ワイズ氏の訪問
朝だ。
人の気配で目が覚めた。
あたりはまだ薄暗かった。カーテンの隙間から漏れる外の光を見ると、夜明けを迎えたかどうか、というところではないだろうか。
カルムの目を覚まさせたその人の気配は、扉の前に立ったところだ。廊下を歩くのに特に足を忍ばせる様子はなかったが、ノックをするかどうか迷い、結局やめた。ドアノブに手をかけ、そっと扉を開ける。
――誰だこんな時間に。
アーミナでも他の医師でも看護士でもない。先生方でも学生でもない。はっきりとした異質な存在だ。謎の人物はひそやかな動きで中に入り、扉をそっと閉じた。廊下の明かりが遮断された薄明りの中で、その人は、持ち込んだ椅子に座ったようだ。ついたての向こうにいるから顔は見えない。
その時にはすっかり目が覚めていた。相手には、どうやら害意はないらしい。こちらを起こそうとする様子もない。ついたての向こうで、ただカルムが起きるのを待っているようだった。
数日前のことを思い出した。ミンツがラセル――ではない、ラセミスタの部屋の前で、彼女が起きるのを待っていたという話を。
エスメラルダの話を聞きたかったミンツは、彼女が起きたらすぐに話しかけられるよう、夜明け前からそこに陣取っていた。もしもあの無礼な先輩二人がラセミスタの部屋に乱入しなかったなら、ミンツは平和的に、ラセミスタから魔法道具の話をたくさん聞くことができただろうに。
ミンツには、ラセミスタを起こす意図はなかった。万一にも留学生が、自分の知らない間に他の新入生たちと朝食に行ってしまうことがないようにという意図だった。つまり今回もそういうことなのだろう。
しかし少々気味が悪いというか、煩わしい行為であることは確かだった。早く追い出してしまおうと、声を掛ける。
「何のご用ですか」
ついたての向こうで、椅子がガタッと鳴った。闖入者の度肝を抜いたらしいと思うと、やや溜飲が下がる。
「や、……やあ、起こしてしまって申し訳ありません。いささか火急の用がありまして……まったく、申し訳ありません。ご無礼をお許しください」
流暢なガルシア語。かすかなイントネーションの違いがなければ、王立研究院の事務担当官かと思うところだ。教科書どおりの、文法まで折目正しい話し方。国会や王宮主催の宴遊会を進行する司会なら、こんな発音をするだろう。
エスメラルダ人だろうか。
そう思い至ってゾッとした。昨日のラセミスタの声が耳によみがえる。
――もしもエスメラルダから、この日記のことで人がたずねて来たりしたら……素直に返した方がいい……
カルムは起き上がり、上着を羽織った。
カーテンを開けるとまだ薄暗い。部屋の明かりをつけ、「どちら様ですか」と言いながらついたての向こうを覗き込んだ。そこにいたのは見覚えのある初老の男だった。誰だっけ、と思う。エスメラルダ人の知り合いなんて二人しかいない。ラセミスタと、アーミナ先生と。
いや違う、もう一人いた。昨日医局を"脱走"して戻った実家で、エスメラルダの外交官に会った。確か、ワイズさんと言ったはず。
思い出すと同時に確信した。そうだ。この人だ。
カルムは、内心で気を引き締めた。エスメラルダ人が、こんな朝早くに訪ねてくるなんて。この日記、大変なものだ……ラセミスタの青ざめた小さな顔が囁いてくる。エスメラルダから訪ねてくる人がいたら。素直に返した方がいい。読めなかったと、嘘をついて。
「大変申し訳ございません」ワイズ氏はそう言いながら立ち上がった。「こんなに朝早くから押しかけた不躾をどうかお許しください。やむを得ぬ事情がございます。昨日お目にかかりました。エスメラルダより公務で来ております、私の名前は、ワイズと申します」
「もちろん覚えております。昨日は見苦しいところをお見せしまして」
カルムは挨拶を返し、わざとあくびをかみ殺した。ワイズの罪悪感をあおっておく。えーえーリーリエンクローンの人間ですからエスメラルダの外交官の無礼をとがめたり不快に思ったりはしませんけどー、と、視線を窓の外(まだ明るくなりたて)と時計(なんと六時前だ)に向けることでアピールして、カルムは微笑んで見せた。
「昨日の今日で、またお目にかかれるとは思っていなかったので。ちょっと驚きました。おかけください、お茶でも……?」
「とんでもないことです。すぐ退散いたします」ワイズは居住まいを正して頭を下げる。「申し訳ない……無作法ながら、用件を申し上げます。先日ご実家でお目にかかった時ですが」
「はい」
「書庫にご用があられたとうかがいました。――お父上のお話では、療養中に読む本を探しに来たのだろうということで。何か」にっこりとワイズ氏は笑った。「おもしろい本がございましたか」
やっぱりだ。あのノートを取りに来たのだ。
動揺を表に出さない訓練くらいは受けている。カルムは頷いて見せる。
「ああ、そうなんです。そうだ、ちょうどよかった。ちょっと、見ていただいてもいいですか? 読もうと思ったんですが、さっぱり読めないんですよね」
