リデルvsスティシー
「やあフォルートくん、ラクロールくん。いい夜だね」
スティシーの左隣にいる(まだ名前も知らない)一人がそう言い、リデルは一瞬、迷うようなそぶりをした。
しかしすぐににっこり笑った。笑顔を鎧のように身にまとった。そんな印象の笑顔だった。
「こんばんは」
「カイマンくんは? まあ、今は大変なんだろうけど」
「……」
リデルはまた口をつぐんだ。そしてまた、にっこり笑う。
「確かに司法を司るカイマン侯爵閣下は今、お忙しいでしょうね。ヨルグ少尉は僕たちの課題遂行の邪魔をし、越権行為を働き、その上行方をくらませている。明確な軍規違反だ。閣下は事態を重く見られ、直々に陣頭指揮を執られていると聞いています」
「本当にそういう理由で忙しいのかな」スティシーは薄く笑った。「ヨルグ少尉がカイマン閣下の指示の元に操獣法試験に介入したとほのめかしたらしいじゃないか。校長先生が侯爵家に乗り込んだと聞いたけれど?」
「馬鹿馬鹿しい。少尉は苦し紛れの嘘をついたに過ぎませんよ。校長先生は確かに侯爵家に赴かれましたが、形式的な訪問だった。軍規違反者の罪状を知らせ、根回しするためだと聞いています」
「……ふうん」
二人の間に火花が散っているようだと、ラセミスタは考えた。
スティシー家とカイマン家は、多分同じくらいの家柄なのだろう。確かどちらも侯爵家だと聞いたような気がする。そして、決して仲良しではないのだろう。表だって対立することはなくても、少なくともスティシーの方は、カイマン家が万一失脚するようなことがあれば、内心喜ぶのだ。リデルとベルナは言質を取られないよう精一杯奮闘している、そういう感じだ。
そう考えながら足を踏み換えた。満載した盆の上からこの上ない芳香が立ち上ってきてラセミスタを打ちのめし続けている。このままでは飢え死にしそうだが、さりとて、スティシーとリデルはラセミスタとリーダスタから見て出入り口に向かう箇所を塞いでいる格好だ。下手に動いて隣をすり抜けるような真似をしたら、スティシーにつかまってもっと時間を取られるかもしれない、と思うと、なかなか動き出す勇気が出ない。
「それにしてもヨルグ少尉はどこへ逐電したんだろうね」
そう言ってスティシーは微笑んだ。
「きっとエスメラルダの留学生を恨んでいるだろうねえ……」
急にこちらに飛び火して、ラセミスタはギョッとする。リーダスタが冷たい声で言った。
「ばっかばかしいー」
「平民は黙ってろ」
取り巻き(左)が即座にそう言い、リーダスタは嘲笑う。
「そっちこそ黙ってろよ。家柄しか誇れるものがない、他にはなーんも持ってないって、声高に喧伝して恥ずかしくないの?」
「なんだと!?」
「平民だから黙ってろって? 家柄に守られなきゃまともに会話もできないってことだろ? 自分がどんだけ情けない発言してんのか、そんなでかい図体してまだわかんないのかよ」
「……っ」
「俺は同じ班だったんだ。操獣法に参加してもない、ヨルグ少尉の異常さを目の当たりにしてもないあんたらに、発言を封じられるいわれはないよ。恨まれる筋合いなんてこれっぽっちもラスにはないんだ」
「少尉は、明日の講義に現れるかも知れないねえ」スティシーはリーダスタを完全に無視した。「ヨルグ家は名門だから、君の思う以上に力を持っている。君はまずい男に目を付けられた。これから――恐ろしいことが起こらないといいけれど」
予言するような言葉につい、ぞくっとした。ヨルグ少尉に怒鳴られ、殴られ、首根っこをつかみ上げられ揺すぶられたのは、昨日のことなのだ。
「どうすればいいか教えてあげようか」スティシーが囁く。「……有力者の後ろ盾を得ることだ。明日の講義に私兵を配置し身を守るにはそれしかないよ。ふふ……リーリエンクローンはライティグの後始末で大わらわだし、カイマン家はヨルグ少尉に加担した嫌疑でやはり大変な時期だ。明日の講義には間に合うまい。……誰を頼ればいいか、もうわかるだろう?」
「ばかばかしい」リーダスタがまた言った。「ラス、行こう。時間の無駄だよ」
「お前は明日の彼女の講義の時までに、王立研究院の周りに百名の私兵を配置することができるのか?」
スティシーは冷たい声でそう言った。リーダスタは一瞬黙り、スティシーは微笑む。
「僕はできるよ。……家柄の力というのはそういうことだ。なんの力もないのは、どちらの方だろうね。平民のくせに、なんの力もないくせに、偉そうな口を叩くんじゃない」
「……んだと……っ」
「ヨルグ少尉は今、軍が指名手配しています。首都にはもういないと思いますよ。いたずらに同級生を脅すのはおやめください」
リデルがそう言ってくれ、ベルナが頷き、スティシーはせせら笑った。
