三日目 非番(5)
――さて、これからどうしようか。
マリアラは少し迷った。ステラからは帰れと言われたし、ダニエルからはそもそも来るなと言われている。しかし、後ろ髪を引かれる思いだった。本当にこのまま帰ってしまっていいのか、自信が持てない。
ダスティンから連絡を受けたときに感じた不安が、まだ胸の奥にこびりついている。何か大事なことを見落としている、そんな気がしてたまらない。
でも、確証はない。大したことじゃないのに、フェルドを無理矢理引っ張り回すのも気が引ける。
「あの……ごめんね、なんか……付き合わせて。大したことじゃなさそうだよね。無駄足、踏ませてしまって、ごめんなさい」
言うとフェルドは驚いたようにこちらを見た。
「なんで? 謝ることじゃないよ。約束守ってくれたんだろ」
約束。今度はマリアラが驚いた。昨日の約束はもちろん覚えていたが、それを持ち出すような事態だとは全く思っていなかった。
「危険なことがあるとは、思ってなかったんだけど」
「それでもさ、別に無駄足なんかじゃないだろ。むしろ蚊帳の外にされる方が嫌だったと思う。やっぱ俺にも関係あることだし」
「それは……そっか」
マリアラは頷いた。マリアラ自身、ダスティンには腹が立ったけれど、連絡してきたこと自体は歓迎していた。何も知らないままだったら、そちらの方がショックだっただろう。
フェルドが空を見た。日暮れまでの時間を見たのだろう。ラクエルは光がなければ魔法を使うことができないから、日没までの猶予を把握しておくことはとても重要だ。
まだ余裕がある、というマリアラの判断と同じだったようで、フェルドはマリアラを見た。
「このまま帰るのもなんだし。日が暮れる前に、もう一度試してみようか」
マリアラはホッとした。「うん」
「ダニエルたちに見つからないようにしよう」
思わず笑った。「うん。そうしよう」
ダニエルはダスティンのことを怒っていたし、のこのこやって来たと知ったら、ダスティンを止められなかったことを悔やみそうな気がする。できるならこのまま見つからないでいたかった。そしてこれ以上、ダスティンに見つかることも避けたかった。二人は三日月湖を離れ、北の方に少し飛んだ。必然的に梢の下を、木の幹を避けながらゆっくり飛んでいくことになる。
こっちに行くと休憩所がある。飛びながらマリアラは考えた。
そして、昨夜のあの、崩れそうな廃屋も。
あの子たちはどこへ行ったのだろう。風雨をしのげる場所を見つけただろうか。家出中、と彼は言ったけれど、彼の“家”はどこにあるのだろう。保護者はどんなに、心配しているだろう。
「この辺かな」
未浄化のエリアに入って、数分。フェルドが言って、先に降りた。
少し開けた場所だった。フェルドがポケットから何か小さなものを取り出したので、マリアラはそれを覗き込んだ。手のひらに握り込めるくらいの大きさの、小さな立方体だ。ステンレスでできている、ように見える。
「それなに?」
「水。ちょっとそこにいて。危ないから」
「危ない?」
フェルドは、マリアラから距離を取り、開けた空間に向けて、ぽーい、と小さな“水”を投げた。空中でそれは、ぽん、と音を立てて――
「わあ!」
ずしいいぃぃぃぃぃぃ……ん。
地響きを立てて地面に落ちた。
確かにそれは、水だった。水の入った巨大な強化ステンレス製の入れ物だ。幅も奥行きも、十メートルはあるだろう。
「それって、何……!?」
「雪解け水。ちょっとくすねてきた」
くすねたのか。
マリアラはその巨大な水槽に歩み寄った。キラキラした表面はとても綺麗で、マリアラの顔が映った。
「こないだの大吹雪の時、俺も雪かきにかり出されたんだけど、その時溶かした水の一部」
あの暖かな休憩室の中で、フェルドを初めて見たときのことを思いだした。あの時は全然知らない人だったのに、今はこうして言葉を交わしていると言う事実が、何だか不思議だ。
「あの時全部、蒸気になってたように見えたけど……」
「普通は二人ひと組でやるもんなんだよ。一人が溶かして、一人が回収するんだ。別の任務が入ったら、そっち優先しても回収の方はまあ構わない、って言われるんだけど……回収しないで大気中に放出してばっかりだと、冷やされて凝固して別の問題になるんだよ。濃霧ならまだいいんだけど、吹雪にくっついたらせっかく溶かしたのにまた元の木阿弥ってことになったりする」
「ああ……“雪解け水”って、もしかして、輸出されるっていうあの“雪解け水”? 社会で習った」
「あー、そーそー。そういう使われ方もされてるやつ」