中身は、ラセミスタが保存(?)してくれた。いつでも読めると請け合ってくれたから、渡しても大丈夫。
カルムは寝台の方に引き返し、棚に載せていた書類入れを取った。
「入院中に、いい機会だからアナカルシス語の勉強でも、と思ったんですけど。昨日は〈毒〉のせいか、全然頭が働かなくて……」
ワイズ氏が、近づいて来た。宝物に忍び寄る探検者のように。
カルムは書類入れからノートを取り出し、ワイズ氏に差し出す。
「アナカルシス語だと思うんです。読めますよね。何なんですか、このノート」
「それは日記です」こともなげにワイズ氏は言った。「エスメラルダの著名な人物が書きました。リーリエンクローン家の蔵書に存在するとうかがいましたから、昨日、お邪魔しました。二冊は見つけたのですが、もう一冊あったはずのものがなくなっていると。うかがったので、今日、こんな朝早くに訪問しました。失礼とは思いましたが」
「よっぽど重要なものなんですね」
「いいえそれほどではありません」ワイズ氏はにっこり笑った。「ですが、貴重なものでもあります。エスメラルダの歴史を解明する研究者にとっては。歴史上に存在する重大な謎を解明する手掛かりとなると言われています。重ね重ね、失礼を承知でお願いしたい。これを、預からせていただくことはできますか。本国へ送って研究したい」
「三冊とも? 中身は同じようでしたけど……見た感じ、ですが」
「ああ、中身が問題ではありません。私たちは紙の材質とインクを調査したいと考えています。それと、模写した人間たちについて知りたいのです。微妙に言い回しが違ったり、表現が違ったりしている、それらを元に、時代背景を推理したいというわけです。これほど大勢の人間に模写された文献は他に現存しない、重要なサンプルです。中身はつまらないものです。聖職者の日常なのです」
「聖職者の?」
「朝何時に起きて何をして、昼まで祈りを捧げ、午後は奉仕活動を行い、夜には眠る、など。葡萄酒の作り方、神への作法、等々、信者にとっては重要な情報ですが、信者以外にとっては退屈なものでしょう」
「そうですか。じゃあ、入院の暇つぶしになんか、そもそもならなかったんですね」
苦笑すると、ワイズ氏はうなずいた。
「がっかりなさったでしょうね」
「いえ、ちょっと面白そうだなと思っただけなので。アナカルシス語の勉強なら他にもっといい教材があるでしょうし」
「よろしければ、あとで、よさそうな書物をお持ちしましょう」
「お気になさらずに。ラスにも聞けますから……どうぞお持ちください」
「ありがとうございます」
ワイズ氏は、深々と頭を下げて、ていねいな手つきでノートを大きめの布でくるみ、鞄にしまった。それから、にこりとした。
「ラス。ラセル=メイフォードのことですね。今日はあの子の講義があるとのことですが、聞きに行かれますか?」
「そうですね。ずいぶん体調も良くなりましたし――」
本来なら行かないところだ。カルムは極力、貴族が集まりそうなイベントには行かないことにしていた。
しかし今日は、行ってもいいような気がした。王立研究院の月例講演会は、毎回それほど注目を集めるものではない。今回は普段よりも集客力はあるかもしれないが、時間ギリギリに入るようにすれば、それほど話しかけられることもないだろう。何よりエスメラルダ最先端の技術を紹介してもらえる、またとない機会だ。
「……今日は暇だし、行ってみようかな。すごいもんですね、エスメラルダの技術って。魔法道具制作の試験を見ましたが、本当に、魔法みたいだった」
「まあ、あの子は……あの子は、特別です。エスメラルダでも稀有な天才と目されていました。仲良くしていただいてありがとうございます。先ほどうかがいました。昨夜、一緒に夕食を取られたと」
よく知ってるな。警戒心が疼いた。
アーミナ先生は、ラセミスタが来たときに、カルムがあの日記を取りに行ったことを知っている。そこまで調べられていないといいのだが。
「あの子に」さりげない口調で、ワイズ氏は言った。「このノートの翻訳を頼まなかったのですか?」
「……あー、そっか。その手がありましたね」カルムは苦笑して見せた。「そういやそうだ。すっかり忘れてましたよ。そうか、頼めばよかったな。まあ中身が聖職者の日常じゃあ、頼んでも意味なかったですけどね」
「そうですなあ」
ワイズはにこやかにうなずいた。そして、立ち上がった。用は済んだのだろう。日記を手に入れ、カルムと、それからラセミスタが、中身を読んでいないと確かめたから。
「朝早く、誠にご無礼をいたしました。エスメラルダへ出す荷の便が、朝食後にちょうど出るものですから、できれば一緒にいれたいのです。次は半月後ですから」
「本国から遠く離れた場所での生活、さぞ大変でしょう」
「いいえ、お父上を始めとする重鎮の方々に、とても良くしていただいております。とても快適に暮らしています。しかしあの子はまだ慣れないでしょう。くれぐれもよろしくお願いいたします」
それは本心だろうかと、カルムは思う。
思いながら、にっこりした。
「ご安心を。すぐ慣れるでしょう」




