三日目 非番(3)
南大島は昨日と全く変わった様子がなかった。
三日月湖のほとりに設えられた司令部で、ステラは眉を顰めてよれよれのファイルを覗き込んでいた。が、マリアラとフェルドの来訪に気づいてぱっと顔を上げた。
「あら、来てくれたの? ごめんね、非番なのに……疲れてない?」
「ええ、大丈夫です。午前中ぐっすり寝たから」
「俺も。ちょうど暇してたところ」
フェルドが言って、マリアラはホッとした。大したことじゃないのに引っ張り出したようで、少々気が咎めていたから。
ステラは周囲を少し窺うようにしてから、よれよれのファイルを二人の前に開いてくれた。
「漏れがあった箇所は黒で記してあるわ。……ごめんなさいね、二人とも。昨日ちゃんとチェックしたのに」
見取り図を覗き込んで、マリアラは指を伸ばして黒い箇所に手で触れた。昨日マリアラとフェルドが浄化した広い範囲に、ぽつぽつと黒い点が見える。ダニエルは『大した量じゃない』と言ったが、かなり多い。マリアラは眉を顰めてそれを見た。
「昨日、私たちちゃんとチェックしたのよ。測定器で、ちゃんと……それなのに」
ステラが不満そうに、そして少し不安そうに呟く。原因が確定しないのは、それは不安だろう。と、まだ浄化されていないエリアに、ぽつりと小さな丸が描かれているのに気づいた。何だろう、この印。昨日まで気づかなかった。
「あの……」
この丸は何ですか。そう訊ねかけた、その時だ。
「よお、来たのか。意外に早かったな」
森の中から出てきた若者が声をかけてきた。ダスティンだ。マリアラは反射的に身構えた。二週間前の研修ですっかり苦手意識ができてしまった。ダスティンはマリアラの反応には全く気づいた様子もなく、機嫌良くフェルドに言った。
「急いで飛んできたことは褒めてやるよ。でも気をつけろよな。お前魔力は強いけど大ざっぱなんだから――まあ細かい作業が苦手ってのはしょうがないけどさ、あんまりずさんなことされると他に迷惑がかかるんだからな。俺が気づいてなかったら見過ごされて、全部の浄化作業が水の泡ってことになりかねなかったんだぜ」
紛うことなき非難の口調。マリアラはダスティンに向き直った。
「ダスティン、これは魔力の強弱とか大ざっぱとか、そういうレベルの話じゃないと思います。あのやり方でこんなに漏れが出るなら、それは誰がやっても」
ダスティンはマリアラに向き直った。
「別に責める気はないよ、新しいやり方には失敗がつきものだしな。でもこれで君もわかっただろ。魔力が強いってだけで闇雲に信じたらこういうことが起きるんだ。前代未聞だとか言われてるけど、頭の中身は普通の人間なんだからね。魔力が強いからって提案を全部鵜呑みにするのは危険だよ」
唖然とした。どうしよう、と思った。ダスティンが何を言っているのかわからない。こちらの話も全然通じている気がしない。
ステラが鋭い声で割り込んだ。
「保護局焼却隊のチェックでも、汚染箇所の漏れはなかったのよ、昨日の段階では。ダスティン、いい加減にして欲しいわ。新しいやり方でミスが見つかるのは、どちらかと言えばシステムエラーに近い。従事者を責めるよりも原因を究明して対処法を見つける方がずっと建設的――」
「それはもちろん、お願いしますよ。ただ俺は、魔力が強い人間の意見が盲目的に崇拝される現状を憂えているだけです。皆もこれで目が覚めるといいんだけど」
ダスティンは言いたいことだけ言って、機嫌良さそうに離れていった。マリアラがようやく呪縛から解放されたとき、ダスティンの後ろ姿は森の中に消えるところだった。マリアラはステラを見た。ステラは忌々しいと言いたげに憤然と息をつく。
「何ッなのよ、あの鬼の首取ったみたいな勝ち誇り方! ねえマリアラ、あいつだけはやめときなさい、あいつが相棒になったら絶対苦労するわよ!」
マリアラは声を潜めた。
「そうしたいのは山々なんです。わたしが拒否してどうにかなります?」
