エスメラルダの『氷の女王』(中)
グムヌス議員の手引きによってミランダがウルクディアに『逃亡』してから、校長は、フェルドとマリアラの動向に神経をとがらせている。〈彼女〉はそれが心配でならなかった。
グムヌス議員は、ガストンの後ろ盾のひとりである。ミランダを逃がしたあの策――まだ効力のない辞令を持って、他には何も持たずに〈駅〉へ行って鉄道に乗り、外部の協力者の庇護に入る、というあの策は、ガストンが考え、フェルドとマリアラのために調えたものだった。グムヌス議員は辞令の発行を依頼され、ミランダを加えるようガストンに依頼し――独断で、計画からマリアラとフェルドを省いた。ミランダだけを、確実に逃がすために。
マリアラとフェルドは未だにエスメラルダの中にいる。ガストンは、ふたりの身に危険が迫っていることを知っているはずだ。もうすぐ春だ。真冬の間はふたりをめちゃくちゃに働かせ、余計なことを考える暇を与えずに済んでいた。しかし春が来れば出動はぐんと減る。夏はマヌエルの休暇の季節だ。仕事に余裕ができたら、フェルドはまた世界一周の計画を練り始めるだろう。
そうなる前にふたりをどうにかしてしまおうと校長が考えるのは、自明の理である。
「ないですね」
ヘイトス室長は冷たい声で言った。
「ふたりとも勤勉です。与えられた仕事をきちんとこなしています。四月に入ってからも、休日はほとんどなく――」
「だがまだ手紙を書いてるんだろう?」
ジレッドは馬鹿にしたように言い、ヘイトス室長はため息をつく。
「ええ。毎週書いていますね」
「へええ、毎週! 欠かさず?」
「ええ、欠かさず」
「それがあの人の気に触ってんだよ」ジレッドはソファの背もたれに背を預け足を組み指を組み合わせた。「ほんとに抜いてんのか。ガルシアのお友達からの手紙は一通もあの娘んところに届いてねえんだろう? ちゃんと抜いてんだろ? な?」
「……抜いています」ヘイトス室長はため息をつく。「常識で考えて――そろそろ手紙の頻度が減ってもいい頃合いです」
「返事もねえのになんで毎週書いてんだ。あの人はそれが信じられねえんだよ。あんたが裏切ってんじゃねえのか。ガルシアのリズエルと綿密に連絡を取り合って逃げる計画を立ててるんじゃねえのかって――」
「心外ですね」
ヘイトス室長は引き出しを開け、手紙の束を取り出した。色とりどりの封筒が輪ゴムで束ねられていた。その束は三つもあった。〈彼女〉は胸をつかれた。
見覚えのある、整った、几帳面そうな字。
マリアラが、ガルシアのラセミスタに宛てて、毎週書いている手紙。そのものだった。
「全てここにあります。こちらが」ヘイトス室長はまた引き出しから別の束を取り出した。「……ガルシアのラセミスタ=メイフォードからマリアラに宛てた手紙です」
「すげえ量だな。律儀に全部取っといてんのか。早く処分しろよ」
「処分していたら、“抜いた”と証明できなくなりますから……とにかくマリアラは、もちろんフェルディナントも、ガルシアのラセミスタとは連絡を取っていません。〈アスタ〉経由の音声通信もつないでいません」
「へええ……返事のねえ友達相手に良くもまあ毎週手紙を書けるもんだな」
ジレッドは呆れたように言い、立ち上がった。
「駅の警備を強化するってんで、俺たちゃ最近詰めっぱなしなんだよ」
「それはご苦労様」
「全くだ。早いとこ動いてくれたら全部片がつけられんのに」
ジレッドははああ、とため息をついて見せた。
「人手が足りねえんだ。何度もそう言ってるだろう。あんたはいいよなあー、張り込みだのなんだの全部免除されてよお、綺麗なオフィスでふんぞり返りやがって。有能な部下に囲まれてるくせにサンドラ一人こっちに譲ろうともしねえ。あの人がなんも言わねえのをいいことに、調子に乗ってんじゃねえぞ!!」
「ですから――」
「うるせえよ!!」
ジレッドはいきなり足で応接セットのテーブルをひっくり返した。ガシャン! 耳を覆いたいような音がした。向かいに座っていたベルトランは寸前でひょいとよけ、「おいあぶねえだろ」とニヤニヤしている。
