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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の邂逅
524/783

【魔女ビル】校長の部屋→マリアラの部屋

   エスメラルダ 校長の部屋



   *



 今日も〈彼女〉の気分は最悪だった。最近、楽しい思いをしたことがない。

 戻ってきたナイジェルがやはり『あの男』だったとわかったときも最悪の気分だったが、最近、日に日に、その気分はさらなる低下を続けている。まだ下がりしろがあったのかと毎日驚いている。

 〈あの男〉がマリアラとフェルドを閉じ込める手をじわじわと強めているのを見ながら、なすすべがない。本当に、何もできない。マリアラに警告することすら。

 校長は〈アスタ〉に命じて二人に課す仕事を少しずつ増やしていった。二人の真面目さを利用して、正常な判断力を奪うために。真冬の雪害のひどさを目の当たりにすることの多い右巻きと、医局に押し寄せる患者の多さを目の当たりにすることが多い左巻き。なおかつ真面目で親切で、勤勉な二人。歯がゆいくらいだ、どうして文句を言わないのかと。あまりに仕事が多すぎてパンクしそうだと言えばいいのに、マリアラは真夜中までかかって完璧なレポートを仕上げようとする。


 その間に校長は、着々と準備を進めている。


 ジェイディスが仕組みシャルロッテが実行した知らせが届いたとき、だから〈彼女〉は嬉しかった。少しだけ溜飲が下がるような思いがした。

 マリアラは強制的に入院させられ、久しぶりに手足を伸ばして眠っている。フェルドも雪山から『直ちに』呼び戻された後は、強制的に休暇を取らされている。外部の法律事務所を入れたジェイディスの英断のお陰で、マリアラとフェルドに〈アスタ〉が連絡を取るためには弁護士を通さなければならなくなった。【魔女ビル】中に激震が走った。この事例はマヌエルの業務量を管理する〈アスタ〉(並びに元老院)にも労働基準法上の業務量監督義務が問われる、初めてのケースとなる。今まで特権的な身分であるがゆえに見過ごされてきたマヌエルの労働管理にスポットライトがあてられることになる。マスコミもこちらに注目する。マリアラとフェルドに取材申し込みが来ることになっても不思議じゃない。


 ――なのに。


 

 〈彼女〉は聞いた直後の喜びが、少しずつ薄れていくのを感じる。


 ——なぜあなたは、うろたえないの?


 ヘイトス室長の報告を受けても、『ナイジェル』の表情には焦りの色は見られなかった。淡々と報告を聞いて、室長をねぎらい、下がらせて。

 〈彼女〉は戦慄した。


 『ナイジェル』は、笑ったのだ。満足げに。


「次の段階に入るべきかな……」


 そう言って彼はあの通信機を手にした。〈アスタ〉を介さずに手駒たちに連絡を取る時に使う、あの忌まわしい通信機。

 初めにかけたのはジレッド。ここ最近『駅』に詰めっぱなしの二人に状況の説明と、数日のうちに決行するという連絡と細かな指示を。次にかけたのはイーレンタール。『あれ』の準備が整っているかの最終確認と動きについての綿密な打ち合わせ。

 〈彼女〉はその全てを聞かずに済むよう、その部屋の音声をオフにした。

 どうせ何もできないのだから――もうこれ以上、何も、聞きたくなかった。




    エスメラルダ マリアラの部屋



 目が覚めるともう昼過ぎだった。マリアラは天井を見上げ、ふわああああああ、とあくびをした。

 寝ても寝ても眠たかった。

 入院中もほとんどずっと眠って過ごしたのに、部屋に戻ってからも、なかなかすっきりと目が覚めない。退院した昨日は結局、1日まどろんで過ごしてしまった。今日も、気づけばもうお昼過ぎだ。あああ、と、天井を見上げてため息をつく。忙しかった間、やりたいことが色々あったような気がするのに、何も思い出せない。

 思うに、部屋に一人きりだからいけないのだ。


 倒れる前。ひと月ほど前だろうか。数時間の休みが取れそうになったとき、リンに、電話をかけようとしたことがある。

 その時〈アスタ〉が言ったのだ。寮母さんに聞いてみたけれど、アリエノールさん、すごく忙しいみたいよ、と。

 保護局員を目指すというのは、エスメラルダで最も人気のある職業を目指す、ということだ。試験はすごく難しい。そのうえ、研修も山ほど受けなければならない。空いた時間にはみっちり研修を詰め込まないと間に合わないのだそうだ。マリアラはそれでリンと連絡を取るのを諦めた。忙しかった間中、リンも頑張っている、と思うことが、どれほど心の支えになっていたことだろう。


