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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
ラセミスタの留学
503/783

日記④

   *


 首都ファーレンに入った。

 その街は、ラルフの目にはきらびやかな大都会に見えた。

 いろいろな物があまりに珍しくてきょろきょろしていたら、グールドに、お上りさんと書いた旗を持ってるみたいだと笑われた。



   *


 今日もすがすがしいほどの晴天だった。


 夜明け前から活気づいた構内は、今では大変なにぎわいだ。ぽんぽんと花火の音がして、人の雑踏や笑いさんざめく声がどんどん充満してくるように思える。エスメラルダのスピーカーシステムは大活躍しているらしく、音楽と、時折流れる連絡事項はここからでも良く聞こえた。


 朝食を食べ、みんなが出かけて、寮は静まり返っていた。

 自室では気が滅入るので、ラセミスタは談話室のソファに、窓に背を向けて座っていた。背中に日の光があたってぬくぬくといい気持ちだが、同じ方向からいい匂いも押し寄せてきている。窓を閉めると余計に切ない気持ちになるので今は開けていた。魔法道具のチェックと荷造りをしようと思っていたのに、ちっともはかどらない。


 お祭りに行けないのは仕方がない。それはそうだ、昨日の講義に詰め掛けたあの人の多さを思い出せば、あのただなかに放り出されてもみくちゃにされるのはごめんこうむりたい。おまけにミンツ――。

 昨日のことを思い出し、ラセミスタはため息をつく。

 ミンツのことは嫌いではないのだけれど。ここのところ、ちょっと苦手意識を持ってしまっている。

 距離が近いのだ。


 リーダスタやカルム、グスタフと言った人たちとは全く違う、何か熱のようなものをミンツから感じる。初めからそうだったような気がするが、操獣法の試験を経てから、もっと強まったような気がする。好意的なものなのは、間違いない。だからこんなことを思うのは、申し訳ないことなのかもしれない。でも、もう少し……あとほんの10センチほどでいいから離れてくれないか、と、身を引きたくなってしまう。


 昨日も、祭りを一緒に回らないかと言われた。それも二人で。

 嫌ではない。嫌ではないのだが、でも、どうして二人で? と思うのだ。みんなで一緒に回ればいいのに。リーダスタやウェルチやチャスクや、カルムやグスタフと言った人たちとみんなで一緒に回ろう、という提案だったら、なんの異存もなかった。喜んで賛同できたのに。


 祭りに行くなと言ってきたベネットの指示に、助け舟を出されたような気分になることもなかったのに。


「はああぁ……」


 しかし、この匂いは暴力だ。

 祭りには屋台が出る。それはエスメラルダもガルシアも、変わらないらしい。


 寮のすぐ目の前の広場にもぎっしりと屋台が立ち並び、匂いがここまで立ち上ってきている。ソースの焦げる香ばしい匂いに混じって、甘い香りも漂ってくる。昨日の講義を引き受けなければ、あの屋台を回れたのだろうか。好きなものを、好きなだけ買って、好きなだけ食べられたのだろうか。さっき覗いた、今は背後にある窓からは、『カステラ』と書かれたのぼりが見えた。その先に見えた『プ』は、もしかして『クレープ』ではないだろうか。それに気づいてからもう、いてもたってもいられなくなって、窓に背を向けて頭を抱えている。なんという恐ろしい罠。