「ヨルグ家のご当主は近衛の重鎮だよ。ゆくゆくは近衛隊長を任されるであろうと将来を嘱望されたお方だ。そんな方を、本当に、……近衛が本気で捕まえようとするだろうか?」
「……」
「なに、そう構えることはないよ。私兵が大々的に周囲を取り囲んでいるとあれば、ヨルグ少尉も君への手出しを諦めるだろう。今朝も言ったとおり、父がエスメラルダの話を聞きたがってるんだ。明日の講義の後に時間を取ってもらえたらそれでいい。夕食を一緒にどうだろうか」
息詰まる沈黙が落ちた。
ラセミスタは咳払いをした。
「……今朝お話ししたとおり、明日は一日中、既に埋まっているんです」
嘘だった。午前と午後に講義が入っているだけで、昼食は自由に取れるはずだし、夕方には寮に戻ってこられるはずだった。
しかしもはや、スティシー家に庇護してもらうために夕食を共にすることは絶対にできない、と思った。こんな脅しに乗せられて、屈して、守ってくださいと尻尾を振ると言うことは、これから全てにおいてスティシー家の都合を優先せざるを得なくなる。そんな気がする。百名の私兵の派遣と引き換えに失うものはとても重いだろう。スティシーは先日グスタフを、そして今、リーダスタを侮辱した。こんな人に頭を下げるなんて絶対に無理だ。
「ご心配ありがとうございます。でもあたしは校長先生を信じていますから」
「……後悔することにならないといいがね」
「なーんだ、つまりパパを喜ばせるために一緒に来てくれたらー、きっとパパが守ってくれるよぉーって言いたかったんだ? いい年してパパがいなきゃなんもできないのか、あーやだやだ。何が家柄だよ、あんたが自分で兵を出せるわけじゃないんだろうにえっらそーに」
リーダスタがそう言い、ラセミスタはギョッとした。「リーダスタ!?」
「女の子脅かして何が楽しいんだよ」リーダスタはひどく冷たい声で言った。「そうまでして一緒に来て欲しいのかよ。家の権力と金の力をちらつかせなきゃ、女の子ひとりまともに誘うこともできないのか。恥を知れ」
スティシーのこめかみがぴくぴくと神経質そうに動いた。
「リーダスタと言ったな。覚えたぞ。……この町でスティシーに楯突いた平民がどんな目に遭うか、そのうち思い知るだろう」
「あーハイハイ、大事な坊ちゃんを泣かせた悪い子はばあやとじいやが懲らしめておきますからねってやつ? だよなあーいままで全部親にお膳立てしてもらってたんだろうから、デートを断られるなんて初めての経験だろうしねえー。ほんっと恥ずかしいねアンタ」
ラセミスタはハラハラしていた。どうしよう、大乱闘に発展したりしたら。スティシーはぐっと奥歯を噛みしめ、取り巻きの二人が拳を固める。――と、吹き出す音がした。周囲にたくさん集まってきていた学生たちの中の誰かが、笑ったのだ。
「何がおかしい!」
取り巻き(右)が即座に怒鳴り、
「そりゃーおかしいだろー!」
そう言ったのは今朝リーダスタと一緒にいた、確かウォルターと言った人だ。なんだか小山みたいな印象の、ずんぐり太った人だった。
「あっはははははは、そっ、それがあんたらお貴族様のデートの誘い方っ、あっははははははは!」
「だっ、誰がデートなんぞ誘う――」
その反駁の声は周囲で一斉に沸き起こった大爆笑の渦にかき消された。ウォルターはかがみ込んで膝を叩き涙を流しながら笑っており、それに同調するように周囲を取り囲むかなりの数の学生たちが笑っている。スティシーは真っ赤になった。取り巻きのふたりはもっと真っ赤になっていた。口を開けて何か怒鳴っているが、あまりの爆笑の渦になすすべなくかき消された。
「行こーぜ、ラス」
リーダスタがそう言って、くいっと顎で出口を指し示した。
「え、え、ええ、はい、でも」
「ここはひとまずとんずらするのが得策だよ」
リーダスタはするすると人混みをかいくぐって行く。ラセミスタも満載された盆が許す限りの速さで後を追った。ウォルターら平民出の学生たちは上手にスティシーたちを煽り、ふたりの脱出にスティシーたちが異を唱えられる隙を与えなかった。ふたりは首尾良く食堂の外に出、リーダスタがふうっと息をつく。
「あのまま俺らが中にいたら、あいつら、平民たちの手前、引っ込みがつかなかったでしょ。だから逃げてやる方があいつらのためでもあるんだ」
「ふうん」
「ウォルター様々だな。後でお礼しとかないと。……早く行こう。俺まで飢え死にしそうになってきた」
そう言われてラセミスタは急に空腹を思い出した。
きゅうううっ、と腹が鳴った。ミンツならば聞こえないふりをしてくれただろうが、リーダスタは楽しそうに笑った。
「グスタフの腹も今頃そんな音立ててると思うよ」