 ——冬のマヌエルに連絡を取るのは難しいの。すっごく忙しいのわかってるし、断らせるのも悪いから。


 以前ダリアがそう言っていたことを思い出す。確かに、忙しいとわかっている相手に時間を割かせるのは気が引ける。

 でも、入院していた間にコオミ屋の菓子の詰め合わせが届いたのだ。リンからだった。メモなどはなかったけれど、〈アスタ〉が、心配していたわよ、と伝えてくれた。

 退院したからには、リンにお礼を伝えなければ。


「……ダリアに会いにいってみようかな」


 マリアラは目をこすって、よっこらしょ、と起き上がった。だるくて、眠くて、体が重い。でもダリアのことを思い出すと少し気分が浮上した。リンは忙しくても、ダリアはきっと、少しくらいならお喋りする時間を取れるのではないだろうか。リンの近況を聞いて、お見舞いのお礼を託して、マリアラの状況を伝えて。しばらく休みができたから、リンが暇な時にはいつでも連絡して欲しい、と、伝えてもらうくらいならできるはずだ。寮母さんに伝言をお願いしてもいいはずだし。


『いい考えだね、マリアラ』ミフが呆れたように言った。『確かに久しぶりだもんね。でも目を覚ますんなら、フェルドに会いに行った方がいいんじゃない?』

「だっ」


 だって。

 その時生じた葛藤は、自分でも驚くほど大きかった。

 マリアラの沈黙にミフは不思議そうに訊ねる。


『マリアラ、フェルドのこと好きなんだよねえ? フェルドも、マリアラのことが好きってことでいいんだよねえ? それなら、お休みになったら会いに行ったって、ちっとも悪いことはないんじゃないの?』


 ミフの意見はまっとうで、ぐうの音も出ない。

 マリアラはもう一度ベッドに倒れ込み、天井を見上げて呻いた。お陰で目は覚めたが、だからと言って、そうだねじゃあフェルドに連絡とってみようか——と言えるほど簡単ではない。ここ最近、本当に倒れるほど忙しくて、フェルドとの関係をはぐくむどころではなかった。


 グールド=ヘンリヴェントという、【炎の闇】と呼ばれる狩人が【魔女ビル】に侵入した、あの大事件の時。マリアラは初めて、フェルドが、自分に好意を持ってくれていることを知った。つまり両思いだったということになる。

 しかしラセミスタが一緒にいられなくなってしまったことで、なんとなく、フェルドとの関係を進展させてはいけないような気持ちになった。それはおそらくフェルドも同様だっただろう。ラセミスタが睡眠時間を削って受験勉強に挑んでいるのに、エスメラルダに残った自分たちが暇でいてはいけないような、そんな気持ちになったのだ。

 そうこうするうちに真冬になり、どんどん忙しくなった。フェルドとは週に何度も顔を合わせたが、待機時間は貴重な休息の時間になっていた。人目もあるし、込み入った話をできる状況ではなかったし、出動時間はなおのこと話せない。気づけばもう冬も終わろうとしているのに、フェルドとは関係を深めるどころか、恋人同士である、ということ自体を確かめることさえできずに来ている。


『ラスも合格したことだし、ちょっと話した方がいいんじゃない? この辺りに男子が来るのは難しいでしょ。マリアラの方から会いに行った方がいいよ』


 ミフの言葉は本当にまっとうだ。あああ、とマリアラはうめく。

 確かに——確かに、マリアラが住んでいる区画は、未成年の少女が多く住むところだ。ここに男性が入り込むのは目立つし、油断し過ぎて寝巻きどころか肌着でうろうろしている強者の少女もいるくらいだから男性の方が遠慮する。今〈アスタ〉を介して連絡を取ることはできないから、直接会おうと思ったら、それはマリアラの方から会いに行った方が安全である。


『フィに連絡するよ? いいよね?』

「ま、ま、待って。着替えて顔洗うから、ちょっと、ちょっとだけ」

『マリアラ、フェルドとくっつきたくないの?』

「くっ」


 くっつくって。

 マリアラは答えずに起き上がり、ミフの言葉をはねのけるようにクローゼットを開けた。くっ、くっ、くっつくって——


『物理的にってことじゃないよ。精神的にってことだよ』

「なっ何言ってっ」

『物理的にくっつきたくなってもおかしいことはないんだけど』

「ちょっと待ってってば!!」


 ミフのせいであの時この上なく大切そうに抱きしめられたことを思い出し、クローゼットの中にある衣類にしがみついて顔をうずめた。死ぬ。死んでしまう。

 ミフはいたわるように(若干呆れたように)言った。


『怖がることないんだよ。みんなが通る道だよ』

「ミフはそう言う情報をどこから仕入れてくるの!?」

『えっとねえメイがね、』

「えっメイからなの!?」


 メイと言えばミランダの箒である。

 ミランダは元気だろうか——反射的にそう思った。ミランダがシグルドに会うために【魔女ビル】から逃亡したことはかなりのニュースになったから、もちろんマリアラの耳にも入っていた。マリアラも呼び出されて聞かれたのだ。ミランダから何か聞いていなかったのかと。