 クレープはエスメラルダにもある、もちもちの生地を薄く焼いて、果物や生クリームを載せ、好きなソースをかけて、くるりと巻いて食べる絶品スイーツだ。生菓子の類に属するから、通販では買うことができず、ラセミスタは今までに一度しか食べたことがない。マリアラとフェルドと一緒に行った、あの広大なショッピングモールで食べたあの味。美味しかった。美味しかった。ああ、本当に夢のような体験だった。自分の胃が一つしかないのが恨めしいくらい種類がたくさんあって、あの時ラセミスタはバニラアイスとストロベリーアイスとブラウニーとホイップクリームとイチゴとバナナとブルベリーソースが全部入ったスペシャル版を食べたのだが、正直なところ盛りだくさん過ぎた。マリアラの頼んだチョコバナナ(+ホイップクリーム)を一口もらったとき、こちらの方が生地のおいしさを余すところなく楽しめた、ということを思い知った。生地が破れず、最後に生クリームとチョコソースが袋状になった底にたまっていて、マリアラは仰向いてそれをぱくりと食べた。あれならほんのり温かな生地と、クリームのおいしさを心行くまで堪能できたに違いない。実のところ、悔いが残っているのだ。教訓、クレープの中身はほどほどの方が結局美味しい。スペシャル版も悪くなかったが、あれを一つ食べるくらいなら、中身をシンプルにしたものを三つ食べた方が幸せだったはずだ。

 あの時得た教訓を生かすチャンスが、すぐ目の前にあったのに。


「あったのにいいいいぃぃぃ……」

「何が?」


 談話室の入り口から声をかけられた。

 カルムである。


「あれ、カルム? おはよう。お祭りは行かないの?」


 ミンツは絶対にお祭りには行かなければならないのだ、と言っていた。ミンツのお父さんはビジネスマンだ。それもかなりやり手らしい。高等学校に入った自慢の息子を伴えば、今まで相手にしてもらえなかった貴族たちにも挨拶ができる、唯一無二のチャンスだ。始めのあいさつには、絶対に顔を出さなければならない。

 リーダスタとウェルチとチャスクは、ラセミスタに同情してくれたけれど、やはり祭りのあいさつ回りをかかすことはできないのだと言っていた。自らの進路を考えるうえで、高等学校のお祭りは、年に何度かしかない重要なイベントなのだそうだ。高等学校を卒業した後、新たに学校に行くにしても、どこかに留学するにしても、就職を考えるうえでも、有力者に会っておくのはこの国では重要らしい。ウェルチは奨学金を得るというようなことを言っていた、エスメラルダの常識では理解しがたいが、ここでは学校に通うのにお金がいるのだ。

 だからてっきりカルムも、とっくにお祭りに行ったと思っていた。


 カルムは寝起きらしく、まだ眠そうだった。ふわああああ、と欠伸をする。眠そうなカルムなど初めて見た。


「やべー、まさかこんなに寝ちまうとは」

「〈毒〉の影響がまだ残ってるんじゃない?」

「そーかも……」

「もう始まってるよ、お祭り」

「いや行かないよ、めんどくせーから」


 カルムは簡単にそう言い、ラセミスタは驚いた。どうして?


「めんどくさいの? ウェルチもめんどくさがってたけど、上級学校に行くのにどうしてもお偉いさんに会っとかないとって言ってた。カルムは……」


 会わなくていいのか、と聞きそうになり、我ながら何を言っているのだ、と口をつぐむ。カルムはとっくに御曹司なのだ。奨学金など必要としないだろう。


「余計な波風は立てたくないから。ラスも大変だな。まあでも確かにあの聴衆見りゃあ、行かない方が安全だな」

「うん……」

「じゃあ」


 少し目が覚めたらしい。カルムはにっこり笑った。


「あれ読んで、あれ」


 そう言えば、そうだった。ラセミスタは、あの日記のデータを預かっているのだった。

 確かに、絶好のチャンスと言えた。頷きかけたところに風が吹き、またひときわ甘い匂いが流れ込んできて、ラセミスタはううう、と唸る。


「……動力が、動力が……足りない……」

「確かにこの匂いは凶悪だな」

「ひどい、ひどいよ。何もこんなに近い場所でクレープ売らなくったっていいのに……!」

「悪いなあ、今日構内うろついてなんか買って来てやるってのはさすがに無理だ。クレープの屋台がどこにあんのか知んねーけど、たどり着ける気がしねえし……あー、そういやグスタフは?」

