〈アスタ〉との連絡
と、ドリーが来た。静かな声で、ラセミスタに言った。
「坊ちゃま方のことはどうぞご心配なく。お祭りで騒ぎが起こったというなら、きっと構内は大混乱でございましょう。事態が収束するまで、こちらでお待ち下さいませ」
「――でも……」
「大丈夫です」
ドリーの声は、とても静かだった。
「……大丈夫です、ラセミスタ様。坊ちゃまは大丈夫でございます」
自分に言い聞かせるような声だった。
「ですからご自分のことをお考え下さいませ。ここでしたら安全でございます。坊ちゃまがお友だちを連れてこられたのは初めてのことでございました。家人一同、この日をずっと忘れはいたしません。どうぞご自分のお家と思っていただきとうございます――もちろん今日だけでなく、今後もずっと。ガルシアのわが家とお考えくださいまし」
ラセミスタは、呼吸を整えた。
周囲に集まってきていた使用人の人たちみんなが、自分を見つめているのを感じた。
ドリーも使用人の人たちも、みんな、カルムを追おうとはしなかった。祭りに魔物が乱入した、と聞いて、心配にならないわけがない。カルムばかりでなく、カルムの両親も祭りにいるはずなのだ。
それでもここを動かない。誰も、もう、取り乱したりしていない。それはきっと、義務を背負っているからなのだろうと、考えた。この人たちには、主たちが留守をしている間、家を無事に守っておく義務があるのだろう。そこに、カルムが初めてつれてきた友人のひとりであるラセミスタが留まって、その安全を確保しているという仕事が加わったならば、もしかしたら、それはこの人たちの心のより所になるのかも知れない。
――坊ちゃまがお友だちを連れてこられたのは初めてのことでございました……
グレゴリーの空島へ、マリアラをつれて行った時のことを思い出した。
あの時のグレゴリーの歓待ぶりは、きっとこういうことだった。――いまさら分かるなんて。グレゴリーの好意が、いまさら、こんな形で、その深さと強さが身に染みるだなんて。
「……お言葉に甘えて、椅子を、お借りできますか」
言うと、ドリーは、一瞬、泣き出しそうな顔をした。
そしてすぐに、にっこり笑って頷いた。
「こちらへどうぞ、ラセミスタ様」
先程から、ラセル、ではなく、本当の名前を呼んでくれていた。本名も素性も、恐らくはなぜガルシアへ来たのかということまで、もう知っているのだろう。だからこそ、言ってくれたのだろう。ガルシアのわが家と、考えていいのだと。
少し歩いた先に、観葉植物に囲まれた隠れ家のような一角があった。【魔女ビル】の医局前の廊下を思い出して、懐かしい気分になった。ここならば周囲にいる使用人の人たちがラセミスタの様子に気を配ることが出来るし、ラセミスタはその視線に気を遣わずに済む。
居心地良く身体が沈むソファに座って、膝の上で端末を開いた。
ガルシアの【魔女ビル】は高等学校の敷地内、医局のある建物の四階――屋根裏部屋――にある。ここから〈アスタ〉に届くだろうかと心配したが、なんとかつながった。アスタの優しいふくよかな顔がスクリーンに浮かび上がった。
『まあ、ラス。ああ、無事でよかったわ。――今どこにいるの』
アスタが優しい声で言い、ラセミスタはうなずいて見せた。
「安全なところにいるから心配しないで。ベネットさんは? 高等学校に魔物が乱入したって本当?」
『まあ、耳が早いのね。私も今聞いたばかりなのだけど、どうも本当のようよ。事態が錯綜しているんだけれど、どうもね、一番初めに狙われたのはどうやら、カイル=リーリエンクローンという、この国の宰相だったの』
ぞっとした。
周囲にいて、恐らくは聞いているであろうドリーも使用人の人たちも、ざわめいたりうろたえたりしなかった。プロだなあ、と思ってから、アスタの言葉はアナカルシス語であることに気づいた。
首元に手を入れて、翻訳機のスイッチを切った。それから、自分もアナカルシス語で訊ねた。
「無事なの? 魔物に襲われたの?」
『どうやら、無事、だったようね。カイル=リーリエンクローンを襲ったのは魔物ではなくて、狩人だったみたいなの。噂はずっとあったけれど、まさか本当に来るだなんて……だから、ベネットが今あなたを捜しているわ。数分おきに連絡を入れてくるから、あなたの無事はすぐに伝えられる。だから大丈夫。ラス、構内にいなかったのね? 本当に運が良かったわ。事態が収束するまで、そこにいさせてもらいなさいな。――いいこと、よく聞いてね。目撃された狩人は、……【炎の闇】の特徴と一致するの』
「……なんで……!?」
その名前はあまりにまがまがしく、あまりに強烈な恐怖をラセミスタの胸に突き刺した。
処刑されたはずだ。もちろん、ラセミスタはその処刑の時まで、エスメラルダにいたわけではない。ないけれど、死刑は決まっていたはずだし、万一、判決が死刑じゃなくなっていたなら、大ニュースになったはずだから、ベネットが教えてくれたはずだ。
アスタは気遣わしそうな顔をしていた。ラセミスタは、しばらく考えていた。
そして、いつの間にかグスタフが戻って来ていたことに気づいた。カルムはいない。どうして、と思った。どうして戻って来たのだろう?
