帰り道(1)
外に出るともう夕暮れが近づいてきていた。しばらく無言で、ずかずか歩いた。でも、怒っているからと言って息が切れなくなるわけでもなく、情けないことに、少し歩いただけで速度を緩めなければならなくなった。立ち止まって呼吸を整えると、グスタフも止まってくれた。
――あなたのためにしたわけじゃない……
「じゃあ誰のためにしたんだろうね……」
我ながら子供じみたことを叫んだものだ。少し頭が冷えて、今更恥ずかしくなってきた。でもあの言葉はグスタフと全く同じだった。そう思っていると、グスタフも苦笑した。
「全くだ。でも……あんな人だとは思わなかった。残念だな」
「ほんとにねえ……まあでも」ラセミスタは、声を励ました。「まあでもね。あの人が失脚したら大変だったよね。前の王様が戻って来て、貴族制が復活したら大ごとだったし、エスメラルダを排除されたらあたしが困ってた、だから、あの人のためじゃなくて、そうだ、自分のためにやったんだよ、ね? だからあんな人に感謝なんかされる筋合いはないよね。でもほんとにグスタフの言ったとおりになったんだもん、すごいねえ。どうしてわかったの?」
「わかったわけじゃないんだ。ただ……もしこうなったら一番最悪だな、と思っただけだ。
魔物が祭りに乱入したと近衛が知らせに来ただろ。何で来たんだろう、って思ったんだ。どうしてカルムにわざわざ知らせる必要がある? これから軍を呼びに行くと言ってた、カルムに知らせるより先に、軍に知らせるべきじゃないか」
「はあー、そっか。思いつかなかったな。なるほど。カルムを家から出さないと、ヨルグが書類を忍ばせにこられなかったんだね」
「ラスのお陰だ。ありがとう」
礼を言われて、ラセミスタは飛び上がった。
「いえ! こちらこそ!」
思わず叫ぶと、グスタフは、なんだそれ、と言うふうに微笑った。思わず変なことを口走ったのだろうと思われたのかもしれない。でもそれは、ラセミスタの本心だった。心底ありがたかった。さっき、危険なことだとグスタフは言ったのだ。危険なことだが、最悪の事態に備えるために、ラセミスタの力を貸してくれないかと。
その言葉が、どんなに、どんなに、どんなにどんなにどんなに、嬉しかったことだろう。
少し休んで、ふたりはまたぶらぶらと歩きだした。刻一刻と、街が夕暮れに染まっていく。春の、夕方の匂いだ。グスタフの隣に並んで歩きながら、ここでやっていけるかもしれないと、ふと、考えた。
あたしは、ここで、自分の居場所を、見つけられるかもしれない。
――最高権力者にケンカを売ったばかりだけど。
そう考えたが、でもそれは、今の穏やかな気持ちを損ないはしなかった。グスタフの言ったとおり、友人の父親に、友人への暴言を抗議しただけなのだ。恥じるようなことじゃない。
「グスタフのお父さんって、どんな人?」
訊ねると、グスタフはしばらく考えた。
それから、困ったように言った。
「うーん。どんな、と言われると……まあ……普通、だと思うけど。少々頑固だ」
「グスタフ、似てるって言われる?」
グスタフはうなずいた。いくぶん、悔しそうに。
「そっくりだと言われる。見た目だけじゃなくて中身まで。俺は異論がある」
ラセミスタは思わず笑った。それはぜひ会ってみたい。多分全然普通じゃないはずだ。
「ラスの方は? グレゴリー、という人か」
「あー、うん。血のつながりがあるわけじゃないんだけどね」
言うとグスタフは、驚いたようだった。
悪いことを聞いたか、というような顔をされて、ラセミスタは苦笑した。
「ああ、違う違う。エスメラルダは変な国なの。――子供はね、親と一緒に暮らさないの。生まれたらすぐ寮に入る。みんな同じ。例外はない。だから寮の寮母さんと、同じ部屋の子供が、家族、という感じになるんだよね。血のつながりには、あんまり意味がないの」
――それはたぶん、ルクルスを排除するためなのだろう。
そう考えて、悲しくなった。自分の故郷の歪みを、その裏側を、知るというのは、切ないことだった。
「そうなのか」
グスタフが言った。どこか、誘うように。
穏やかに促されて、胸にたまっていた澱が、するりと、ほどけ始めた。
「うん。……あたしは、それが、嫌だった。本で実の親と一緒に暮らす子供の話を読むたびに、なんて羨ましいんだろうって、思ってた。少なくとも家にいる、お母さんとお父さんだけは、他の子じゃなくてあたしの味方をしてくれるはずだって、思ってた」
「……そうか」