 何も聞いていなかったことがショックだった。仲良くなれていたと思っていたのに。シグルドと“駆け落ち”する前に、一言くらい欲しかった。あんなに慈しんでいたヴィレスタをそのまま置いていったのも――そう考えてマリアラは、内心、首を捻った。今まで忙し過ぎて麻痺していた頭が、数日の休養で少し働き始めたようだった。

 ミランダは本当に“駆け落ち”だったのだろうか。

 駆け落ちだったなら、シグルドと会って少し落ち着いたら、手紙くらいくれるはずではないか。


 ミフがメイから聞いたというあれこれの情報を聞き流しながらマリアラは着替えを終え、鏡を覗いて身だしなみを整えた。準備はできた――できてしまった。もしかしたら口紅くらい塗ってもいいのかもしれない。いや持っていないから今日は塗れないわけだけれど。その辺りのこともダリアに聞いてみたい。フェルドに会う前にダリアとおしゃべりをして、態勢を整えてから――性懲りも無くそう思うマリアラをよそに、ミフは『じゃあフィに連絡するね〜』と簡単に言って沈黙した。どうして相棒同士の箒は直で連絡が取れるような仕組みになっているのだ。マリアラはそわそわとミフの発言を待つ。


『フェルド今寝てるんだって』ややしてミフが言った。『朝ちゃんと起きたのに、お昼食べたらまた寝ちゃったんだって。でも起こしてくれるって言ってるよ』

「ま、まって。いいよ、疲れてるんだろうし。じゃあ、じゃああの、わたし、一度リンとダリアの寮に行って」

『まだそんなこと言って。しょーがないな、あたしが行ってきたげるよ。マリアラはどうせ明日も明後日もずーっとお休みなんだし、ダリアとおしゃべりできる日はいつかって、都合を聞くだけでしょう?』


 ミフは念入りにマリアラの逃げ道をつぶしにかかっている。そう思うのはどうしてだろう、マリアラだってフェルドに会いたいのは本当なのに、どうしてこう先延ばしにしたくなってしまうのだろう。

 でもいつまでもこうしてはいられない。フィはもうフェルドを起こしてしまったかもしれない。雪山に積もった雪を何千トンも溶かし続ける重労働からようやく解放されて、ゆっくり休んでいたはずだ。そんなところを起こされたのに、やっぱり何でもないですなんて言われたら、フェルドはどういう気持ちになるだろう。


「じゃあ、お願い。わた、わたしは、ええと」

『18階に来るのはやめた方がいいってフィが言ってるよ。オンナノコが単身で立ち入るにはふさわしくないソークツだからって。今日の四時に最上階の喫茶店で会うのはどうかって。それくらいならフェルドの目も覚めるだろうから』


 今、二時半を少し過ぎたところだ。ちょうどいい頃合いと言えるだろう。事態は何も変わっていないのに、少しでも先に延びたことに少しホッとする。


「じゃあ、一度図書館に行こうかな。時間ができたから、よさそうな本でも探したいし」

『いーねー、お休みを満喫しなよ。ダリアの都合聞いたら戻ってくるね。リンの近況も聞いてきてあげる』

「ありがと」


 お財布とこまごましたものを入れたバッグを持って、マリアラはミフと一緒に部屋を出た。ミフは小さく縮んだまま、嬉し気に飛んでいった。マリアラはひとまず気後れを忘れることにし、ゆっくりと歩き出した。ここ最近、ずっと頭の中にモヤがかかっていたようで、いつもぼんやりしていたような気がする。しかし十分な睡眠とお休みの効果は絶大だった。歩き出したら、久しぶりに体が軽い。


「シャルロッテにもお礼を言いに行かないと」


 "倒れた"時に助けてくれたのはシャルロッテだ。

 入院中には込み入ったところまで話せなかったが、マリアラには、自分が"倒れる"前の記憶がある。シャルロッテがクッションを貸してくれて、体を温めてくれた。思うにあれは策略だったのだろう、恐らく、ジェイディスが計画して、シャルロッテが実行してくれたのではないだろうか。ただぐっすり眠って起きただけなのに、お陰で境遇ががらりと変わった。シャルロッテとジェイディスの策略に、大っぴらにお礼を言うことはできないが、何か美味しいものでも買って差し入れしたいという気持ちになっている。

 働きすぎだ、とは自分でも思っていた。

 でもみんなそうなのだと思っていたのだ。真冬のマヌエルは過酷であり、新人二年目のマヌエルは研修をたくさん受ける必要がある。運悪くそれが重なってしまったらみんなこうなってしまうのだと――むしろ自分の不甲斐なさを情けなくさえ思っていた。みんな大変なのに。みんな頑張っているのに。もっともっと頑張らないと、と、いつしか思い込んでいたように思う。

 シャルロッテとジェイディスのおかげで、そんなに自分を追い立てなくても良いのだ、ということを知った。

 自分だけでは、気づくのにもっと時間がかかっただろう。"倒れた"というのは方便だったけれど、あのままでは近々本当になっていただろう。


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