「“ハザムド緑化計画”の一環、だったよね。輸出と言うより、国際協力の意味合いが強いプロジェクト」
「良く覚えてんなー。俺も習ったはずだけど実際携わるまで知らないも同然だったよ」
「……それを、くすねたの?」
思わず見上げるとフェルドはニヤリと笑った。
「大丈夫、これはエスメラルダの飲料水に回される方のだから」
「えっとそれは、大丈夫なの……?」
「終わったら濾過して返しとくよ。次の非番の時もどうせ依頼されるだろうし」
「非番……え、今日? 今日、仕事だったの?」
「あー、人手が足りないと、非番の時にちょっとだけ手伝ってくれとか、頼まれることがあるんだ。もちろん断ってもいいんだけど、俺はほら“問題児”だから。そういうときにポイント稼いどくんだよ。こういうときにくすねてくるみたいな役得もあるし」
「それは」
「左巻きは製薬の手伝いとか、頼まれることもあると思うよ。昨日みたいな、当番日の待機時間とかにも」
「ふうん……。大変だね、休みなのに」
「んー、右巻きの場合は儀礼的なもんだからそう大変でもないんだ。担当者の休憩の時に入るくらいだから一時間くらいのもんだし、魔力もそんなに使わないし。こないだ浄水場が整備され直して、数値的にはそのまま飲んでも全然問題ないレベルにまで浄化できるようになったんだけど、マヌエルが浄化しないと気持ち悪くて飲めないって世論が根強いらしくて。仕上げはちゃんとやってますよってアピールするためだけだから」
マリアラは感心した。エスメラルダは魔女の国、と言われるけれど、次元の狭間に落ちる人たちを救出するという主たる仕事の他に、ライフラインの維持のような仕事まで、委ねられているなんて。
「じゃー、日が暮れる前にやりますかね」
「はい、お願いします」
マリアラが頷いた瞬間、巨大な強化ステンレスの入れ物の蓋がばんと開いて、水が飛び出した。
水はまるで従順な龍のように滑り出てくると二人の周りをぐるりと回って、近くの森に飛び込んだ。見る間にそこに、汚染された木々を閉じ込めた巨大な水槽ができあがる。マリアラはその水に触れ、意思を伝えた。水の触れた範囲にある〈毒〉を全て、供出するように、と。
ほんの十数秒で、〈毒〉がごそっと取れた。昨日の感触と、全く同じだ。
フェルドは無言のまま、鉄のバケツを取り出して水の中から〈毒〉を抽出し、残った水は元どおりステンレスの入れ物に戻した。マッチを擦り、バケツに入った〈毒〉に放り込み、炎が上がるのを確かめてからこちらを見た。
促されるまでもない。マリアラは首を振った。
「水のあった場所に〈毒〉が残っているなんて……やっぱりあり得ない。不思議だな。一握りの〈毒〉を漏らしたならまだわかるけど、あんなにたくさん……だなんて」
「んー」
マリアラはミフに乗って、浄化されたばかりの木の梢に近づいた。〈毒〉の抜けた梢は張りを取り戻し、つやつや光っていた。
このやり方でどうして漏れができるのか、本当に理解ができない。
「俺は右巻きだから、〈毒〉の浄化の感覚ってのは、ちょっとよくわからない。ダスティンもきっとそうだ。だからやり方に間違いがあったんだ、ってあれだけ声高に言える」
マリアラはフェルドの方に戻った。空の向こうが少し赤くなり始めている。
「でも、やっぱりこの方法であんなに漏れるなんてあり得ないの。どう説明すればいいのかわからないけど……でも、」
「うん、疑ってるわけじゃない。ダスティンは反対するだろうけど、でも、右巻きには治療ができないんだからさ、そもそも納得させる必要はないんだよ。とにかくそうなんだ、あり得ないんだ、でいい」
「そ……そう?」
「そうだよ、信じる気がない奴は、どんなに説明したって信じないよ。自分にはわからない感覚なんだし。あり得るってこともあり得ないってことも、右巻きには証明できないんだから、納得させようとする方に労力を割く必要はない」
「そう……かな」
「そう。それに、人間の〈毒抜き〉をしたとき、左巻きが処置を終えたって言ってんのにまだ体内に〈毒〉が残ってました、なんて聞いたことがないから、同じやり方なら失敗するわけがないとも思うしね。
『この方法で、〈毒〉が残ってるなんてことはあり得ない』。左巻きがそう言うんだからそれが真実だ。それを前提にして考えよう」
「でも現実に、漏れはあったんだよ」
「うん。つーことはつまり、完璧に浄化した後に――」
マリアラはぞくりとした。ずっと胸にこびりついていた不安が、むくりと頭をもたげた気がした。
「新たに〈毒〉が撒き散らされた。そういうことになる」
