書斎(2)
逃げる間もなかった。「ラス!」とグスタフが叫んだ時には、誰かの腕に羽交い締めにされていた。数人の足音が遅れて聞こえ、がちゃん、とカメラが床に落ちた。三人だ、と、無意識のうちに数えていた。首に回された腕から煙草の匂いがした。【炎の闇】の腕を思い出して、鳥肌が立った。
そして階下の扉が開き、軍服を着た男たちが五人、入って来た。ラセミスタはめまいを感じた。全部で八人だ。
カルムはまだ戻ってこないのに。
「……油断も隙もない」
聞こえた声は、【炎の闇】のものではなかった。ラセミスタを捕まえている男はどうやら兵士だ。その後ろから、恐らくは指揮官なのだろう、とても尊大な声が響いた。
「ここにも鼠が潜んでいたぞ。迂闊だな、ヨルグ」
言いながら男は前に出て来て、ラセミスタが取り落としたカメラを蹴った。カメラは手摺りの透き間から落下して、床に落ちて壊れてしまった。
「あ……っ!」
「危ないところだった。全く迂闊だ」
男は話しながら、ゆっくりと階段を降りた。ラセミスタを捕まえた兵士もその後に続く。ものすごく力の強い腕に封じ込められてラセミスタは抵抗など考えることもできなかった。
中二階から下に降り立った時、ヨルグが言った。
「ラセル=メイフォード。……ここでもまた私の邪魔をするか!」
唐突に激昂し、ラセミスタは反射的に身をすくめる。男は鼻で笑った。
「ヨルグよ、操獣法の山の中では随分煮湯を飲まされたらしいな。ミンスターの人間に発言力はなくても、エスメラルダの留学生と来れば話は別だ。貴様の失態だぞ。ラムゼイの被った化けの皮が剥がされたらどうするのだ」
「その方をお放しください、エスター=フランドル閣下」
ドリーが厳しい声を上げ、フランドルというらしい男は冷笑した。
「そうはいかぬ。放して余計なことをしゃべられては厄介だ。ヨルグが書類を隠すところを何か不可思議な機械で記録していたらしいし……全く懲りぬ人間だな、ラセミスタ=リズエル・シフト・マヌエル? エスメラルダという楽園から追放された身でありながら、この国でもまた政変に首を突っ込むか」
「さっきの画像はリアルタイムで〈アスタ〉に送信してた!」
ラセミスタは必死で声を上げた。
「ヨルグさんが書類入れてるところ、何枚も撮って、もう〈アスタ〉に送っちゃった! 残念でした!」
「〈アスタ〉に何を送ろうと握り潰すのは簡単だ。この国の貴族はエスメラルダの技術に親しんでおらぬ。捏造することなど簡単にできると思わせられる――」
出し抜けにグスタフが本を投げた。驚いて兵士が手をゆるめた瞬間に、ラセミスタはその腕から抜け出した。兵士の手が後ろ髪をかすめたが、一瞬早くグスタフの腕がラセミスタの手首をつかんだ。
「……やれやれ」
フランドルが笑った時、ラセミスタはグスタフの背に隠れていた。心臓がどきどき脈打っていたが、広い背中に視界が遮られて、本当に心底ホッとした。
先程、中二階から落とされたカメラが足元に落ちていたが、やはりすっかり壊れてしまっているようだった。データも多分取り出すのは無理だろう。
グスタフが下がった。先程彼が入って来た避難口にラセミスタを押しやり、囁いた。
「逃げろ」
「無駄だ」
フランドルが冷笑した。それを説明するかのように避難口から足音が響いて来た。グスタフがラセミスタを背中にかばったまま避難口の扉の前から部屋の隅へ移動し、その正面で、扉が開いた。兵士がふたり、入ってくる。全部で十人――ヨルグを入れて、十一人だ。
ヨルグがこちらを見る目の、あまりの暗さにゾッとする。
逆恨みじゃないか。そう思いながら、ラセミスタはポケットを探った。
「グスタフ、これ」
囁きながら手渡したのは、元の大きさに戻した“鞘”だ。グスタフがそれを構え、一瞬後、きらめく刀身が立ちのぼった。フランドルが眉を上げた。
「エスメラルダの怪しげな技術か」
「気をつけた方がいいですよ」
ラセミスタは声を励ました。
「これはね、ダイヤモンドも切れる剣なの。普通の剣で弾こうとしても無駄だからね。触ったら何でもかんでもすっぱり切れちゃうんだから」
「そうかそうか。時間を稼ごうというのだな。そうはさせぬ。――狙撃準備!」
そうくるか。