「……まあどうにもならないだろうけどね! でもさ! 腹立つじゃないなんなのあいつ! 相棒の座を射止めたりしたらどれだけ勝ち誇るか、考えただけでイラッとするわ……!」
「そうか……どうにもならないのかあ……」
がくりと肩を落とした。それならば、研修が三週間も延びたことに何の意味があるのだろう、と思わずにはいられなかった。あの時は良く知らないで済んでいたダスティンの難しさを、今は嫌になるほど知っている。この後ダスティンが相棒になることが決まるなら、ただ嫌悪感を募らせただけの、無駄な三週間ということにならないだろうか。
「ダニエルに言いなさいダニエルに! 『あいつだけは嫌ぁ……!』って泣きつけば、何とかしてくれるんじゃない?」
「そうかな……そんな発言権あるんでしょうか……」
「きっとあるわよ、だって【親】だもの! ダニエルがどれだけあんたのこと自慢してるか知ってる? 自慢の愛娘の苦境を知ったらきっとダスティンなんか小指でぽいっと投げ飛ばしてくれるわよ!」
「小指で!? すごい! できそう!」
マリアラが言った瞬間、フェルドが吹き出した。ステラがフェルドを睨んだ。
「あんたも怒りなさいよ! 言われっぱなしでどうすんのよ!」
「うん、怒っていい! 怒っていいと思う!」
「うんまあね。でも今度のは別にいいよ。あれはわかりやすい負け犬の遠吠えだからさ」
フェルドはニヤリと笑った。
「俺が提案したってことになってる浄化の方法があんまり皆に褒められるから悔しかったんだろ。言わせときゃいいよ、別に実害なかったし」
「大人の対応……!」
「何よ余裕じゃない……いちいち反応するあたしたちが子供みたいじゃない……すかしやがって何さこのやんちゃ坊主……問題児のくせに……」
「え、問題児だったの?」
「ねえマリアラ、ダスティンは絶対やめた方がいいけど、この子もできればやめた方がいいわよ。冒険大好き放浪児だから、それはそれで苦労するから」
「え、放浪児だったの!?」
「どさくさ紛れに悪評吹き込むのやめてくれませんかー」
「まあとにかく」ステラはぽんとマリアラの肩を叩いた。「今日、ダニエルとララがあなた方と同じやり方で一日浄化してみて、明日の朝再度チェックすることになってるの。あなた方、明日また当番日だったわよね。そもそも新しいやり方を導入するときには何週間もかけて最適な方法に洗練していくのが普通なんだから、一度でうまくいかなかったからって気にする必要は全然ないの。今日はもう帰りなさいな。明日に備えてゆっくり休まなくちゃ――あら」
話している途中で、ステラは誰かに気づいた。ぽっとその頬が赤くなった。
「が、ガストンさん――お疲れ様でぇーす♥」
マリアラはギョッとした。ステラの声が急にとろけたのだ。
振り返ると、少し離れた場所に、見覚えのある人が立っていた。ちょっと前からそこにいて、こちらの話が終わるのを待っていたらしい。ステラは頬をぽうっと染めて、いそいそと司令部の机を回ってこちらに出てきた。
「ステラ、君の話はもう終わったか」
ガストンはゆっくり歩いてくる。思い出した。ジルグ=ガストン。仮魔女試験の時にリンを助けるのにたくさん協力してくれた、確か保護局の指導官ではなかっただろうか。
あの時はじっくり彼と話をする余裕がなかったが、改めてこうしてみるとなるほど、リンの言ったとおり『すごーくカッコイイおじさん』だった。年の頃は四十をいくつか過ぎたかどうかと言うところだ。美形と言うよりは男前と言った方がしっくりくる。警備隊の制服ではなく、清掃隊の制服を着ているのに、一張羅のスーツを着ているみたいにぱりっとして見える。
「済まないが、少しだけ、マリアラ=ラクエル・マヌエルと話をさせてもらえないか」
「あ、はいぃ♥ 私はもう終わりましたので、どうぞどうぞ♥」
「ありがとう」
にこっと笑ったその笑顔で、ステラがよろめいた。気絶するのではないかと思ったが、彼女は慣れているのか、座り込む前に急いで机に戻って椅子に座った。はあぁ……悩ましいため息が漏れ、マリアラは何だか感嘆した。ガストンという人は、よほどに人気があるらしい。