三日目 非番(2)
部屋に帰っても、ルームメイトはいなかった。もう九時半を回っているから、工房に出勤したのだろう。
シャワーを浴びて帰ってきても、やっぱりいない。当たり前だ。仕事中なのだから。
マリアラはベッドにぼすんと倒れ込んだ。――疲れた。
昨日は結局出動がなく、仮眠室で五時間近くは休めたのだが、疲労が体の奥底にこびりついて、ちっとも取れた気がしない。
ルームメイトと軽いお喋りができていたら……誰かと親しく、言葉を交わすことができていたら。願ってもしょうがないことを願ってしまう。ひがみっぽい気分になってしまう。仮魔女寮が恋しかった。仮魔女寮には少なくともマージはいてくれたのに。
なんてわたしは、子供なんだろう。そう思いながら、そのまま眠った。
次に目が覚めたら二時だった。四時間近く眠ったことになる。
ルームメイトは、やっぱり戻ってこない。
でも、自分の部屋のベッドで熟睡したお陰で、少し元気が出ている。空腹だった。あの子たちはちゃんと空腹を満たせているのだろうか――そんな考えが頭をよぎる。壁に作り付けのパネルを起動し、一番質素に思えるメニュー、おにぎり二つとお漬物、お味噌汁を注文する。そして自分の浅はかな選択にまた落ち込む。食べ物を質素にしたって、何の埋め合わせにもならないのに。
届くのを待つ間にそそくさと着替えを済ませた。今日は非番で、一日休みだが、とても【魔女ビル】探検など行く気分ではない。図書室にでも行って、薬の勉強をしよう。先日買った動きやすい厚手のジーンズとワンポイントのついたトレーナー生地のパーカーを着て、髪をまとめて編んだ。
食事が届いた。おにぎりは美味しかったが、なんだか味気ない。もそもそと食べていると、壁に作り付けのスクリーンがぽっと明るくなった。
優しい顔立ちのきれいな女性の顔が映る。
『あら、マリアラ、起きていたのね。おはよう――でいいのかしら、今から寝るところじゃなかった?』
〈アスタ〉だ。マリアラは少々居住まいを正した。何の用だろう。昨日のことだろうか。
「ううん、起きたところ」
『そう。どうしようかな、ご飯中だったのね』
少し入り組んだ話らしいとマリアラは悟った。やはり、昨日のことに違いない。
あの子たちはちゃんと食事を食べただろうか。どうしようもないことだとフェルドには言ってもらえたけれど、だからと言って割り切ることはできそうもない。
「食べながらでもよかったら聞くよ」
『うーん。ちょっと消化に悪いような気がするわ……。ダスティンから連絡が入ってるんだけど』
「え、ダスティン?」
昨日の話ではないのだろうか。マリアラは急いで残っていたおにぎりを飲み込み、お味噌汁を飲み干した。確かに消化に悪いような気がする。
片づけを終えて、どうぞ、と言うと、〈アスタ〉が言った。
『ええとね。昨日のあなた方の働きは素晴らしかったでしょう、一日であれほどの面積を浄化できるなんてまさに画期的。ブレイクスルー、とすら言える。今朝からダニエルとララも早速そのやり方で、仕事にかかろうとしたんだけど……昨日ステラが書き込んだ『浄化済み』の範囲と、現状が合わない、という話があってね』
「ええ!?」
マリアラははじかれたように立ち上がった。
昨日の夜のことがあまりに衝撃だったので忘れかけていたが、確かに、フェルドが新しいやり方を提案してくれたのは昨日のことだ。
「現状と合わないって、どういうこと?」
『うーん……ちらほらと、浄化漏れがあったようで……でも微々たるものなの、だからダニエルとララが漏れてた部分は片づけたわ、だから大丈夫なの。でもダスティンがあなたに連絡しろってうるさくて』
「どうしてダスティンが……?」
マリアラはなんだかぞっとした。嫌な予感がする。
『あんまり気にしないでね。ダスティンは気が立ってるだけだから。ただ自分で【魔女ビル】に戻ってあなたに話しに行くって言うもんだから、それよりは通信の方がいいんじゃないかと思って』
「それは……ありがとう」
