出る。
今日のリンの任務は、このアタッシュケースをマリアラに渡して警告することだ。
ガストンはついに決行することに決めた。事態はもう抜き差しならぬところまで来ているということなのだろう。
このアタッシュケースには、マリアラとフェルドの身分証(アナカルシス国民のもの)と、今月ならいつでも使える大陸鉄道のチケットが2枚、入っている。
リンは悔しかった。先日ミランダが一人で国外へ出た――あの時だったなら、もっと穏当に、もっと安全に、三人とも、無事に国外に出ていたはずだった。ミランダを国外に逃がしたあの計画は、もともと、マリアラとフェルドを国外へ出すために、ガストンの練ったものだった。辞令の発行のために元老院議員の協力が必要だったから、グムヌス議員に話を持ちかけざるを得ず……計画を聞いたグムヌス議員は、ミランダを加えるよう要請し、そして――是が非でも成功させ、ミランダの安全を確実なものにするために、ミランダ一人だけを先に逃してしまったのだ。信じられない裏切りである。
ガストンは別の方法を考えようとしていた。
しかし他の計画を練るにはあまりにも時間が足りなかった。
この計画は二番煎じだ。あちらも警戒しているはずだ。でも他の方法を探していては手遅れになる。多少のリスクを冒しても、決行する方がまだいいと判断したのだろう。
外は空気が冷たい。コートの前を掻き合わせ、一度、反対方向へ歩き出す。頃合いを見計らってUターンするつもりだ。しかし目を付けておいた建物の陰にたどり着き、治療院の入り口に目を戻したとき、リンは目を見張った。
出てきたのは、ディアナ=ラクエル・マヌエルと、事務員のフューリーだけだったのである。
——なんで?
目を凝らしてそこを見た。ディアナは寒そうに身を縮めながらフューリーが施錠するのを待っている。施錠している、ということは、中にもう誰もいないということだ。それじゃあお疲れ様、というような声をかけて、ディアナは商店街の方へ歩き出した。フューリーは何か用事があるのか、腕時計を見ながら動道の方へ歩み去る。
マリアラは、今日は助っ人じゃなかったのだろうか?
予定が、変わったのだろうか?
リンは少し迷った。リンはディアナとは面識がない、マリアラの消息を訊ねるのは不自然極まりない。どうしようかと考えあぐねたその時、ディアナの後を追うように、少し離れた建物の陰からフェルドが出てくるのを見た。
思わず声を上げかけて、リンは慌てて口を手で押さえた。
ほんの数メートル、声を上げたら聞こえる距離だ。フェルドはこちらには気づいていないようで、商店街の方へ歩いていく。リンは声をかけようか、だいぶ迷った。マリアラには会えなかったが、アタッシュケースを渡す相手はフェルドでも構わない。しかしフェルドの横顔がかなり緊張しているように見え、大事な用事があるのではないか、という気になった。こちらも非常時だ、フェルドに会えたこのチャンスを逃すわけにはいかないが、フェルドの用事が済むまで待つくらいの余裕はある。
しかしフェルドはどういう用事があるのだろうと、彼らのあとを追って歩き出しながらリンは考えた。フェルドとディアナは知り合いのはずなのに、なぜ出てきたところで声をかけなかったのだろう。