「行かないって言ってたよ。やっぱり波風立てたくないからって」

「やっぱりか。そんじゃああいつに頼むのも無理だなあ。お前在庫ねえの? エスメラルダから山ほど持って来てるんだろ」


「残ってるわけないじゃん、受験勉強で全部食べつくしたよ」

「……そういや全然知らない言語を一から学んで、半年で高等学校の試験パスしたんだっけな。化け物か」

「いや褒められたもんじゃないですよ。身になってないもん。勉強したんじゃなくて、期間限定で丸暗記しただけだもん。覚えたの、今はぜーんぶ綺麗さっぱり忘れちゃった。ああ、数学はありがたかったな。数字さえ覚えちゃえばやること同じだしね」

「山ン中にはけっこう持ってってただろ」

「残ってるわけないじゃん、昨日、あんな大勢の人の前で話したんだよ?」


 話していたら、グスタフが出てきた。バイトにいそしんでいたのか、腕まくりをして、両手が濡れている。談話室に顔を覗かせて言った。


「あれ読む? ならちょっと待ってくれ。俺も聞きたい。片づけてくるから」

「退院してからもやってんのか」


 ラセミスタとカルムはグスタフの部屋に行った。のぞき込むとその部屋は、昨日医局の病室で繰り広げられていた光景と同じ様相を呈していた。

 部屋中のいたるところに籠やざるが積み重ねられている。今日は火は炊かれていなかったが、真っ黒こげの爬虫類の入った瓶は机の上に鎮座していた。すり鉢とすりこ木がその隣に据えられている。まさか、すりつぶして粉にして使うのだろうか。


「課題行く前に終わんの?」

「大して時間はかからない」

「いやそれにしたって」

「嵩があるから多く見えるが、実際はそうでもない」


 グスタフは言い張り、カルムは苦笑した。


「わかったわかった。じゃあラス、今からここで読んでくれ。な。単純作業だから聞きながらでも出来る。俺こっち、手伝うから、ラスは読み上げて情報を提供しろ。そうすりゃ一石二鳥だ」

「……いや、しかし。昨日も手伝わせたのに」

「ラスー?」カルムが腕まくりをしながら言った。「この期に及んでお前、甘いものないから読めないなんて言わねえよなー?」


 それは確かに断りづらかった。しょうがないな、と端末を取り出すと、カルムはニヤリとしてグスタフに言った。


「早く終わらせよーぜ。甘いものがないと読まないって言うから困ってたんで、ちょうど良かった」

「……悪い」

「何かしてた方が気が紛れていいよ。外からいー匂いがしてくるしさ」


 言いながらカルムは黒こげの爬虫類のところへ行き、瓶からいくつかつかみ出してすり鉢に入れ、躊躇いなくすりこ木で擂った。ラセミスタは一瞬身を縮めたが、音はさくっぱりっと言った感じで、湿った音は一切しなかった。説明を聞かなくてもどのように処理をするべきかわかるなんてすごいことだとラセミスタは思う。

 先ほどカルムはラセミスタを『化け物』だと言ったが、ラセミスタからすると、この人たちの方が十分『化け物』に思える。グスタフは寝台の上に置いたまな板でザクザクと薬草を刻み、抽出液と薬草とを分けて瓶に入れている。その手つきにも全くよどみがない。今までに様々な薬草を扱い、薬を作ってきたのだとラセミスタは思った。なるほど、こんな人たちが受けるような実技の試験なのだ。自分が薬草については手も足も出なかったのは、当然のことだ。


「あー? なんだよ、早く読めよ。待ってんだから」

「あ、どうも済みません……」


 別世界だ、とまた思った。

 ここでは筆記よりも実技が重視される。だから筆記の方は、エスメラルダの水準では易しい方だったのだろう。数学を始めとした理系の教科については、数字と必要な単語だけ覚えれば済むものが多かったから、何とか滑り込めたのだという気がする。入試に実技がなくて本当に良かった、と思いながら、ラセミスタは端末に目を落とした。

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