『いえいえ、つなぐわね。大丈夫、ダニエルとララはあなたに連絡取れなんて言わなかったもの、大したことじゃないの。ダスティンは騒ぎたいだけなのよ――』
〈アスタ〉の映像が消え、次に映ったのはダスティンだ。騒ぎたいだけだ、と〈アスタ〉は言ったが、彼は別にわめいたりはしていなかった。とてもまじめな顔はしているけれど。
『非番なのにごめんな』
謝りまでした。マリアラは首を振る。
「いえ」
ダスティンは制服姿だ。焼却隊の勤務中なのだろう。
「お疲れ様です……お仕事中、どうしたんですか?」
『昨日新しいやり方、見つけたんだろ。なんか水の中に汚染箇所を沈めて、水に浄化を助けてもらうってやり方』
「はい」
『言っておかなきゃいけないと思ってさ』ダスティンは沈鬱な顔をした。『あのやり方を過信しちゃだめだよ。ずさん――浄化漏れが多すぎるんだ。一回戻って確認するのを怠っちゃダメだって、伝えないとって、思って』
ずさん。
ダスティンの言い直す前の表現が、胸に刺さった。
マリアラは先を続けようとするダスティンの言葉を遮った。
「ダニエルは? そこにいますか」
『え? いや、いな――あ、来た。ちょうど来たよ』
ダスティンが身を引き、彼に入れ替わるようにダニエルの鬼瓦じみた顔がスクリーンに映った。ダニエルはどうやら怒っている。黄金の眉毛が寄っていて、眉間にしわができている。
「ダニエル。浄化漏れがあったって、今聞いたんだけど」
『お前に知らせる必要はないって言ったんだ。そんな大した量じゃない』
ダニエルの言葉にダスティンの声がかぶった。
『知らないでこのままずさんな浄化続けてったら汚染が見逃される、だから』
『知らないままで続けさせるとは言ってないだろ。非番で休んでるときに無理やり連絡してまで知らせるほどのことじゃないって言ってるんだ!』
ダニエルが珍しく声を荒げ、ダスティンは沈黙した。マリアラはスクリーンに顔を近づけた。
「ダニエル。浄化漏れって、どれくらいだったの」
『大した量じゃないんだ』ダニエルは繰り返した。『まあでも、あったことは事実だ。しかしあの方法はこのまま続けてくれないと困る。漏れは微々たるもんだし、焼却隊がチェックして燃やせばいいくらいの量なんだ。ちゃんと対処できる』
「そんなのありえないよ」
マリアラは言った。ダニエルが目を見張り、マリアラはさらにスクリーンに顔を寄せた。
「ダニエル、わかるでしょう。あのやり方で、漏れがあるなんてありえないよ。汚染箇所を漏らす方が難しいよ、そんな加減なんてできないもの。やってみた? それなら、わかってくれるでしょう?」
『確かに』
ダニエルは重々しく認めた。マリアラはそわそわした。でも、現実に、浄化漏れはあったのだ。ここでありえないとわめいたって、現実は変わらない。
『確かにそうなんだが……とにかく今は通常どおり、浄化を進める。それで、焼却隊にチェックを依頼する。俺もお前も『ありえない』と思っていても、何らかの見落としがあるのかもしれん。それしかできることはないから、お前に連絡する必要はないって言ってたんだ。非番なのに騒がせて申し訳なかった。ゆっくり休んでくれ』
ダニエルは通信を切った。ダスティンはどうやらダニエルの目を盗むようにして連絡してきたらしいとマリアラは悟った。それに気づいて、ダニエルがやってきたのだろう。
ダスティンの意図はわからない。でも休みだからといって手をこまねいてなんていられない。
汚れてもいいようにスニーカーを選び、パーカーの上から、丈の長い撥水仕様のダウンジャケットを着て、念のためにと巾着袋をポケットに押し込んだ。今日は曇りだ。海の上は寒いだろう。手袋をきちんと嵌める。
「〈アスタ〉」
声をかけると、沈黙していたスクリーンにまた光が灯った。きまり悪そうな〈アスタ〉の顔。
『なあに、マリアラ。あら……行く気満々ね。今日は非番なんだから、気にしないでいいのよ?』
「ううん、いいの。どうせ暇だから」
『本当にもう、ダスティンったら』
「あの、〈アスタ〉」マリアラは意を決して囁いた。「フェルドさん……フェルドが今、どこにいるかわかる?」