でもそれは、自分でも驚くほどほっとすることだった。
『……赤い髪に赤い瞳、中肉中背の、身のこなしが鮮やかな男、というのが目撃情報よ。本当に【炎の闇】だと、決まったわけじゃない』
「狩人で、ほかに、そういう外見だって分かってる人間っているの?」
訊ねるとアスタは、ため息と共に首を振った。
『いないわ』
「狩人というのは確かなの?」
『どうかしら。ただ、宰相リーリエンクローンは事前に、狩人がうろついていて、自分を狙っているかもしれないということまではつかんでいたそうなの。だから、襲われるとすぐに、私に連絡してくれたの、あなたの身を守るようにとね――その場所がどこであれ、安全な場所なのでしょうね?』
ラセミスタは、きっぱりとうなずいた。
「大丈夫。絶対に安全な場所だから。ベネットさんにもそう伝えて。……あの」ラセミスタは、首元に手をいれて、翻訳機を作動させた。「友達も一緒だから、ガルシア語に切り替えて」
『了解』アスタはうなずいて、すぐに流暢なガルシア語で繰り返した。『ともあれ、宰相リーリエンクローンが狙われて、警備兵がそちらに集まっていたところへ――国王陛下とヴィディオ校長のおそばへ、魔物が乱入した、ということらしいの』
『ラセミスタ! 無事だったか!』
ベネットの声が割り込んだ。アスタの画像が消えて、とても人相の悪い、あのベネットの顔が大写しになった。グスタフが一瞬身を引いた。
『お前、どこ――ああいや、いい。言うな。構内にいないなら好都合だ。ひとりじゃねえんならもっと安心だ。混乱が収まるまでそこにいさせてもらえ』
「そうします、ベネットさん。あ――そうだ、魔物が相手なら、寮の四階の談話室に、電流芝と閃光砲があります。弾はないけど、魔力の結晶で代用できます」
『そりゃありがたい。いーか、お前、そこから動くな。目撃されてんのはどう考えても【炎の闇】だ。お前が見つかったから、俺は魔物の方に行くからな。ここの魔女はイリエルだから、魔物相手にすることは承諾しねえだろうからな。寮の四階だな!?』
「他にも知ってる友達がいるから、もう持ち出されているかも知れませんが」
『わかった』
ベネットが消えて、アスタが戻ってきた。アスタはうなずいて見せた。
『魔物と言ってもごく弱い物だそうよ。カルムはお祭りに出なかったそうで、軍の方々が安否を心配しているそうだけれど、ラス、もしあなたがカルムの居場所を知っているなら、伝えてちょうだい。今戻っては余計に危険だから、動かない方がいいって。事態がもう少し収束するまで、その居場所も軍に知らせない方がいいわ。念のためよ』
「追いつけなかった」とグスタフが言った。「止めようと思ったんだが。高等学校へ戻ると思います」
『そう――それなら仕方がないわ。あなたは――グスタフね? ミンスター地区の。ラスと一緒にいてもらえます? カルムの方はこちらで何とかする。保護局員に保護か護衛を頼むわ。だから……ラスをひとりにしておきたくないの。お願いします』
「アスタ、ここは安全――」
「わかりました」
グスタフはあっさり言った。アスタがほっとした顔をした。
『ありがとう。ラス、そこにいなさいね。少なくとも事態が少し変わるまでね。いいわね? また連絡するわ』
〈アスタ〉が通信を切り、ラセミスタは、グスタフを見上げた。狩人がいて、しかもそれがグールドだと言うことになれば、もちろん、不安ではある。でもここは構内じゃないのだ。カルムの家なのだ。心配してもらえるのはありがたかったが、あまりに過保護じゃないだろうか。そこまでもやしっ子じゃない。
「グスタフ……」
言いかけて、言いあぐねた。グスタフは、ラセミスタの言いたいことに気づいたようだった。
「カルムは大丈夫だ。そう簡単には死なない。ケガも治ってるし、一人じゃない。今回はラスの道具もあるし、協力する人間も多いはずだし、カルムのことを殺そうとする人間はもういないはずだ。操獣法の時にあのふたりを逃がせたのだから、どんな計画だったのか知らないが、元々の計画よりは手薄のはずだし。追いつけなかったが、カルムが行って良かったかもしれないと思うことにしよう。カルムは魔物に詳しいようだ。あちらも助かるだろう。――だから」
「……」
「だから」とグスタフは言った。「最悪の事態に備えるべきだ、と思って、俺だけでも戻って来たんだ。それには、ラスの協力が不可欠だ。――頼む。力を貸してくれないか」




