第一章 仮魔女と友人(2)
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マリアラの方も、『遭難者』がリンだと、知らされていなかったらしい。
箒に乗って舞い降りて来たマリアラは、地面に降り立ってからも、目を丸くしてリンを見ていた。そして――一瞬、身構えるような顔をした。そうだろうなとリンは思う。
リンは、マリアラが孵化をした後、同じ寮の友人たちが手のひらを返したようにマリアラを阻害したことをよく知っていた。孵化で四日眠った後、目を覚ましたマリアラを待ち構えていたのは、かつて仲間で友人で家族だった子たちからの、冷たく陰湿な態度だった。
――そうだ。あたしは知っていたのだ……
「ひさっ」「ひ、さ、」
あげた声は同時だった。リンとマリアラはまた同時に口をつぐんだ。気詰まりな沈黙が落ちそうになり、リンは慌てた。
「しぶりっ」「ひさしっ」
また同時に言ってしまい、見つめ合う。マリアラの頬が赤く染まっているのを見て、リンは、
「……『しぶり』ってなにあたし!」
思わず叫んだ。マリアラと目が合った瞬間、驚くほど強い笑いの塊が腹から込み上げ、リンは吹き出した。マリアラもだ。
「『しぶり』だって……! やだもー何言ってんだろ、あはははははははっ」
「わたしも噛んじゃった……『ひさシっ』ってなっちゃった」
マリアラが言うのでまた笑った。孵化して魔女になったのに、それでもマリアラはマリアラだった。ちっとも変わっていなかった。笑いの発作は数分は続き、リンは笑いながら、それならば言わねばならない、と思った。言わねばならない、言わねばならない、言わねば……
「……ごめんマリアラ!」
笑いの発作が収まった一瞬にリンは勢いよく頭を下げる。マリアラが息を飲み、リンは頭を下げたまま呻いた。
「一年前……ほんとごめん。会いに行けばよかった。行けなかったんだ……マリアラが仲間外れにされてるって、あたし、知ってたの、なのに、」
「やだ……リン」
マリアラは慌てたようにリンの腕に手をかけた。
「そんなの、あの、気にしないで……寮が違うんだし、リンに冷たくされたわけじゃないんだし、たったの二日間だったんだし、あの」
「ずっと気になってて……気になってたのに、謝りに行くこともできなかった。さっきまで、あたし、仮魔女がマリアラだったらどうしようって思ってた」
「リン……」
「ごめん。本当にごめん。ごめんなさい」
うつむけた視界の中に、マリアラの手が見えた。少しだけ挙げられた手は、マリアラの内心を表しているようにリンには思えた。リンの腕に触れようかどうしようか、迷うようなその動きに、リンは唐突に、ああ本当にこの仮魔女はマリアラなのだ、と思った。孵化したって、性格まで変わるわけじゃない。学校で教わるその知識が、本当なのだと実感した。
この子はリンの大好きだった――大好きな、友達の。
マリアラに、間違いなかった。
「でも今は嬉しい」
顔を上げてリンは言った。
前からずっとそうだった。マリアラはリンが自分の気持ちを打ち明けても、絶対に笑ったり茶化したりしない子だ。
だから言える。
「また会えて、今は、ほんとに嬉しい」
「……わたしも嬉しい」
泣きそうな顔でマリアラは言った。その言葉にはひどく重い、真摯な、心情がこもっていた。
「本当に嬉しいよ、リン……」
マリアラは照れたように笑った。リンも笑顔になった。一年間抱え続けた心の重荷が急にふうっと取り払われて、何だかすごく、ほっとした。
それから二人は、決められたルールに則って、一連の手続きをこなすことにした。
リンはまず、発信機を止めた。『遭難者』はマヌエルに保護されたら、発信機を停止させる義務がある。もう救出の必要がなくなったことを、〈アスタ〉に知らせるためだ。
マリアラの方はもう少しやることがあるらしい。書類挟みを取り出して、ペンを片手にのぞき込んだ。
「えっと、それでは、質問をしますので答えてください。お名前は」
「えっ! あっ! リン=アリエノールですよろしくお願いします!」
「あ、こちらこそ、マリアラ=ラクエル・ダ・マヌエルです。よろしくお願いします。……ええっと、発信機番号をお願いします」
リンは首にかけたペンダント型発信機を引っ繰り返し、そこに彫られた認識番号を読み上げた。
「Cの、601の、Gの、2」
「ご所属の寮は」
「ウルク地区の女子寮三十二番」
「遭難の目的は」
「……遭難したくてしたわけじゃないよ!」
「だってここにそう書いてあるんだもん」
マリアラは笑い、リンはのぞき込んだ。確かに、遭難の目的、とはっきり書いてある。これはユーモアなのか、それとも本気なのか。
「あのね、課題に来たんだけど、道に迷ったんです」
「はい。課題ってどんな?」
「【壁】の向こうにさ、魔物がいるって聞いてさ。一度見てみたかったんだよね……」
リンは告白して、へへへ、と笑った。マリアラは目を丸くしている。
「話には聞いたけど……見えるかな」
「だからこの機会にぜひ……その……。ほ、箒に乗せてもらえれば、遠くまで見えるかなって……」
「ああー」
マリアラは納得したようだった。リンはもじもじした。魔女の箒は、一般学生みんなの憧れだった。親族や友人の中に魔女がいれば乗せてもらえるが、リンにはいなかった。今までつきあってきた男の子の中にも。ダリアに頼めば乗せてもらえるように誰かに頼んでくれたと思うが、それはなんだか、ずるいような気がして頼めなかった。
「じゃあ、ちょっと待ってね。〈アスタ〉に連絡したら、一緒に行こ」
マリアラはあっさりとそう言った。リンはちょっと震えた。マリアラは本当に箒を持っているのだと、思って少し気後れがした。孵化しても性格まで変わるわけじゃないけれど、それでも環境はがらりと変わる。一年前のマリアラに、どんなに頼んでも、箒に乗せてもらうことはできなかった。
でもそんなの、当たり前のことだ。リンだってこの一年間で、できることはいっぱい増えた――はずだ。
無線機で簡単に〈アスタ〉への報告を終えたマリアラは、無線機をしまって微笑んだ。
「じゃ、行こっか」