ラセミスタは“盾”を取り出した。近々カルムが戻ってくるはず、それまで持ちこたえればいいはずだ、と自分に言い聞かせた。“盾”の出力を最大にして、グスタフの背に出来る限り近寄った。スイッチに指を引っかけ、グスタフの背から左腕だけを出した。これは一人用だが、出来る限りくっついていれば何とかなるだろう。だが問題は、守らねばならない範囲が想定より広いという点だ。
「何回だ?」
グスタフが静かに訊ね、ラセミスタも囁き声で答えた。
「四回はいける」
ラセミスタの魔力は平均よりはかなり強い。が、魔女じゃない。九十度という広い範囲、しかもグスタフの身長分、その上九本分の矢の衝撃に備えるにはかなりの魔力が必要だ。五回も出現させたら気絶寸前だろう。
兵士たちが次々と矢を構える。その背後で、ドリーが中二階へ続く階段へ走り、出来る限りの早さで上がり始めた。
フランドルは嘲笑した。
「人を呼ぶか。呼べばいい。どうせ今頃近衛が大挙してここへ向かっているはずだ。使用人に過ぎぬお前の言葉と、近衛を取りまとめる貴族であるエスター=トロエ=フランドルの言葉と、近衛がどちらを取り上げるものか、試したいならするがいい。――貴様らがこの計画を予期してここに先回りしていたことは称賛に値するが、すべては無駄に終わったな。貴様らは何の役にも立たなかった。〈アスタ〉に送ったという画像は少し厄介だが、貴族の立場を揺るがすほどのものではない。よいか、リズエルは殺すな。アナカルシスに高く売れる。だが頭と両手さえ無事なら後はどうなっても構わぬぞ」
「ミンスターはいかがいたしましょう」
ヨルグが慇懃に訊ね、フランドルはあっさりと言った。
「殺せ。ミンスターの人間が行方不明になったとて、誰も騒ぐまい」
「近衛はどの程度噛んでるんだ? まさか全隊があんたらの計画に賛同したわけじゃないだろう」
グスタフの声は相変わらず落ち着いていた。フランドルは構わなかった。
「知らないでいいことだ」
兵士がいっせいに、弦を引き絞った。ドリーが上がりきり、こちらに気遣わしげな一瞥を投げて部屋を出た。
ラセミスタは“盾”のスイッチを入れた。
「撃て!」
矢が放たれた。寸前できらめく盾が半球状に盛り上がり、ぎちぎちぎちぎちっ、と矢を阻んだ。揺らめく“盾”の向こうでフランドルが嘲るように笑う。と、“盾”が消滅した瞬間に、グスタフが前に飛び出した。ラセミスタを含めて全員がぎょっとした。グスタフは剣を構えて、避難口の前に立つ兵士ふたりに切りかかった。
先程のラセミスタの警告と、何よりきらめく刀身がふたりを大きく下がらせた。身を引きながらも繰り出された兵士の剣をグスタフが弾くと、ぽろりと外れたように刀身が断ち切れた。ヨルグの声が叫んだ。
「撃て! 撃て――!」
何とか間に合った。グスタフの後ろに駆け寄ったラセミスタの“盾”が今度はふたりの左側に半球を作って、飛来した七本の矢を弾いた。そのすきにグスタフは避難口の扉の蝶番に斬りつけ、二か所断ち切った直後に扉に蹴りを入れた。ばん、と扉が蹴り倒され、避難通路が口を開けた。グスタフは左腕でラセミスタの体を抱え上げると、切った扉を踏み越えて避難通路の中に駆け込んだ。
「お、追え!」
「……すごい切れ味だな」
通路に立ちはだかったグスタフが呟くのが聞こえた。通路の奥側に放されたラセミスタは、思わずへたりこんだが、なんとかよろよろと立ち上がった。
「こっちから……」
「いや、行かない方がいい。まだいないとも限らない。が、ここなら――」
扉から兵士が顔を覗かせ、慌てたように身を引いた。フランドルが叫んだ。
「手榴弾をもて!」
「……」
「うっわ……それはちょっと……」
どうしようもないというか、人様の家で何てことを、と、呟きそうになった、そのとき。
ようやく、ばーん、と、書斎の入り口が蹴り開けられた音が聞こえた。悲鳴が上がった。たぶん、ヨルグを迎え入れたメイドの声だ。兵士たちの狼狽の声も聞こえる。やってきたのは誰だろう、とラセミスタは考えた。ここからでは見えないが、カルムに違いない。絶対そうに違いない。ここで更なる敵が現れたら――と思ったとき、過たず、カルムの声が聞こえた。
「――ラス! グスタフ!?」