「ベルトラン、てめえは腹が立たねえのかこの女に!」
「そりゃ立つさ。暑くも寒くもねえ場所でのんびり遊んでやがりながらサンドラひとり手放そうとしねえ強欲ババアだ」
「ちょっと自分の立場を教えてやらなきゃいけねえよな」
「いいな。やるか?」
〈彼女〉はゾッとした。ヘイトス室長は地位もあり権力もあるが、腕力でジレッドとベルトランにかなうわけがない。
ベルトランもジレッドも、校長から直々に仕事を任されるという特権的な立場に胡坐をかいて、ほしいと思ったものはすべて強奪してきた。道理をわきまえて我慢をするなど今まで一度もしたことがない。サンドラ=ウィードという将来を嘱望された女性のキャリアや立場など、自分たちの欲望の前には取るに足らないことだと思っている。ヘイトス室長などちょっと脅せばすぐに言うことを聞くと思っているのだ。
二人のその不穏な会話の間、ヘイトス室長は微動だにしなかった。軽蔑しきったように二人を眺めていた。
ベルトランが腕まくりしながら室長の方へ向き直った瞬間、彼女は言った。
「お忘れのようね。まあその残念な頭じゃあ、私が誰なのか覚えていられなくても無理はないわ」
「んだと!?」
「ジレッド。あなたはベルトランよりはマシだと思っていたけど」くくっとヘイトス室長の喉が鳴った。「とんだ見込み違いだったわ。保護局員の事務方をまとめているのは私ですよ。それがどういうことか、わからない?」
ジレッドは少し考えた。
「事務方が――なんだってんだ」
「本当に残念なおつむだこと。〈アスタ〉、緊急コード690。清掃隊のシュテイナー班長を呼びなさい」
『はい』
〈アスタ〉が答え、ジレッドは身じろぎをした。
「清掃隊が――なんだってんだよ」
「汚らしいネズミが出たんですもの」
「ふ――ふざけやがって! あの人の命令を実行してんのは俺たちなんだぞ!? てめえは書類仕事しかしてねえくせに偉そうに、上から見下すんじゃねえ!!」
だん、とジレッドが出し抜けに床を蹴った。
一瞬でデスクまでの距離を詰め、手をたたきつけて吠える。
「気にいらねえんだよてめえは――!」
その瞬間横合いからベルトランがヘイトス室長に襲いかかり、室長は、存外素早い動きでデスクの上に飛び乗って避けた。すこん! とベルトランの頭にたたきつけられたのはハイヒールだ。「てめえ!」ベルトランは怒って腕を振り回し、ヘイトス室長はもう一足のヒールを投げた。と同時に、小さく縮められたものがもとに戻るときにいつも聞こえる音がぽん! と響いた。ベルトランが吠える。
「ふざけんじゃっ」
「ベルトラン、下がれ!」
ジレッドの警告は一瞬遅かった。ばちっ! 破裂するような音とともに閃光がはじけ、ベルトランがぎゃあっと叫んだ。「いって……!」
ヘイトス室長の手に、いつの間にか、物干し竿のような細い棒が握られていた。
ストッキングがむき出しの足をデスクの上に踏みしめて、ヘイトス室長は竿を構えて冷笑した。
「本当に聞き分けがないこと。私の部下を……【魔女ビル】勤務の事務方保護局員を、まるで荷物みたいに簡単に移動させられるものだと思われては困ります。あなた方は確かにたいそうなお仕事をなさっているのでしょうが、それを支えているのは事務方ですよ? 早くお戻りなさい。清掃隊が到着するまでなら、器物破損は不問にして差し上げます」
「ベルトラン、その棒を奪え!」
ジレッドが叫んだ。
ヘイトス室長が持つ竿は、室長が握っているあたりにゴムが巻かれていた。ほかの部分は金属がむき出しだ。
ベルトランは獣のような咆哮を上げたが、竿の威力におじけづいたのは確かだった。ヘイトス室長が握るところ以外はすべて電流が流れるように設計されているのだとしたら、ゴム手袋でも持ってこない限り手出しが難しい。ジレッドもデスクに飛び乗ろうと隙を窺うが、ヘイトス室長はその手の辺りを竿で薙いだ。ベルトランがデスクをひっくり返そうと力を込めたが、デスクは床に固定されておりびくともしない。
そのとき。
くすくすくす……と笑い声が響いた。




