ラセミスタの講義
大講堂の二階席は、一般の人間は立ち入れない。一般の人々に混じりたくない・または混じることができない一部の人間が利用するために整えられ、座席も通路も一階とは質が違う。広々としたロビーの正面には素晴らしく大きな一枚ガラスの窓が切られており、リーダスタがさっき言ったとおり、正面広場の前にごった返す人々の群れがとてもよく見えた。
大きな通りの両側にたつ色とりどりの屋台とその周りに集まる群衆とで、何か楽しげな祭りを描いた一枚絵のようだ。
「あの屋台、ぜーんぶミンツん家の系列なんだってさ」リーダスタが楽しげに言った。「ミンツから、ラスがここで講演するって話聞いた親父さんが、すぐに手配したみたいだよ。商才あるよねえ……さすが、平民一代で成り上がるだけあるわ」
ロビーにはかなりの人がいた。息子たちから留学生の講演について情報を得た貴族たちらしかった。話しかけられたら面倒だ。そのうちのひとりがこちらに気づき、近寄ってこようとするそぶりを見せた。確か中立派の元貴族。操獣法の試験でヨルグが起こした事件や父がライティグの後ろ盾であったという事実、さまざまな情報が脳裏をよぎる。ああ煩わしい。人のことなんか放っておいてくれればいいのに。
しかしその人がここまでたどり着く前に、二階席の入り口から校長先生が出てきた。中立派の誰かがあげかけた声は校長先生の穏やかな声にかき消された。
「よかった、間に合ったね」校長先生はニコニコとした笑顔でそう言った。「急ぎたまえ、もうすぐ始まるよ」
招き入れられるままに二階席に足を踏み入れる。校長先生は本当に行き届いた人だ。
中は八割方埋まっており、ちらほら残る空席は、ロビーにいる人々のものなのだろう。ここが普段は利用されない特別席であることを考えるとかなりの盛況ぶりだ。
案内された席はリーダスタのいうとおり最上席だった。
ステージには幕がかかっていた。その両脇に、目を見張るほど巨大な四角い窓――ラセミスタは確か、スクリーン、と呼んでいた――が吊り下げられていた。二階席の両端にも小さなものが一つずつ。あの"スクリーン"に、講演者の顔が映るのだろうか。それならば、座席の位置によって講演者の顔が見えないなどという事態は起こりようがない。中に入れない人々も、外でエスメラルダの講演を聞くことができる。
「このシステムを何とかわが校にも設置したいものだ」校長先生は席へ向かいながら夢見るようにそう言った。「頼んではおるのだが、議事堂が先だと言われてしまってね。今年の祭りはスピーカーシステムだけで満足するしかない。が、それでも、今年は会場におれば演説を聞き逃すことはないはずだよ。来年の春の祭りには、構内のどこにいても、演説を聞くだけでなく見ることもできるようにしたい。ゆくゆくは、これがどこに行っても当たり前に体験できるようにしたいねえ」
席に向かう前にブザーが鳴った。ロビーで談笑していた人々が慌てて入ってくる音で少し賑やかになる。カルム、グスタフ、リーダスタが校長先生に示された席は二階席の右翼に当たる場所だった。二階席の前から三番目で、少し身を乗り出せば、一階にぎっしり入った人々の頭が見える。ビロードの貼られたフカフカの椅子が柔らかく体を受け止めた瞬間に、場内のあかりが消えた。同時にスクリーンにぽっと青い光がともった。場内のそこここから驚きの声が上がり――同時に、再びブザーが鳴った。一瞬の静寂。その直後、さっと幕が開いた。ぱあっとまばゆい明かりが光り、目が慣れるとそこにラセミスタがいた。
彼女は高等学校の制服をきて、少し緊張した面持ちだった。会場を見回してにっこり微笑むラセミスタは、もはや到底少年には見えなかった。会場が水を打ったように静まり返り、そこに、ラセミスタの声が響いた。
『皆さん、初めまして。ラセル=メイフォードと言います。私は、エスメラルダからまいりました。優しく迎えてくださった皆さんに、心からお礼を申し上げます』
わあっ、と拍手が上がって、ラセミスタが話し始めるやすぐに静まった。おほん、と彼女は咳ばらいをする。
『今日は、お集まりいただきありがとうございます。エスメラルダの文化をご紹介できるチャンスをくださった王立研究院の皆さまにも心からお礼を申し上げます。ええと、まず、ご紹介したいのは、この講堂に設置させていただきました映像配信システムです。正面のスクリーンをご覧ください』
魔法道具のことになると彼女は堂々として、こう言ったことは初めてではないのだろうという印象を受ける。エスメラルダで、講演などをする機会があったのだろうか。
『このスクリーンは、任意の映像を映すことができます。壇上が見えにくいお席からも、身を乗り出さずとも壇上をつぶさにご覧いただくことができるようになります。それからこの講堂に入りきらなかった人がいたとしても、外の芝生広場にこのスクリーンをもっと大きくしたものを設置させていただきました。外からも私の講演を聞いていただけていると思います。――もしそんなに大勢の人が集まっていればですけど』
まさかそんなに人が来てるわけがないと彼女は思っているらしかった。おほんとまた咳ばらいをして、『エスメラルダでは』と話を続ける。
『こういったシステムと通信網が整備されていて、国内のどこにいても、目当ての人と楽しくおしゃべりしたり、学校の授業を離れた場所から受講したりと言ったことができるようになっています。
ところで、ガルシアではそこまで発展していないですよね。研究者の皆さんから、ガルシアの技術が遅れているから……といったニュアンスの発言を聞きます。でも、それは、ガルシアの技術がエスメラルダに比べて劣っているということではありません』
ほう――といったため息に似た音が聴衆から起こった。ラセミスタはきっぱりと言った。
『ただ必要性があったかどうか、というだけの話です。大気中に含まれている歪みの成分が、電波を阻害することがわかっています。エスメラルダは、ここガルシアのあるリストガルド大陸に比べ、はるか昔から、歪みの被害に悩まされてきました。それに対処するためにさまざまな研究をしてきました。必要に迫られたからです。通信網の整備が可能になったのも、歪みに立ち向かうための研究の副産物と言えます。――ガルシアの皆さんは、ただ必要に迫られなかったというだけのことです。
ガルシアにはただ“歪みの研究”の需要がなかっただけと今申し上げましたが、それと同様に、エスメラルダに存在しない需要や知見がガルシアにはたくさんあるんです。ああ、この国にこられて本当によかった。私は、この国で得た知見と、エスメラルダの歪みの知識を融合し、この国に、全く新しい――エスメラルダに存在しない通信網の構築を模索しています』
聴衆がいろめきたち、ラセミスタはにっこり微笑んだ。
『それについて詳しくお話ししたいところですが、今日は“エスメラルダの技術の紹介”というお題をいただいているので』
ああ――と聴衆が声をあげる。
『また後日に回すことにして、今日は、エスメラルダにすでにあるもので、ガルシアの皆さんにお役立ていただけそうな技術について少しお話しさせていただきます。このスクリーンと通信網についてはすでにお話ししましたが、食料品の保存について……』
スクリーンに色とりどりの菓子や果物、食べ物などが映し出され、聴衆が身を乗り出すのがここからよく見える。カルムはヒヤリとした。
ラセミスタの時間を確保するなんて、絶対に無理だという気がしてきた。今夜はおろか、この先数ヶ月の予定さえ押さえるのが至難の業だという気がする。やはり素直に翻訳機の作成を頼んだほうがよかったのかもしれない。