「あたしを産んだお母さんは、若くして亡くなったそう。でも特に悲しくもないんだ。会ったことないし、周りの子供みんな、親と一緒に暮らしてないから……少なくともお母さんが死んでるということが、孤独の理由になることはあまりない。お父さんの顔も知らない。あたしのお母さんは、寮母さん。みんなのお母さんと同じ。だから……でも……なんて言うか」
どうしてこんな話をしているのだろうと、ちらりと考えた。
でも言葉がするする滑り出て来て、とまらなかった。
「あたしには、だから、家族がずっといなかったの。同じ寮の子供たちは、あたしのこと、仲間だと認めてくれなかった。ほらあたし、天才、なんだそうですから。寮母さんは優しかったけど、あたしひとりに構ってはいられないよね……だから……でも……。うん、でもひとりね、あたしのこと、特別扱いしてくれた人がいたの。大っぴらにじゃないけど、優しくしてくれた。大事だって、言ってくれた。それが、ダニエルという人。一番年上の兄、という感じ。ダニエルがあたしの、一番初めの家族だった。それからフェルドに会った。続いて、ダニエルに相棒ができて、ララ、というお姉ちゃんができた。それからリズエルの試験を受けるようにって勧めてくれたのが、グレゴリーでね、グレゴリーはもう本当に、全面的にあたしのこと守ってくれる、お父さん、なんだ。そして最後に、――マリアラに会った。話したっけ、フェルドの相棒。同室だったんだ。ほんとにいい子で、あたしのこと、……あたしが、そっけなくしてても、それは、ただ怖かったからなんだけど、でもマリアラにはそんなこと、分かるはずなかったのに。諦めないでくれた。何度も何度も、閉じこもってないで出ておいでよって、誘ってくれた。……マリアラはあたしの恩人なの。あたしが家族以外の人とも、こうして普通に話せるようになったのは、マリアラのお陰なんだ。だからね……だから……マリアラの手伝い、したかったんだ」
我ながら支離滅裂だという気がした。グスタフはきっと、意味がさっぱり分からないに違いない。でも黙って聞いていた。その沈黙がありがたかった。
「フェルドと、マリアラの、手助けをしたかった。全部うまくいくように、あたしにできることなら何でもしてあげたかった。フェルドには……ちょっと……なんていうか……普通の魔女と、少しだけ違うところがあってね。カルムみたいに、その違う部分のせいで、変な恨みを買っちゃってね。マリアラはフェルドの相棒だから、そのせいで、危ない目に遭っちゃって。でもマリアラは、フェルドの相棒でいたいって言ったの。フェルドのこと好きだから、一緒にいたいんだって。あたし嬉しかったんだ。だから協力したかった。そしたらへまして、偉い人に睨まれちゃって、それで、――ここに来たというわけです」
「……そうか」
「だ、からね」ラセミスタは無理に笑った。「フェルドもマリアラも、きっと、後悔してると思うの。自分のせいで、あたしが飛ばされちゃったんだって、ふたりとも思ってると思うの。でもあたしは、それが嫌なの。……あのふたりのせいじゃない。負い目に思ってほしくない。あたしのせいで悲しんでるんだろうなって、思うとね……でも、……どうすればいいのかわからない」
「ラスは今、自分の足で立ってる」
グスタフが言った。ひどく優しい声だった。
「高等学校に自力で入って、足場を固めてる。だから可哀想じゃない。ガルシアはいいところだ。……まあいろいろと、問題はあるが、でも、飯はうまいし」
ラセミスタは微笑んだ。「……うん」
「いい人間がいっぱいいるし」
「うん」
「湯沸かしとか蓄光器とか、珍しい道具がいっぱいあって、いろいろ研究しなきゃいけないし」
「うん」ラセミスタは笑った。「そうだよね」
「四月に雪がないし」
「うん。それに、ミンスターの焼き菓子があるし」
「王室ご用達のチョコレートもあるし」
「クレープもあるし」
「有名な菓子職人が近々目の前で揚げパンを揚げてくれる」
「友達もいっぱいできた」
「だから」グスタフが締めくくった。「飛ばされたにしても、結果として、ここに来られて良かったんだ。マリアラとフェルドを呼んで、自慢すればいいんだ。こんなにいいところに住めるんだ、いいだろう、って」
「……うん」
ラセミスタは晴れ晴れと笑った。胸のつかえがやっと取れたような気がした。
何よりグスタフがいる、と、思った。
それは口には出せなかったけれど、でも。
ここにはグスタフがいるのだ。それだけでも、ここにきて良かった。素直に、そう考えた。
ここ数日の自分の感情が、ようやく、今、ふに落ちた。
――どうやらあたしは、この人に恋をしているらしい。
生まれて初めての経験だった。