「フェルド」
無意識のうちに、フェルドの肘に手をかけた。自分の頬から血の気が引いていくような気がする。
「ずっとね、気になっていたの。昨日のルッツのケガ」
「ケガして放置されて、高熱を出して倒れていた子供」
「そう。手当のずさんさと毒と……そっちにばかり気を取られてたけど、あの傷、普通の刃物で斬られたものじゃなかった。肩からこっちの脇腹まで、すうっと一筋の傷が走ってたんだけど……傷は浅くて、でも傷の割に、血が出てなかった。毒を抜いたら、血が出てきた。前にレポートで読んだことがあるんだけど、毒が傷口に付着すると、細胞組織が収縮して、結果的に出血をおさえる作用があるんだって。ケガをしてしばらく放っておいたから森の中の毒がくっついて吸収されちゃったのかなって昨日は思っていたんだけど、でも吸収されるほど放っておいたんならあの傷はもう少しふさがっていても良さそうなものなのに」
「……ごめん、もう一回説明してくれる?」
頼まれてマリアラは、あああ、と思った。またやってしまった。
昔からそうだった。説明が回りくどい、と良く言われたものだ。
「ええとつまり、あの傷は、状態からして、毒の付着した何かでつけられた傷なんじゃないかと思うの。例えば〈毒〉に浸された刃物だとか、それから」
鉤爪。
雪山で会ったあの気の毒な魔物が持っていた、鋭い鉤爪を思い出した。
「魔物の爪……とか」
「……ちょっと待って。南大島に魔物が乱入したのって二週間前だろ」
「うん。つまりあの子は二週間前から放っておかれたか、」
マリアラは言って、身震いをした。
「ここ数日のうちに魔物に傷をつけられたか、って……ことになる」
ひとつなら荒唐無稽な話でも、ふたつ重なると信憑性を帯びる。仮魔女試験のあったあの日、狩人がエスメラルダに連れ込んだ魔物が、二体ではなく三体――もしくはそれ以上、いたのだとしたら。浄化後の森林に毒が少量撒き散らされていたことも、ルッツの傷も、それで説明がついてしまう。
もう一度身震いをした。頭の中で、自分でははっきりわかっていなかった不安の影が、話す内にしっかりとした形を持ち始めていた。つじつまが合いすぎる。ラルフとルッツを迎えに来たアルノルドという男は、この森の中で何をしていたのだろう。休憩所にマヌエルが詰めていることを知っていたのに、ケガと高熱に弱っている子供を連れて来ることもせずに。
「日暮れだ」
フェルドが言った。宥めるような声だった。マリアラは顔を上げ、確かに、梢が赤黒く染まっているのを見た。
「〈アスタ〉に話そう。昨日の報告で、今日の警備体制は強化されてるはずだ。もう一体魔物がいるかも知れないってことを伝えれば、対策を練るだろう。相手が狩人なんだとしたら、〈銃〉を持ってる可能性が高い。森の中を闇雲に探し回るのは危険だ」
「うん……」
「警備隊の人たちに警告できるってだけでも、かなり役に立つはずだよ。それ以上のことは……」
「うん」
マリアラは頷いた。確かに、南大島の魔女たちや警備隊の人たちが、無警戒の状態で魔物に襲われるという事態は避けられる。それで良しとするべきだ、それ以上はどうしようもない、という意見ももっともだと思う。でも、悔しかった。どうしてわたしは弱いのだろうと、また思った。あの小さな子供が巻き込まれている出来事は予想以上に大ごとらしい。大変な目に遭っている子がいると知っているのに、その境遇を変えてやることなどできそうもない。
「まずステラのところに行って〈アスタ〉に話して、それから帰ろう」
「うん」
日暮れは刻々と進み、闇は次第に濃くなっている。フェルドは今度は、マリアラがミフに乗って飛び立つまで待っていた。周囲を警戒しているようなのが伝わってくる。森の中は暗かったが、梢の上に出る勇気はなかった。ラクエルは〈毒〉に耐性があるけれど、狩人の〈銃〉で撃たれたらさすがにひとたまりもない。
三日月湖の近くまで来たときには、辺りは既に暗闇だった。遅かった。ダニエルとララはとっくに休憩所に引き揚げ、ダスティンも帰った後のようだった。焼却隊の人々もステラも市街地の方にある詰所に向かった後で、司令部に残されているのは長机と椅子がひとつずつと、それから〈アスタ〉の端末だけだ。
端末を起動させる寸前に、フェルドが言った。
「約束、……守ってくれて、助かったよ。ありがとう」
「う、ううん……どういたしまして」
ややして〈アスタ〉につながる。状況を説明するフェルドの声を聞きながら、お礼を言うのは本来こちらではないだろうか、とマリアラは思った。